第五十話 堕落の二人
ディディモの高熱は、ただ灼熱の太陽と砂に挟まれただけではなかった。その証拠にディディモは、黒く抉れた手首をきつく縛り、肘を縛って毒が回らないように祈っている。手首は全て壊死するのではなく、本当に何か、指程の太さの鋭いものが貫いたかのように、貫通したまま穴は大きくならない。きっとこれが、あの蛇の呪いなのだろう。
更に不味い事に、あの神への反逆者―――サタンの思惑通りだったのか、道を見失ってしまった。川が途中で干上がり、水の跡を頼りに歩いているのだが、どう考えたって一日もかからず辿りつくはずの距離に届かない。実際、
そして三人ともそれを理解していたので、文句を言わなかった。敢えて不満がある事と言えば、先程怯えて逃げてしまった馬のことだろう。
あの馬は、双子の従者の一族の長が、パルティアで教えの防人となる事の誓いとして、送られたものである。つまり王弟の愛馬や、その子供ではない。王族を離れる人間が、王家の資産を持って行く訳にはいかないからだ。それに狩りだけしか知らない、胆力のない馬など旅の邪魔である。愛馬は置いてきて、刺客が使う小さくて力持ちで速く駆ける、それも仔馬を一頭だけ貰って来たのだ。一族が自分達を戒める為にも受け取って欲しいと言うので、ディディモはそれを受け取ったのである。
が、現実はこれである。馬の身で一度は恐怖に打ち克ったということを理解しているのはディディモだけであったが、そのディディモは衰弱している。
「現身の使者よ」
咄嗟に
「そして、その家族の者よ。どうか今一度、私に神の輩を乗せる栄誉を。」
ろばはそう言って、頭を低くしたまま近づいてきた。侍従長は半歩引いて、そのろばに巣食っているモノが何なのか見定めようとする。が、まだ侍従長にはそのような眼が与えられていなかった。
「刃の、弓の。
「師兄に同じです。」
「兄さまに同じです。」
と言いつつも、本当に聖なるモノが宿っている可能性も否定できなかった。未熟者とは雖も、神の道に生きると決めた者でもある。そこにあるものが澄みきって透明なものであることは分かっているが、その透明なものが砂の中から滾々と湧いているのか、それとも死体の沈殿した沼の上澄みなのかが分からなかったのだ。
「貴方は誰ですか?」
ディディモがそう尋ねると、ろばのミイラは答えた。
「私は古の預言者を背に乗せた者。彼はその後道を違え、使者よ、貴方は彼の事を古の占星術師と教わった筈です。」
「…ああ、あのろばですか。何故このような土地に?」
「貴方様をお運びする為です。私の主人が道を違えた時、私は主に願いました。今度この背にお乗せし、お運びする御方を、必ずや神の道を歩まれるよう、神の道だけを歩きたいと。主はその願いを聞き入れた下さり、私に道をお示しになりました。そして私は、四十日前にここに着いて、貴方様を待っておりました。」
「道行く旅人は、乗せなかったのですか。」
「はい、私が近づくと、皆怯えて石を投げました。動物たちは怖がり、水辺から追い出しました。虫たちは怒り、蝗に私の食べる草木を喰わせました。でも私には、主の加護がありますので、今の今までここにおりました。」
ディディモは少し考えてから、もう一度訪ねた。
「貴方は、一人しか乗せられないのですか。」
「主がお力を下されば、ご家族も乗せられましょう。」
「んなバカな。」
思わず本音を言ってしまった
「はい。どのような奇跡も、信じぬ者には冗句、戯言に見えましょう。」
「
どう反応すればいいのか分からない、という
「あなた、乗ってください。私と一緒に。」
「ディ―――、師父、このろばの脚は皮が裂けて骨を虫が喰っているぞ。貴方一人でも乗るかどうか―――。」
「一緒に乗りたいのです。」
ね? と小首を傾げるディディモを見て、サッと二人の従者は目を背ける。二人ともディディモが何を考えているかは分からなかったからだ。侍従長はディディモを抱き直し、頭をあげたろばの背中に跨り―――。ぺたん、と、尻をついた。
「…きゅぅぅ。」
「ほら言わんこっちゃない!」
「ろばさんろばさん、大丈夫? お水飲む? 起きて起きて。」
「これ、ろばよ。気張らんか。」
ディディモが手を伸ばし、ろばの鬣に触れる。萎び、砂と汗で固まっている。
「主よ、貴方を愛する者に祝福を。この後全ての栄光を今、お与えください。」
すると、さらさらと音を立てて、鬣から砂が流れ落ちた。砂漠の風が櫛を通し、鬣がふわりと膨らむ。穴の開いた身体の節々を毛が多い、パルティアの城に飼われていたどの馬よりも美しく逞しくなった。
「すげぇ…。きれぇだ…。」
「お水いる?」
ろばは何も言わず、砂漠の上を歩いていた。先ほどまで口に入り込み、頬を叩いていた筈の風は、今は清々しく汗を拭っている。土埃、足元に一つない。穏やかな道程だ。誰も何も言わず、ただ風の運んでくる、干上がった河の水音に耳を澄ましていた。
「あ! 師父、町が見えます、私が見た町です!」
蜃気楼をかき消す風の向こうに、石造りの屋根が見えた。よかったよかった、嘘じゃなかった、と、
「神と共に居られる御方、貴方の祝福に感謝します。貴方は私が永久に聖者を乗せた家畜として讃えられぬ代わりに、この力をくださいました。この先、天の国では私の事を誰も覚えず、貴方ですら私の事を思い出さないでしょう。私の魂は永遠に失われ、裁きの日は毒麦としてその他の害獣と共に火にくべられる為だけに復活します。けれども確かに私のこの背に、貴方の脚として僅かなこの距離を歩かせて頂いたと言う思い出は、背中が無くなっても脚が無くなっても無くなりません。魂が失われるその瞬間まで、この私だけの誉れを胸に抱いていられます。嗚呼本当に、もう一度この言葉を心から言いたくなる日が来るとは思いませんでした。―――ハレルヤ!」
ろばが灼熱の太陽に向かって叫び、まるで馬のように前足をあげた。小さなろばの身体からずり落ちそうになり、ぼんやりしていた侍従長は慌ててディディモを抱いて全身をこわばらせた。
その時既に、ろばの姿はなかった。ろばは嘶いたのではない。上に乗った賓客を降ろしたのだ。ろばの皮は火に触れた髪のように縮れて細切れになり、鬣はボロリと風に吹かれて消え、骨はぶつかった所から砕け、頭骨だけが残った。
本来の在るべき姿に、還ったのだ。
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