第五十一話 恋人の二人

 ここがサーウーヴァラだ、と、妹子いもこは少し得意気に言った。と言っても、そう喜ぶような街でもなかった。寂れている、というよりも、何の特徴も見当たらない街だ。否、本当はあるのだろうが、とにかく四人とも疲れていて、それどころではなかった。宿はどこだと侍従長が言うと、あ、と、妹子いもこの顔が引き攣った。昔もこんなことがあったっけか、と、ディディモは笑って、二人に民家を探すように命じた。

 ディディモと侍従長は沙羅の樹の麓に座り、葉が打ち鳴らされる音を聞いていたが、ふと不規則な足音が聞こえてきて、談笑を止めた。

 一人の娘が、胸乳を揺らし虚ろな眼でよたよたと歩いてきたのだ。

「ああ、ああ。分かります、分かります。あたしにはわかるわ、貴方があの人たちを虐げる人なのですね。」

 剣を取ろうとする侍従長を戒め、ディディモは沙羅の樹の麓に座ったまま、娘を呼び寄せた。娘は両手を合わせ、顎を地面に擦り付けるように下げ、懇願した。

「使徒様、使徒様。どうぞ今晩はこの町にお泊りにならず、マラバールへお急ぎください。今夜は、どうしても愛さずにはいられなかった、あたしの恋人が、月に一度逢いに来て下さる日なのです。あたし達は誰にも迷惑はかけていません。罪は犯しておりません。それなのに貴方方神の使徒さま方は、あたしと恋人を虐げます。どうぞ、慈悲深い神の御写しの方、あたし達をそっとしておいてください。放っておいてください。」

 涙を流して懇願する娘の姿は、決して芝居ではなかった。それはディディモが侍従長と愛を実らせたから分かったのだろう。娘の恋人は、『青年』ではないのだと。

「娘よ、顔をあげなさい。」

「使徒様があの人を虐げないとお誓い下さるまで、ここを動きません。」

「私は貴女方の愛を祝福します。ここにいるのは私の弟子ですが、地上の主人です。貴女方の愛を否定することはしません。地上に置いて結ばれる為の立会人になりましょう。今夜、満月がこの沙羅の真上に来る時、連れておいでなさい。」

 娘はそれでも顔を上げなかった。寧ろ、本当にこの二人が夫婦なのか、と、訝しんでいた。失礼、と、侍従長は断ってから、娘の前でディディモの頬を撫で、深く口づけた。その口付けを見るのは、娘だけではなかっただろうに。

「娘よ。この御方は天の王に祝福された聖なる御方だ。それでも世俗のわれの妻に遜って下さった方だ。…我等はそなた等の愛を否定せぬ。この先前途多難であろうそなた等の愛を祝福せんとする慈悲と心得よ」

 漸く娘は顔を上げたが、それでも祈りの姿勢を崩すことはなかった。ディディモと視線で会話し、その心を量っている。侍従長が周囲の奇異な眼に威嚇している間、ディディモの瞳からは、涙のような優しさが零れていた。

「御意に、使徒様。きっときっと、お連れします。あたしとあの人をお守り下さい。」

「はい、必ず。もう行きなさい。もう私の使者が帰ってきます。」

 娘は深々と礼をし、顔に着いた泥を拭う事もなく、その場から立ち去った。見慣れぬ旅人と、見知った特異な娘がいる事は、とても不気味だったのだろう。侍従長の眼は、人々の掌にあった石を射抜き、落とした。

「師父、師兄、よい宿がありました。将軍の屋敷です。」

「兄さま狡い! わたしが見つけてきたのに!」

 ぽすん、と、沙羅の樹が揺れる。屋根の上を走って来た従者達が、樹に飛び移ったのだ。逆さまにぶら下がり、器用に海老反りをして周囲を見渡す。背子せこは言った。

「師父、気のせいでしょうか。何やら町人達の雰囲気が不穏です。」

「でも大丈夫です、師父。これから行く将軍は、師父の事を話しましたら、是非お出でになり、奇跡を起こしてほしいと仰いましたの。」

 ディディモは顔を歪めた。

妹子いもこ、奇跡で人を品定めしてはいけません。それは最も忌むべきことです。奇跡で信仰を量るなど、神の恵みを侮辱する愚か者のする事です。」

「う…、すみません。」

「まあ、今は良いではないか。じき陽も傾く。昼間は汗をかいても、夜はそれが凍り付くような寒さになる。速くその屋敷に行こうではないか。」


 パルティアにいた時、ディディモはずっと宮殿にいた。だからなのかもしれないが、将軍の家は随分と質素に見えた。しかしよくよく思い出してみると、調度品や召使の服装は違えど、印象はあの取税人の家だ。…なんてことを考えたら、「あっしは『元』がつく取税人でぃ!」と、また言うだろうか。

 今は西、遥か彼方で、あの時の仲間はこの道を、誇りを持って歩んでいるのだろう。清貧と信仰を重んじて、それはそれは聖らかな人格になっているのに違いない。

 だがディディモは選んだ。神の愛ではなく人の愛を。永遠ではなく必滅を。メシアの流した受難の汗ではなく、肉欲の汗を選んだのだ。それを護らなければと思ったのだ。

 それそのものは後悔していない。例え死が二人を別つとも、この先自分の夫と定めた男が、誰か別の、正真正銘の女をめとる事も覚悟の上だ。生まれながらの双子の男と雖も、神の創った子を為す欲には逆らえないだろう。それでもディディモは彼の手を取り、共に東へ行くことを選んだのだ。その行為が、メシアの求める純潔を、純真を否定することはないと、あの時は熱に浮かされたかのように信じていた。

「師父、どうしたのだ。」

「ここのパンはモチモチしてて美味しいですね。塩気も効いていて、食べやすい。」

「だがパルティアとは少し小麦が違うようだな。われもあまり食した事がないものだ。」

「師父、師父。将軍殿が、そのパンを食べ終えたら、すぐにでもお話をしたいというように仰っておいでです。今お部屋に戻っていますけど。」

 器用に指を汚さずに食事を終え、背子せこは将軍だと言う男を指示した。妹子いもこはどこかと聞くと、何やら忙しなく既に部屋に戻ったと言うのだ。与えられた部屋は多くない。恐らく何か、やっておきたい秘め事があるのだろう。ならば無理に部屋に戻る事もなかろう。

「貴方が奇跡を起こすという聖者か?」

 唐突に声をかけられ、驚いて上を向く。将軍と言うには、あまりにもみすぼらしい大男が、窪んだ眼でディディモを見下ろしていた。その姿は、不遜というよりも、ただ礼儀だの何だのに気を配る余裕がないようだった。それくらいに憔悴している。

「我が天の主がお望みであることを、行う事ならば出来ます。」

「問答は好まぬのでよろしいです。早速視て欲しい者がいるのです。もう何年も、悪魔に苛まれて、この三年余り、吾輩わがはいは碌に寝食が出来ぬのです。忠実な奴隷たちでさえ、体調を崩す始末で―――。」

「申し訳ありません、将軍殿。先客がございますので、そちらに先に行かせてください。祝福を授けに行かなければなりません。」

 ぎょっとして召使たちがざわめく。言葉を遮った事もそうだろうが、何より断るのではなく後回しにしたという事の方が驚いたのだろう。だが侍従長は、元王族であり、また自分自身、国に来たばかりのディディモに―――まだディディモと名前を改める前だったが、他ならぬ今の伴侶である彼に―――そのような扱いをされていた事もあって、難なくディディモを抱き上げた。

「月が傾く前に戻ります故、お待ちください。」

「どちらへ行かれるのです? 今夜は罪人の処刑があります故に、出来れば外へは行かないで頂きたい。この街の恥を貴人に見られたくないのです。」

 ディディモはその排他的な発言にムッと眉を顰め、行こう、と、不自由な脚を動かした。将軍は呼び止めたが追いかけてこない。召使たちは、侍従長が余りにも高貴な振る舞いをするので、畏れて動けなかったようだった。

「おや、追いかけて来ませんね。」

「大方、われの事を思い出したのであろう。」

「あなたを?」

われが王弟であった頃に、あの将軍の噂を聞いたことがあるのだ。という事は、あの将軍もわれのことは知っていような。まあ、パルティアでわれが受洗したことまでは知らなかろうが、驚いたであろうな。」

「あまり目立たないでくださいね。」

「メシアの道に困難は付き物だと言っていなかったか? 師父。」

「何ですか。私だって貴方の師である以前に、あなたの妻ですよ。」

「ほう、可愛い幼な妻よな。では御意に。」

 ふふ、と二人は笑い合って、こめかみと頬をすり合わせた。

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