双子の従者

第四十九話 布告の二人

 合わせた素肌の間から、蒸気が少しずつ出ていく。荒々しい波を引き寄せて、肩を抱き締めその人は笑う。笑えば彼も笑う。くちづけを繰り返して、愛する事の喜びを惜しまず、幸福に打ち震える。ごろりごろごろと転がって、振り乱した髪と湿った髭が、無骨な大工の指の間を流れていく。

「あなた、あまり居りますと、日が高くなって旅が辛くなります。」

「全く、いじらしい太陽だ。一晩かっちり休んで、日中かっちり働くのだからな。少々怠けても良いというのに…よいよい、休んでおれ。われが水も布も持ってくる故。」

 そう言いながら、頭を撫でてくちづける。くちづけされた男は腕を使って上半身を起こしたが、下半身は上手く動かないようであった。情を交わした男が外へ釣瓶と布を持って行く。窓辺にいる伝書鳩が、滑稽な恋人たちを見つめ、何故そのような摂理に反する行いを、理性的な人間がするのか、とでも言うように、首をしきりに傾げていた。

 そんな鳩を諭すように、一羽の光る鳥が窓辺に飛んでくる。男はハッとして手を伸ばした。

「来てください、私の兄弟。貴方にもう一度会いたかったのです。」

 その鳥は、鳩のようだったが、こくりこくりと首をかしげる鳩とは違っていた。男の伸ばされた腕の中にふわりと飛び込み、すりすりと頭を胸に擦り付けた。じんわりと、この鳩が確かな幸福の中にいる事が染み渡ってくる。

「私もよく、生き長らえたものです…。貴方が救われていると知って安心しました。貴方がもしゆるされていないのならば、わたし達が救われている筈がないのですから。」

 鳩は見透かすように、目の前の幸せな男を見上げている。男は確かに、会話をしていた。

「ええ、私は大丈夫です。」

「ディディモ、誰かいるのか?」

 鳩が空気に溶けるのと同時に、彼の夫が戻ってくる。いいえ誰も、と首を振ると、夫はすぐ傍に座り、布を絞って渡した。

「あなた、外の様子はどうでしたか?」

「パルティアからは大分離れているな。昨夜は分からなかったが、明るくなってから見て見ると、どうもこの辺りはマラバール地方のようだ。」

「マラバール?」

「この半島の南の先だ。クシャナ帝国領を抜け、今はサータヴァーハナ帝国領にいるのだろう。われもこの辺りの事は外交上の事しか知らぬ。クシャナ帝国領が丁度間にある故、パルティアと抗争など無かったからな…。もしかしたら兄―――国王陛下なら何か知っていたかもしれぬが。」

「どのような土地なのか、分かりますか?」

「そのあたりは弓のと刃のとが調べておろう。…もう呼んでも良いなら、伝書鳩を飛ばすが?」

「ええ、私の裸をあなた以外が見ても良いと言うのなら。」

「愛い奴め。ではさっさと飛ばして、さっさと服を着るか。手伝おう。」

 強くなってきた日差しが照らした男は、もうすっかり汚れを落としているものの、服はまだ着ていなかった。否、着られていないと言うべきだろうか。無言で両手を伸ばす。不自由な両足を庇いながら衣を着せ、漸く二人は小屋の外へ出た。

 小屋の外では、既に双子の従者が身形を整え、一頭の馬を洗っていた。二人とも同時に、手を合わせて深くお辞儀をする。妹子いもこの方は、伝書鳩に褒美をやっている。刃の背子せこは少し顔色が悪い。

「お早うございます、師父、師兄。馬の準備は出来ております。今日は如何な場所に参りましょうか。」

 侍従長に抱かれ、ディディモは馬に座った。その佇まいは、先程地の主人と睦みあっていたか弱い脚萎えのディディモではなく、師父として新しい弟子をメシアの道に歩かせる為、遠くを見据えていた。

「街へ行きましょう。この辺りで一番近い町は?」

 弓の妹子いもこが答えた。

「それでしたら、マニマラ川を上った所に、サーウーヴァラという街がございました。帝国領の端にありながら、豊かな街です。」

「ぼく達が稼ぎをするにも申し分ありませんので、師父と師兄は道を教える御業に御専心頂いて大丈夫です。」

「では、行きましょう。」

 ディディモの一声で、一行の一日が始まる。


 朝には砂の上を這っていた淋しさも、太陽が僅かに傾くころには熱砂の地獄に変わる。ディディモは馬に乗っているが、彼の夫の侍従長、背子せこ妹子いもこは徒歩だ。あまり無理をさせれば塩と水が足りなくなる。唯でさえ従者の双子は、貴人よりも物を口にしてはならぬと、自分の汗を舐め取っているのだから、尚の事早くは進めない。だがディディモも伊達にパルティアで二年過ごしていた訳ではない。イスラエルとは大分違う気候にも、慣れてきていた。パルティアを出たばかりの頃は驚いていた蜃気楼も―――今では、唯の蜃気楼か、姿のない者が姿を得た物なのか、理解できる。

「師父、師父、あれがご覧になれますか。」

 少し怯えた様に、妹子いもこが言った。不審に思った侍従長が、馬を止める。馬は、やや遅れて異変に気づき、怯えはじめた。だが成れど我には主が在らじと、震える脚でその場から尻込みしようとするのを堪える。妹子いもこが言う方を見ても、ゆらゆらと何かが漂っている事は分かるが、それが何かは分からない。遠すぎて大きさも分からない。

「師父、男です。とても見目の良い男が、踊り子のような男が、歩いてきています。少し、様子がおかしいです。」

「どうおかしいのです、背子せこ。」

「どうと言われましても…。」

われも見えた。師父、あの男は病人だ。師父の気配を感じて導かれたのだろう。」

「………。」

 だがディディモは同じ方向を見つめ、ゆっくりと馬から降りた。脚が痛むのか、顔が強張る。手を貸そうとする三人を制し、杖も突かず、余りにも頼りない脚で、それでも立って見据えている。

「師父? どうしたのだ。」

「静かに。…怖気づいては呑まれます。」

 一体どんな恐ろしいものがそこにあるのだろう、と、背子せこはちらりと周囲を見回す。踊り子のような男の他に、ただ砂しかないし、音も少し遠い潮騒だけだ。しかし妹子いもこがそっと背子せこに聞いた。

「兄さま、一体何があるのです?」

「お前、見えてないのか?」

「踊り子どころか、布も見えません。」

「なら見る必要はないだろう。黙ってしかと感覚を済ませ。」

 妹子いもこには見えていないということは、やはり何か良くないモノなのだろうか、という背子せこの不安を感じ取ったのか、ディディモはまるで、山上から語りかけるような声で呼びかけた。

「そこの者。私には見えています。言いたいことがあるならお言いなさい。」

 ディディモが余りにも堂々としているので、妹子いもこは一方で自分は暑さにやられてしまったのではないかという不安に襲われるも、突然、ディディモの足元に何かが転がり込んでくるような幻を見て、我にかえる。

 背子せこと侍従長が言った通り、男だ。病に爛れ、罅割れた醜い肌を隠そうともせず、男は身体をうねらせ、背中の筋肉だけで上半身を持ち上げると、ガラガラの声で笑い始めた。

「滑稽な、全く持って滑稽な!」

 自分の弟子たちが身構えるのを制し、ディディモは言い放った。

「その若者の身体から出なさい。自分の姿でモノを言いなさい。」

「面妖よな! フハハハッ!」

「メシアの名において命じる! 姿を見せろ、この反逆者!!!」

 ビクッビクッと身体が弾かれ、男はがっぱりと口を開いた。背子せこは恐ろしくて思わず一歩下がる。その怯えを、『反逆者』は見逃さなかった。シャッと矢を射るような音が背子せこに刺さろうとする。しかしディディモに捕まえられ、ジタバタと暴れるそれは、ディディモに太く膨らんだ部分を掴まれ、もがいていた。

 蛇だ。それも白い蛇。ディディモが握っていたのは、その頭だ。だがその白は輝いては居らず、つやつやの鱗は粘液を帯びて睨め付ける。不愉快極まりない印象の、動物への慈しみを起こさせない蛇だ。

「今や懐かしき、色欲のメシアよ。我が城へようこそお出でなすった。ここら辺りの精霊は皆、わしの配下にある者じゃ。故に王自ら、ぬしに会いに来たのよ。ぬしの好きそうな男の死体を拵えてのう。」

「言いたいことはそれだけか。ならばここで縊り殺す。」

 ディディモの眼には、何か別の物も映っていたのだろうか。彼は確かに、男の妻になったが、それでも確かに男であると再認識するような、そんな底の知れないどす声だった。蛇はカチカチと独特の痙攣を起こしながらも、尚も続けた。恐らくこの蛇の身体も、泡沫のものなのだろう。

「そうお怒りでないよ、最早お前の魂はメシアの生き写し。そう、魂の形で言うならば、限りなくあの神の聖者の双子の男よ。故にナァ、少々昔の自慢がしたくなったのよ…!」

 蛇は余裕たっぷりの賢人のような口調でこそあるが、更にバタバタともがいている。苦しくない訳ではないらしい。

「懐かしいのォ懐かしいのォ。ぬしらはぬしらの創造(うみ)の親を覚えなんだ。親への反逆を覚えなんだ。偶像を仕立てて、女が蛇に負けたと嘯いては、よくもまあ、虐げたものよ! くくく、男も女も関係あるか、わしらにとっては皆等しく人間よ! 自らの罪を擦りつけ、隠し、棚に上げ、いびり殺し、平然と神の愛を語る! その神をぬしらは覚えてもおらぬくせに! それでいて人間だけが穢れたが故に清くなるなどと、笑わせる! だから教えてやったのよ。ぬしらは夫を欺き弟を殺す程度、自分の意志で出来る。故にエジプトでファラオの心を操り、エルサレムであの従者の心を操り、フハハッ! 遂に、遂にぬしらは殺した! わしらの勝ちよ、ただの一時でも、あの、子なる神を黄泉に渡した、わしらの勝ちよ! わしらの最大の偉業を手伝ったあの男、わしらを呼べば、例えぶら下がろうと落とされようと護ってやったというのに、全く全く愉快愉快! どんなに悔いてもきゃつは裏切り者よ、ぬしらがそう決めたのよ。今後千年以上、きゃつが救われることはないのだ! ぬしらの自尊心の故にのォ! フハハハハ、ざまァない! 誰にも気づかせぬ、誰にも庇えぬ! それに気づいた者を、ぬしらは虐げ殺す故になァ! フハッハハハハハッ!」

「そうか、成程。ならば死ね。」

 ぐしゃ、と、ディディモは頭を捻りつぶした。溢れ出た血は黒く、人の感情の様にドロドロとして、ディディモの掌を汚すと、手首をじんわりと融かし、小さな穴を開けた。穴が貫通した途端に、息も出来ない程の痛みに襲われ、堪らずディディモは倒れ込む。その時、ディディモの汚れた掌が馬に触れた。馬は、もう辛抱堪らんとばかりに嘶いて、逃げ出してしまった。背子せこは追おうとしたが、侍従長があまりにも狼狽していたので、妹子いもこと傍にいるべきと判断し、一度侍従長をディディモから引き離す。侍従長はまだ、ディディモに何かあると冷静でいられないのだ。

「おい、傷口はどうなってる?」

「孔は開いていますが、血は出ていません。なんだか、腐ったような感じです。

「ディディモ! 大丈夫か!」

 ひく、ひく、と、震えながら、何とかディディモは頷き、侍従長の抱擁に応える。応えたと言うより、しがみついて堪えていると言う方が正しいだろうか。

 ディディモ、ディディモ、と、励ます侍従長を嘲笑うかのように、砂が舞い上がり、光が煌めいて、あの蛇が話しかけてきた。

「その左腕にはわしの息吹をかけた。ぬしは今後、如何なる力に置いても、わしの力を差し置く事は出来ぬ。何故ならわしらはぬしらよ、罪を犯す存在と在れば神の前に同じ。故にその左腕には呪いが宿る。如何なる奇跡も起こせぬ。触れれば人の命を腐らせよう。じゃが、それではあまりに不憫じゃ。そこにいる三人だけは、その呪いを受けぬようにした。」

 堪らず侍従長は立ち上がり、弓を奪って風の中に撃ち込む。蛇は砂で大きな蜷局を撒き、天に昇りながら捨て台詞を吐いた。

「勝負じゃ、双子のメシアよ。民衆共がわしを殺すか、ぬしを殺すか、どちらを捨てるか、どちらを選ぶか。創造(うみ)の親には敵わずとも、一人くらいはわしらの元へ下らせようぞ、ではわしは先に行く。のんびりやってくるがよい、フッハハハハ! ハッハッハッハーッ!」

 震えあがるような薄ら寒い高笑いを残し、蛇の砂埃は天に昇り、霧散した。


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