まどろみにこころみて(双子の男第二章外伝)

 『供をせよ』というので、王弟に従い、拝火教の神殿に入った。案ずるな、きちんとした作法だ、と、王弟の笑った顔が、どこか遠くに見え、地面が歪み、清めの水が凍りついたように冷たい。それでもどうにか気をしっかり持って、寺院の中について行った。中心には、ゆらゆらと揺蕩うような炎が鎮座している。王弟は何を言うでもなく、火の傍に座り、隣に座るように促す。ふらふらの足取りでそれに従うと、組んだ脚の上に引きずりおろされ、頭を押さえつけられた。

「で、殿下?」

「ここなら邪魔も来ぬ。…お前、この頃碌に寝ておらぬだろう。われが見張っておる故、暫し身体を休めよ。」

「あの、それなら、この体勢でなくても…。」

「良いから寝よ。」

 ぎゅ、と頭を押し付けられ、仕方なく膝枕を受け入れる。乗馬で鍛えられた太腿は硬く、強い弓を引き絞る掌は分厚かったが、呼吸に合わせて梳く様に動かすその手に眠気を誘われ、あっという間にイシャは眠りに落ちた。


 すう、すう、すう、と、穏やかな寝息が聞こえている。その緩んだ、微笑みすら浮かべているような口元、緊張の解れた頬。その寝顔の主は、さぞや心安らかに眠っているのだろう。胡坐をかいた足首の上に首筋を乗せ、器用に背骨が曲がらないようにしている。旅に慣れているからだろう。僅かな時間でも疲れを取るために、最も効率的な体勢を取れるのだと思う。

「………。」

 改めて、自分の温かな下肢に身を任せているイシャを見下ろす。何のために気疲れしているのは分かっているつもりだが、自分にはこうして、一人で休ませてやることくらいしか思いつかなかった。それくらいに、彼女を御すのは難しいし、またその悋気を治めるように無神経に突き放すことも出来なかったのである。しかし誰も、自分を冷徹とは言わない。

 当たり前だ。自分はこのパルティア国王の双子の弟で、王位こそ得られなかったものの、自分の子供が兄王の養子になれば、その子は王に成れる。妻に至っては、現国王の一人娘だ。パルティア国王が遠征でいない今、王弟である自分が国を乗っ取る事は造作もない。

 しかしながら、王弟は妻を更に娶るつもりはなかった。子供を一人、産ませたなら、どこへでも好きな所へ、妻と言う雛鳥を放してやるつもりだった。

 双子に生まれついた自分には、それしか解放される道が無い。王家に生まれた双子というだけで、自分の幸せは、自分に子孫がいなくとも、本家の者達の子々孫々に受け継がれるだろう。

 しかし王弟の勘が正しければ、イシャも又、双子であることに相違ないのだ。そしてもしそれがそうであるならば、王弟はこれ程嬉しい救いはない。イシャが自分を、『妻帯者の貴人』としか見ていない事も分かっていたし、それによって苦しんでいる事も分かっていた。

「イシャ…。」

 声に出ているか出ていないか、それくらいに小さな声で、足首の上にふさふさと乱れた髪を梳く。・背中の真ん中あたりまで伸びた髪を切らないのか、と、聞いたことがあった。その時イシャは何と答えたのだったか。イシャとの会話は何一つ忘れたくないと言うのに、妃に世継ぎをせがまれればせがまれる程、イシャとの柔らかな安らぎまでもが浸食されて行く。未熟で、不安なのは妃の方であろうに、自分と言う者はどうしたって身勝手が過ぎて、彼女を最優先にする事が出来ない。

 仕方が無かろう。どう言い繕おうと、イシャを、イシャこそを―――。

「ぷしゃっ!」

「む、寒いか。」

「………。」

 ぼんやりとした眼を頬の肉で擦るようにして、イシャがとろんと見上げてくる。

「………、王弟、殿下…。………んー…おうてい…。」

 まだ眠いのだろう。安らかに眠っていたようだが、ここ数カ月の激務と心労は、数回の昼寝で取れるようなものではない。頭が動かず、小動物のようになっている今のイシャにならば、誘惑のような嘆願が届くかもしれない。

「おいで。」

 処女だった妃と床を共にした時と同じように、両手を広げ、舌も口の中で広げ、ぺたぺたと幼児が歩くような声を出す。イシャはぽんやりとこちらを見ると、手をついて近づいてきた。

「…ゃーん…。」

 それは何か動物の鳴き声というよりも、幼い子供が添い寝をねだるような、抱擁をねだるような声だった。四つ這いになって甘えてくるイシャの顔を腹に抱いたが、その唇に口付ける事だけはどうしても出来なかった。

「みぃみぃ、みぃみぃ。」

「…みー…いぃ…。」

 こういう時は、下手に人間的な言葉を使うよりも、耳に心地よい音を出す方が良い。結局まだイシャは眠く、身体は睡眠を必要としている。寝言を繰り返すように、暗示をかけるように、みぃみぃ、みぃみぃ、と、鳴いて、長い髪を撫でつけ、着崩れた衣の隙間に目を行かせないように気を付ける。

 妃が見たら怒り狂うであろうし、もし自分がそんな会話にもならない音の交錯を愉しんでいると知った家臣が居れば、イシャが起き出す前に斬り伏せて蛇の巣のある岩場に突き落とすだろう。それくらいには恥ずかしい自覚はあるし、幸せな自覚もある。くるんと丸まった身体が、イシャの本心を覆い隠すように、胸と両腕を隠している。起こさないように、上を向いている右手に手を添わせ、呼気で湿った指先に自分の指を絡ませた。

「イシャ、イシャ、イシャよ。目を覚まさず聞くが良い。お前はわれの近習になろう、きっとなろう。その時までわれはお前を待つ自信があるぞ。何せお前も私と同じ、双子だと知っておる故にな。逃さぬ、逃さぬ、お前はわれの許へ来るのだ。」

 そうして、そうして、われを救ってくれ。

 寄り添う人のいない、双子に生まれついた男を救ってくれ―――。

 きっとそれは、神の御言葉だったに違いない。


 イシャは月の光の中に素足を差し入れ、王弟と二人で夜空を見上げていた。

 何となく、何の確信もなく感じる。この世界には、自分と王弟しかいない。しかし、ここでは何をしても許されるという、悪寒もする。

 ここは、偽りの愛の世界だ。

「イシャ。」

「はい。」

 それでもよかった。真の愛はイシャの胸の中にあるのであって、王弟からも求めるものではないからだ。けれど、偽りの愛に溺れることは防がなければなるまい。溺れさえしなければ、王弟はどこにでも愛を見つけに泳いで行ける。況して彼には、妃がいるのだから。それも、彼女が産まれる前からの許嫁で、彼女が子供の時から、叔父姪以上の関係になる者同士、育って来たのだ。

「イシャ、われはお前を愛している。」

「はい、聞きました。」

 イシャは空を見上げたまま答えた。

「だがお前は、子を産めぬ。」

「はい、そう申しました。」

「それでも構わぬ、われは今、お前を輝くばかりに愛している。われの妾として、この地に留まれ。」

 『妾になれ』。その言葉を聞いたなら、普通は何と答えるのだろうか。イシャには分からない。

われは国王の弟として、国王の一人娘を娶り、次代の王を産ませねばならぬ。故にイシャ、お前が石女うまずめであるならば、われは妃を捨ててお前と共に居ることは出来ぬ。だが、われは妃よりもお前を愛している。」

「………。」

 都合の良い事を、と、怒るべきだろうか。イシャは所詮異邦の職人に過ぎない。地位のある貴人に恋をし、恐れ多くも愛されたとて、そのたった一人になる事は出来ない。


 況してイシャは、イシュの双子なのだから。


 その厭世的な達観が、けれども王弟のご都合主義の誘いを、より甘く仕立て上げる。

「殿下、申し上げた筈です。妻のある人は、妻に心を尽くさなければなりません。殿下、貴方様の今仰せになった事は、愛の告白ではなく、ただの責務から逃れたいことへの言い訳でございます。」

われが遊びや冗談で、お前を愛していると申すか。」

「いいえ。わたしは王弟殿下が心からわたしを愛して下さっていることを知っております。だからこそその求愛は受ける訳には行きません。そうしなければ貴方を堕落させ、破滅させ、妃殿下を苦しめます。」

「何故お前は、自分の幸せを受け取らぬのだ。われはお前を愛している。お前を幸せにしたい。決して苦しませないとも、煩わせないとも言えぬだろうが、苦しませようとしたり煩わせようとしたりすることはせぬ。誓ってせぬ。われが言葉を信じぬのか、イシャよ。」

「―――はい、信じておりません。」

「何故だ。われを愛していないのか。」

「………。いいえ、王弟殿下をお慕いしております。それはこの場がどのような場所であれ、変わりません。」

「では何故、この言葉を信じぬ。」

 それは、と、イシャは初めてそこで、王弟の顔を見た。

 嗚呼、なんと不安そうな瞳、なんと不安そうな眼差し。そのように取繕えば、イシャの良心に訴えかけられると思っているのだろうか。嗚呼、なんと浅ましい、愛を求める欲なのか。自分の中にある、その愛に応えたいという望みを、葦の葉のように儚く揺らめく望みを見透かしてくる。

 しかし、その葦が如何に強固に根を張っているのか、『奴』は分かっていなかった。

「今、私の目の前にいるのは、私を誘惑し、坊やへの贖罪を断念させようとするサタンだからです。」

「なんと、われは悪魔に誘惑されてお前を愛していると申すか。」

「いいえ、そうではありません。王弟殿下は本当に心から、純朴な愛を私に向けて下さっています。そうではなく、今二人でいるこの世界が幻で、貴方は王弟殿下の姿を借り受けた悪魔だと申しているのです。メシアの名のもとに、下がれと言われれば、貴方は下がらざるを得ない。何故なら貴方は、メシアの力に強く拘束されている存在で、人間のように自由意思を最大限に認められている存在ではないから。ですから貴方に言いましょう、『今すぐ下がりなさい』と。」

 王弟の姿をした悪魔だ、と、言われた、イシャの目の前の人は、唇を震わせながら答えようとした。イシャはその言葉を言わせる前に、畳み掛けた。

「何と言う事でしょう、わたしはこのようなことも出来ない程、メシアへの信仰が足りないと、仰せになるのですね、我が主は。ならば私は繰り返すしかありません。―――メシアの名によって命じる。今すぐここから去り、二度とわたしの前に現れるな。」

 王弟は忌々しい顔をすると、炎で蝋燭が溶けるように消えて行った。

 イシャはしかし、悪魔を去らせた神の力を讃える事はなく、未だ消えずに浮かんでいる月を見上げ、涙の代わりに声を上げた。

「嗚呼我が主よ! 貴方はあの罪を裁かなかったのに、どうしてわたしを試すのですか! 貴方は裁かなかったではないですか、わたしの罪を! そしてわたしの心に祝福を授け、このパルティアへ貴方が連れて来たのではないですか! わたしは心にあってですら不貞を犯すまいと、貴方にお祈り申し上げて、イシュの囁きですら退けて、悋気を起こさないように毎日齷齪あくせく働いて、天に宮殿を造る為に働いているのに、まだ何をお求めですか。わたしは貴方の信仰の声に従い、イシュの理性と感情の声を退けているはずなのに!」

 月は答えず、黙っている。そこにメシアがいるとイシャは分かっている。手を伸ばし、答えを聞こうとしたが、その腕は自分の顔を覆って、涙を月から隠した。

「もうおやめください、わたしは、わたしは妃のいる王弟殿下を求めません。あの方の愛を受け止めながら、あの方の愛情を拒んでいるのです。それがどれだけ苦しい事か、貴方はご存知の筈。いくら貴方が双子の男でなかったとしても、双子に生まれついた、生まれついてしまった私たちの苦悩も悲しみも貴方はご存知で、凡夫から求められるありとあらゆる償いを、貴方があの十字架で贖って下さったのだと、わたしは信じています。わたしが裁きを望んでも、貴方は坊やとのことを裁かれなかった、それこそが貴方の贖いと愛が完璧である証、そうではないのですか。わたしは姦淫の罪を犯しません。絶対に、王弟殿下を拒み続けると心を強く持っているのに、貴方はその心を祝福して下さらない。だからこんなにも悪魔の誘惑が多いのです。どうして何度もわたしを試すのですか、もう十分ではないのですか。貴方は陰湿な裁きではなく、徹底的な炎の裁きをもたれる筈。どうかわたしをお守り下さい。悪魔の誘惑を退ける自信はありますが、イシュの誘惑はあまりに魅力的なのです。ただ一言、妃殿下が羨ましいというその一言を耐えている事を、どうして顧みてくださらないのですか。―――わたしが人を愛することが、そんなにも罪深い筈が無い!! だって貴方は、わたしを裁かなかったのだから!!!」

 きっとそれは、神の御意思だったに違いない。


 『双子の男Ⅱ 夢枕の二人』へ続く 

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