第1話 天使が見た2日間 8

 自転車で登校をすると、昼休みだった。一応学校には、『腹痛で午前中は出れない、午後から登校するかもしれない』ということにしていた。普段から仮病で休む、ということはしていなかったので、きっとお咎めはないはずである。

 教室に入ると、隣の白石の席は空いていた。おそらく、隣の教室の川崎のところに行っているはずである。机の上に消しゴムを置き、その間にメモ用紙を挟んだ。

「よう、今日はどうしたんだ」

 と遠野が声をかけてきた。

「ちょっと、ね」

「ちょっとね、じゃ、何も分かんねえよ」

「まあ、ね」

「その態度で、体調不良で休んでたわけじゃないってのはよくわかったよ。今日は俺、筆記用具を忘れちまって、青野から借りようと思ってたのに、来てないんだもんな」

「ああ、それは、どんまい。誰かに借りたの?」

 そういえば、四回も遠野に筆記用具を貸していたというのに、失念していた。

「そこは、まあ、ね」

「あ、分かった。五十嵐さんに借りたな」

「え、なんでわかったの」

「遠野の態度でなんとなく」

 四日分の『今日』で得られた知見である。

「財布も忘れてきてるでしょ」

「え、どうしてそんなことまでわかるの」

「それはともかく、結構忘れ物してるみたいだけど、昨日何かあったの」

「今日、青野がどうして遅刻してきたかを聞いたの、俺だったはずなのに、なんでいつの間にか俺が質問されてるわけ」

「まあまあ」

「青野が正直に答えてくれるなら、俺も正直に答えるのがやぶさかではない」

「じゅあ、いいや」

「おい」

 そろそろ昼休みも終わりのころに、白石が教室に戻ってきた。青野は彼女の机の上の紙を指さし、

「よろしく」

 と伝えた。白石はメモ用紙をとり、中を確認して、少し戸惑った表情で、青野に向かって頷いた。

 メモ用紙には、こう書かれていた。

『放課後、17時に屋上。返事をします』


 放課後、青野は白石より先に教室を出た。そのまま屋上へと向かう。手には、小さな紙袋。

 屋上への扉はほかのドアより重いが、その重さをいつもより感じた。緊張しているのだろうか。

 白石さんが来るのを待った。校庭を眺め、手元の紙袋を眺め、と青野は落ち着かなかった。時計を見ると、屋上に来てから一分しか経っていなかった。もう胡粉は待っていたように感じられていたのに。

 しばらく経って、といっても五分ほどだが、屋上のドアが開いた。中から、白石さんが出てきた。

「来てくれてありがとう」

「いや、私こそ、少し待たせてごめんね」

「そんなことはない」

 会話が途切れる。お互いに、何を切り出していいかが分からなかった。

「こういうのを、フランスでは『天使が通る』っていうんだってね」

 と、苦し紛れに、そして、本題を切り出すことへのためらいとして、青野は言った。

「面白いね。おしゃれな言葉で、気まずい感じを上手く消せてるって感じがする」

 そしてまた、ここに天使が通った。

「ごめん、そういう話をするために呼び出したんじゃなくて。その、昨日のことの話をしようと思ったんだ」

 白石は青野の言葉に頷いて、話の続きを促す。

「そう、まずは、お弁当、食べさせてもらったし、おいしかったから、そのお礼を、と思って。チョコを買ってきたんだ、これ、あげるよ」

 これで、お礼が重すぎる、みたいなリアクションを取られたら、その時は、もう一度やり直せばいい、とは思っていた。しかし、そんな生半可な気持ちで、これを渡すわけじゃない。いつのまにか、青野はそんなことを思っていた。

 白石は恐る恐るそれを受け取った。

「チョコ、ちょっといいものを、百貨店に行って買ってきてさ。何とかっていうブランドの、『オルフェウス』って名前が付いたチョコがあったから。白石さんにいいなと思ってさ」

 この情報は、『今日』の放課後に、百貨店に行って見つけたものだ。白石の下の名前は、『琴子』だから、まさに、名前の通りのチョコがあったから。渡すなら、これしかないと思ったのだ。

「あ、私の名前、ちゃんと知っててくれたんだね」

「まあね」

「そっか」

 校庭から、野球部の掛け声が聞こえてきた。練習が始まったらしい。彼らは、地方大会ではダークホース的存在らしい。甲子園も狙えるそうだ。エースでバッティングのセンスが光る同級生がいる。プロも注目しているらしい。

 そんなことはどうでもいいのだ。気持ちをさらけ出すことに対する怖さから目をそらしてしまった。昨日の白石が感じたそれの方がはるかにひどく怖いものに違いがないのに。

 だからこそ、僕は言う。伝えなければならない。

「でさ、昨日の、返事なんだけど……」

 青野は、言葉を紡ぐ。気持ちを伝える。

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