桃源郷の仙人(本編後日談)

 うぉぉぉん、うぉぉぉぉん、と、獣の叫ぶ声がする。この東の果ての地にまで来た、去るクシャトリヤ出身の男が、この世を呪うまでに深い愛と絶望の狭間に掏りきられて行く悲鳴を挙げている。

 カン、カン、カンと、その叫び声と話すように、骨を叩く者がいる。

「御免下さい、御免下さい。」

 二人の漢族の者が、骨の音を頼りに、その小屋へやって来た。こんこんこん、扉を叩くと、少しだけ扉が開けられる。中に誰がいるかは分からない。

「ここに、骨の楽器を持つ印度人がいらっしゃると聞きました。貴方がそうですか。」

 扉の奥に居る者は答えない。カン、カン、と、その間にも骨を叩く音がする。その音は紛れもなく、隙間から零れていた。

「わたしたちは、昨夜夫婦の契りを交わし、生まれ育った故郷から旅立った者です。この先にいらっしゃる仙人様にお仕えするべく旅だったのです。どうぞお引き合わせください。」

 扉の奥の人物は答えた。

「この先に門がある。そこを護る天仙が、剣と炎を持って、お前達を裁くだろう。そこまで二人で手を取り合って進みなさい。」

 そう言って、扉の奥の人物は扉を閉めた。


 暫くして、また扉を叩く者がいた。

「御免下さい、御免下さい。」

 二人のきょうだいが、骨の音を頼りにやってきたのだ。また少しだけ扉を開けようとして―――すわ、彼は驚いて扉を全て開け放った。

「ここに、骨の楽器を持つ印度人がいらっしゃると聞きました。貴方がそうですか。」

「………―――?」

「?」

 彼は何がしかを言いかけたが、きょうだいには何のことか分からなかった。彼はじろじろと二人を見て、尋ねた。

「お前達、きょうだいか。」

「全て故郷に棄てて参りました。」

「この先にいらっしゃる仙人様は、私達のような者の為に楽園を整えておられると、旅のふうふから聞いたのです。」

「………。お前達、名は。」

 二人は首を振った。だが彼から見れば、男の方は石工のようであったし、女の方は弓使いのようであった。彼はじっと二人をもう一度見つめ、小屋に入るように言った。

「長旅で疲れているでしょう。あつものを用意しますので、召し上がって行ってください。」

 彼は早鐘のように打つ胸を手で押さえながら、竈の残り火に息を吹きかけた。

「ねえ、先生。この骨は何?」

「こら、そう人様の家のものをじろじろと見るんじゃない。」

 女の方は年若く、まだ知らない事も多いようだった。男の方は壮年とまでは行かないが、落ち着いている。ただそれは早熟ではなく、年相応に落ち着いていると言っていいだろう。女はその骨が気になるようで、触れないように、色々な方向から見つめて観察している。

「…持って行きなさい。」

「え、なに?」

「その骨は、鳴り物の楽器です。叩くと顎骨と歯が振動して鳴る。貴方に差し上げます。」

「わあ、嬉しい! ありがとう!」

「こら止めなさい!」

 女は無遠慮に、無邪気にその楽器を手にとり、早速打ち鳴らした。

 カーン、カーン。

 カーン、カーン、カーン…。

 音程も何もない、滅茶苦茶に振り回しているだけのその音に、彼は聞き入って、あつものを温める鍋が噴きこぼれる寸前まで、その様子を見ていた。慌てて鍋を火から離し、椀に入れて二人に出した。女は席に座っても楽器を手放さず、上機嫌に片手で鳴らしながら、無作法に椀を啜った。男は頭を抱えて溜息を吐きつつも、上手だね、と、頭を撫でる。

「世が世なら、旅芸人になりたかったのだもの。」

「そう言う事を、お言いでないよ。」

 それを聞いて、彼は言った。

「私がお前達を、楽園の仙人の所まで導きましょう。」

「良いのですか。」

 男は豆鉄砲を喰らったかのように目を丸くした。

「構いません。私が貴女方を連れていかないと、ともすると仙人はお前達を間違えて殺してしまうかもしれません。」

「それはまた、どうして。」

「貴方方が、唯の男女に見えてしまうからです。何の憂いもない男女が、蜜月の旅行に、仙人の楽園を訪れたと勘違いしてしまうのです。」

「何か、供物が要ったのでしょうか。」

「要りません。強いて言うなら、その者が双子であることが条件です。」

「…???」

 二人は何のことか分からないようで、顔を見合わせた。彼はそれ以上は何も言わず、あつものを勧めた。


 彼は二人を伴って、小屋を出た。厳重に鍵をかける事もせず、笠を一つだけ被り、外套すら纏わなかった。薄くなった太陽の光が彼を照らすと、その瞳は兎のように赤かった。

「ねえ、あの人は龍なの? 瞳が赤いわ。」

「そうだとして、何になる? この方が何者であろうと、私達がどこへ行こうと、今更どうでも良い事だろう?」

「それもそうだった。」

 カンカン、と、女は短く楽器を鳴らした。ふと彼が足を止める。無言で女に手を差し出すので、女は骨の楽器を返した。彼は何も言わず、カーァン、カーァン、と、殊更大きく、長く鳴らした。何かに呼びかけているようだ。

「………。」

「………。」

「………。」

 カーァン、カーァン、カー………ァァン―――。

 山の間を、一匹の鯉が滝を登るように、音が昇って行く。応えるものはない。彼は何かをじっとりと考えた後、女に楽器を返し、歩を速めた。男は女の手をしっかりと握り、いきり立つ死の渓谷に彼女を浚われないようにしている。それを視線の陰から見やり、彼は益々、あの方にこの二人を合わせようと、逸った。

 沈みゆく太陽を追いかけ、地平線の向こうへ歩く。いつの間にか、山合いの雲に色がついてきていた。険しい岩肌を、二人はしっかりと手を繋いだまま歩く。

「ここです。」

 漸く、彼は歩みを止めた。ずっと狭い登り道だったが、目の前には、緩やかな坂が始まっている。黄金色に実った田園、逞しい大樹、四季折々の花が咲き乱れる小道のある、見事な里が目の前に広がっている。そこにある道は、全て黄金の太陽が姿を変えたと思しい、異国情緒溢れる宮殿に繋がっている。

「わあ…わあ…! ここが、楽園…! ここが! すごいわ、きれい!」

「ばか、良く見なさい!」

 走りだそうとする女の手を引きとめ、男が抱きすくめる。坂と足元の間に、人が漸く一人通れそうな、ぼろぼろの橋がある。その橋は剣山のような突き出した岩々の上に合って、踏み外したらしい男女が幾重にも折り重なって死んでいた。

「案ずることはありません。私が行けば、貴方方はそこへは入らない。」

 来なさい、と、彼は橋を踏み越え、青く光る坂に立っている。男はそっと女の背中を支えて、前を歩かせた。

「貴方も一緒に。」

 女が振り向こうとすると、ビシッと激しい音がして、橋が唸った。

「ほら、駄目だよ。先にお行き、わたしはすぐ後に行くから。」

「う、うん…。」

 恐々と手を離すと、女は一歩、二歩、三歩と歩き、対岸に渡った。それを見届け、男も後を追いかける。ふわりと風が吹くと、どこからか鳥の羽が飛んできた。

「おめでとう、貴方方は招かれました。安心して、あの宮殿に向かいなさい。そこに貴方方を解放し、新しく支配する諸王の王がおられます。その方は貴方方の婚姻を祝福し、式を執り行うでしょう。この坂を下りた所の湖に、鳩使いや漁師達がいるから、まずはその人に会いに行きなさい。」

 彼はそう言って、宮殿を指差した。二人は再び手を繋ぎ、走りだした。すると、何処からか歌が聞こえてきた。

 それは恋の歌だった。神に祝福された神の愛し子達が、命を慈しみ、自然を愛おしみ、大いなる愛の抱擁の中で、お互いを愛でる為の詩作に励む歌だった。歌は、愛を祝福し、せいなるものを祝福し、それに伴う全ての行いを赦していた。空には白い翼と長い髪、逞しい胸を持った楽師が舞い、地上にさざめく昆虫や獣がそれに応える。

 そこは正しく、言い伝えに在る通りの武陵桃源であった。


 幸せになった恋人達を見送り、彼は更に山深くに入って行った。

「お久しぶりです。」

 彼がそう声をかけたのは、獣と糞尿の悪臭が立ち込める洞窟だった。その洞窟からは二本の川が流れていて、一つの川は良い薫りがする清涼な水で、もう一つの川は酷い悪臭が立ち込め、水も茶色く濁っていた。彼はそれらに怯むことなく、洞窟の中に入って行った。

 洞窟の中は腐乱した肉の張り付いた骨が転がり、それを食べたらしい鼠が死んでいた。凡そ、人はそこに住めるものではない。

 棲むとしたら、それは獣だけだ。

「お答えが無かったので、さいごの拝謁に参りました。」

 そう言うと、『それ』は唸って答えた。暗闇に慣れてきた目が、毛むくじゃらの猿のような生き物が倒れているのを見つける。

「貴方様に会おうと、貴方方のような恋人たちが、多くあの小屋に参りました。彼等の存在は、貴方様を慰めたでしょうか。貴方様の嘆きは、少しでも癒されたでしょうか。」

「ウウ。」

 猿は唸った。

「この地にまで流れ着きましたが、あの地のあの演説以降、貴方様に神が言葉を下さる事は無かった。愛しの君を胸に抱いて、それらを奪った不遜の輩を赦す時、貴方様を救う善神はいなかった。愛しの君を思い描いて、奪ったように奪い返した時、貴方様を満たす悪神はいなかった。人である事すら捨て、貴方が護ろうとした愛を、終ぞ理解する者はなく、今貴方はこうして死のうとしている。双子の男として産まれていたこと、それでいながら祝福されたこと、何もかもを忘れては、獣の道に落ちても、それでも貴方は幸せにはなれなかった。貴方の口から聞こえるのは、この世を呪う獣の雄叫び以外の何ものでもない。こうして死に瀕しているのに、その口からは生への執着が無い。あの方は間違いなく天の宮殿にいましているのに、貴方の心は肉に捕われて解放されない。」

「オウ、ウウッ。」

 猿が身を捩る。彼は続けた。

「こんな結末を迎えて、貴方様は幸せな生涯でしたか。泡沫の団欒と幸福を得て尚、貴方様の生は惨めではなかったでしょうか。―――双子に生まれついた者が、死ですら別つ事のない二人を認め合った者が、その片割れを遺して逝く時、どうすればその者が幸福に生きるのか、愛を見出すのか、その問いかけに、私はあの小屋を設け、貴方はこの清流とその寝床にしている麻生を使った。それで、良い答えは見いだせたのでしょうか。―――桃源郷の幻を見た彼等は少なくとも、幸せそうな死に顔でした。この世の生を捨て、死に方を選んだ彼等は、最後に神に受け入れられたと喜んで、谷底に堕ちて行きました。けれど私は、その『神』が善神なのか悪神なのか分かりません。だって―――貴方様は救われていないから。唯一である筈の神に、貴方様だけが、救われていないから。」

 伸ばされた猿の腕を、彼はそっと拾い上げ、だにや蚤が飛び跳ねるその掌を愛おしげに頬に当てる。指先からは、この厭世者の激しい嵐のような人生が伝わってくる。その傍らにいつもいた彼、そしてある時現れ、心を癒し、人生に最も彩りを与えた者、その者への深い愛情―――。

 きっとその人は、どこまでも崇高に、畜生の生を選んだこの人を愛していたし、愛についてもずっとよく知っていたし、実践していたのだ。あの人こそは神の使い。どこぞでくたばったという職人とは違い、自分達を確かに導いた聖なる人。それでいながら、悪魔との戦いに―――否、戦わずに死んだ、罪深い人。

 あの人は死ぬことを恐れなかった。恐れなさすぎた。自分を愛する者を遺して逝くことよりも、己の救い主の意志を優先した。向けられた凶刃を防がず、寧ろそれを向けた者ごと、心から受け入れていた。だがそのような行いが、何故、この人を救っただろうか。

 ―――愛し合う事は罪ではない。愛し合う事を罪と定める事は傲慢である。自分の望む社会の為に、愛の秩序を乱してはならぬ。人間が人間を愛することを否定してはならぬ。神の前には男も女も、子供も年寄も皆平等に愛されるべき人間である。人間が人間を愛することは神の喜びである。―――

 全能の神よ、どうかこの獣に愛を授け給うた神よ、我が呪詛を受け入れ給え。

 汝が与え、汝が奪い給うたこの火が消えた時、その懐に控えた彼の妻を遣わし給え。


 その時こそ、我等は主従の限りを越え、汝が赦し給わざる大罪によりて、汝を奉らん。

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