第五十二話 魔女の二人
外に一歩出れば、そこには人の目がある。どんなに愛し合っていたとしても、それを見て不愉快な気持ちになるというのなら慎むべき、というのが、二人の考え方であり、二人の愛が真実誠実であることを主張する根拠だった。つまり、自分たちは男女が愛し合うのとまったく同じように愛し合っているのであって、それ以上でもそれ以下でもないということだ。外で夫婦がみだりに愛を囁かないのと同じだ。先ほどまでの睦まじい様子はどこへやら、師と弟子に戻った二人は、娘との約束の沙羅の樹へ歩こうとした。が、その時、後ろからむわっと物凄い熱気が覆い被さって来た。続いて、女の絶叫。拷問なんて生易しいレベルではない。その声は最早鳴り物の楽器だった。ひび割れ錆びつき、踏みつけられる楽器が、嘗てその音色が美しかったことを忘れ、凄まじい断末魔をあげる。
火だ。嘗てユダヤの民を救った導きの火柱だ。それが、どこまでもどこまでも、天に真っ直ぐに燃えて燃えて、燃え盛っている。恐らく、その火は柴の木に神が降り、預言者に命令を下した時の火よりも凄まじかった。
神罰の火。
ディディモでさえそう思った。神の名の下に、神罰の存在を否定するディディモですら。恐らくそれを見た者は、皆、歌うように神を賛美するのだ。『悪魔を裁かれた、ハレルヤ』と!
「おねえさまああああああああ!!! ああああああああああああ!!! うわああああああああああ!!!」
辛うじて聞き取れた言葉に、ディディモは我に返った。
おねえさま? 燃えているのは、あの真白な光の柱の中には誰かいるのか。本当にあんな恐ろしい火に包まれた者がいるのか。そんな無慈悲な事があるのか。そんな非道なことがあるのか。
いいや違う。問題はそうではない。娘のことではない。その柱の下には誰がいる? その顔を私は知っている
「見なさい! これが神の御意思なのです! 娘よ、もう罪を犯してはいけない。あなたがこの先、貞淑でいる限り、神は二度と、貴女を試さないでしょう! さあ民衆の皆さん、あなた方も、永遠の花婿メシアに嫁ぎ、
「黙れッ!!!」
ディディモは怒りに声を掠れさせた。わなわなと唇が震え、鼻を膨らませても肩で息をしても、空気が足りない。不自由な脚は怒りに地団駄を踏もうとする。夫の顔に掴まる指に腕に掌に力が入り、悍ましい蛇の鱗を剥がしにかからんと暴れる。民衆はディディモを見た。もう一人のディディモも見た。
そして、娘もディディモを見た。
「これが神の意思でないと言うのなら! お前の力で、この火柱の中にいる魔女を清め、ここに出すが良い!」
「無礼者!」
侍従長は息巻き、剣を取ろうとした。だがそれより早く、ディディモが右手を伸ばし、その挑戦を受けた。
以前のディディモであれば、神を試してはならぬと戒めたかもしれない。だが今は違う。奴は『お前の力で』と嘯いたのだ。魔女と呼ばれた女を、お前の信仰心で助けて見せろ、と言ったのだ。
「我がメシア、全能の愛の神、御身の名を持って命じます! その火柱より、辱められた魂をここ―――あっ!」
突然、その右腕が左手首を掴んだ。火柱の所為ではない、脂汗が全身に広がって行き、ぽたりぽたりと侍従長の額を汚す。驚いて侍従長がディディモを座らせ、握りしめられた左手を見た。
左手には、小指がすっぽり入る程の穴が開いていた。あの呪いの跡だ。その淵を、糸蚯蚓のような生き物のような真っ黒で細い―――否、これは蛆だ。蛆が、跳ねることなく、回虫のようになって、淵に踊り、淵を喰い、そして淵を蛆が再構成していた。そこは正しく、煮だった毒壺だった。
これが。これが本物の悪魔の呪いなのか。呪い師でなく、本当の霊なる存在の呪いなのか。
侍従長はあまりの悍ましさに手を離し、慄いた。ディディモは座る事すら出来ず、手を離せないまま、片目を苦痛に歪めて塞ぎ、押しつぶすような恐怖に震える。
「―――、―――、何してんだ、起きろ。」
ふと脳裏に声が聞こえた。懐かしい、自分を守るためにずっと生きてきた殻の声だ。殻は、孵った場所に置いてきた。王弟と出会った場所、あの運命の地パルティアに。
「何、こっちは取り込み中よ。」
「やだねえ、人妻ってのはどこもかしこも、ひねくれてやがる。折角ぼくが助言の為に、パルティアから飛んで来たっていうのに。」
「助言? アンタの助言が記憶力意外に役に立ったことなんてなかったじゃない。」
「その通り、今のお前を救うのは記憶だ。そら、思い出せ。本当にそれがメシアの望む事か? 神はぼく達に何と言っていた? 思い出せ。聖書を反芻する習い事はお前の担当だっただろ。」
汗の滲む頭蓋骨を揺すり、鞄を引っくり返すようにのた打ち回る。だが全く思い当たる節が無かった。
「愛や直感に生きる今のお前は、誰よりもメシアに近いだろうよ。現にあの王弟は、自分が男を好きになると言う最大の苦痛を、お前と共有して救われてる。でもメシアもいつだったか言ったはずだよ。是を是、否やを否やと言え、とね。」
「………ああ、そういうこと。」
「幸せになる事を望まない親などいないんだよ。それを忘れないで。例えぼく達の間にだけは、永遠に子供が出来ない摂理の中に生きていたとしても、ね。」
待った、と、言えただろうか。本当はどう発音されていたのか分からない。だが兎に角、待ったをかけた。捨てた筈の神の知識が、神に与えられた夫が、奮い立つディディモを支える。
「それは…。それは、神の御心では、ありません。」
もう一人のディディモ―――サタンは鼻で笑って、言った。
「そう言う事は、この消し炭の山を娼婦に戻してから言いたまえよ。」
「神は…。主は、この世を創り、人を創り、こう仰せになったからです。『生めよ
その叫びは、ディディモ自身への空しい叫びですらあった。侍従長は途中から、見ていられずに顔を背けた。神の使いとして福音を、幸福な知らせを述べ伝える事が、ディディモを始めとする十二弟子の使命であった筈だ。それなのにその福音は、こうもディディモを苛んでいる。嗚呼、彼の愛が何故劣っていよう、誰がそれを裁けようか。だがそれでも人々は裁くのだ。
一体如何して、何故私には、何故私たちには。何故私たちでは。
子が成せぬ事は恥だった。血が絶えてしまうからだ。それでも男に嫁いだ女には期待がある。女を娶った男には希望がある。だがこの娘とディディモは違う。二人は、否、彼等が血を引いた子を想像し、望む事は神への冒涜で、愛し合う事は神への反逆、そして結婚する事についての祝福の花弁は赤く、地に落ちれば黒ずむだけだ。
神への確かな
それを知っていて、自ら裁かれる事を理解していながら、愛する女の為に命乞いをしに来た女を、嗚呼どうして拒めようか! 何故その愛を否定できよう! 我が救い主ですらそのような事はなさらなかったのだ!
「師父、師父! いけない、彼等は聞いていないぞ!」
俯いて涙を堪えるディディモを抱き寄せ、石礫から護る。そう言う侍従長の頭にも、拳大の石が投げられた。額が切れる。しかし同時に、もっと凄まじい悲鳴が上がった。ぼとりぼとり、ぼとんぼとん。驚いて落ちていく石と、その中に交じるのは、一本の茶色く日焼けした人の腕だ。
刃の
「その女の恋人を殺したのは誰だ! 師父にお伺いを立てるまでもない、神に祈る意味もない! ぼくが誅してやる、庇うのなら更に顔を削ぐぞ、さあ言え、一体誰だ! 誰なんだッ!」
群衆は醜く喚き出し、自分の血を他人の目や耳や口に流し込むようにして押し合い圧し合いを始めた。矢はもう降ってきていない。場が十分混乱したのを見届け、
「師兄、申し訳ありません。妹の矢では、あの石礫は落とせませんでした。」
「いや…それは良い。それより早く戻ろう。ディ―――師父の腕が…。」
少し安心したのだろうか。ディディモは左手の毒壺から毒を振り払う。冷や汗は滝のようになって、服に染みを作っていた。
「あなた…。あの、あの娘はどこですか…。彼女を…蘇らせなければ―――。」
「師父ッ!」
バチンッ!
それは、恐らく
恋人を焼き殺された娘が投げた物だった。
「恩知らずな女め!」
「
「いいえ師父、このままでは師父と師兄が危ぶまれます。それは刃の名を戴いた者として許しがたい! ここで誅し―――!」
言葉の途中で、
「うわ、うわあああああっ!!! 師父、師父! お助け下さい! やだやだやだ!」
「戯け者! 暴れるでない、蛇が興奮するぞ!」
「痛い痛い痛い! 絞まってる! 痛い痛い痛い!!」
怖い怖いと泣き叫ぶ
「うそつき…。あなたが、あなたがお姉さまを祝福すると言うから…だからお連れしたのに!!! 呪ってやる、呪ってやる呪ってやる呪ってやる!!! お姉さまが地獄で獣に骨を砕かれると言うのなら、あたしは毒沼の蛆に身体を食い千切られて畜生に成り果ててやる!!! もうあたしは、人間じゃない! 人間を止めてやる、祝福と愛を尊ぶ人間を止めて否定する!! このあたしが、このシタ・ナーギニーが、お前の行く末に付きまとってその愛を引き裂いてやる!」
シタ・ナーギニー《白蛇女》と、そう名乗った娘は、狂ったように笑いながら、裸足で駆け出し、崩れて風に攫われつつある恋人の残骸を、小便を撒き散らしながら踏みつけて去って行った。
ディディモだけが、その娘の笑い声の中に、あの王を名乗る白蛇の笑い声を聞いていた。
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