第四十五節 結末の二人

 それからイシャが歩けるようになった頃には、既に乾季に入り、国王が間もなく遠征から帰ると言う頃だった。同時に、妃の腹に、また新たな魂が入っていた。イシャはというと、足の怪我は思ったよりも酷く、杖が二本なければ歩くことが出来なくなってしまった。外での大工仕事は、大分板についてきた十二人に指導を任せ、彼等に言われた人数の給金を離宮の入口で渡した。また、説教をするときの為に、自分の部屋を瓶担ぎの部屋の傍に移動させてもらった。使用人たちが自分の部屋に来る事は不可能だったからだ。王弟は自分の眼が届かなくなると不安がったが、密偵の双子が命懸けで護衛すると粘り、折れた。

 怪我の功名とは良く言った物で、嬉しいことにそれから洗礼を望む者が増えた。拝火教の教えの中には、水を尊ぶ文化もある。水による洗礼に抵抗はないらしい。決定的だったのは、イシャの身体が不自由になったのは、『転んだから』とイシャが言い張った事だったようだ。少なくともイシャは誰にも言っていないのだが、臣下たちはイシャが暗殺されかかったことを理解しているらしく、その黒幕にも察しがついていたようだ。恐らく妃の振る舞いから感じ取ったのだろう。妃はまだ幼く、物事を隠し通すことが難しい年頃だ。しかしイシャが妃の配下の密偵は勿論、妃の付き人まで部屋に招き入れ説教をしている姿に、彼等は感動したようだった。イシャが憎しみを押し殺し、孤独に耐え忍んだ日々が、遂に報われたのだ。そうなればイシャのやる気も出てくるというもの。舌は軽快に物を言い、物腰は熟した稲穂の様になったと言われた。

 内親王もそれなりに大きくなり、乳母の下から妃の下に帰された。妃は育児に夢中になり、いびって来る事も無くなった。王弟も、イシャの弟子達が沢山の家を建てたことで政治が楽になり、余裕が出てくるようになった。昨今ではよく朝食に誘われるが、やはり妃に対して全く不信感が無いとは言い切れず、祈りを理由に断っていた。

「イシャよ、供をせよ。」

 日が落ち、以前は妃のいびりに付き合っていた時間は、現在はイシャの祈りや自由時間になっている。その日は祈りを手短に済ませ、仮眠を取っていた。

「今回はどこに?」

「何、今夜は満月故、夕食の時間まで裏の森に行こうかと。」

「私は歩けません。」

「案ずるな。馬を歩かせる。」

 王弟は微笑んだ。

 イシャが暴行されてから、王弟は時折微笑を見せるようになった。家臣たちは気味悪がっているようだったが、イシャは寧ろ王弟が心を開いてくれていると安堵していた。あとは、王弟自らが、心の泥を吐き出すのを待つだけだ。そしてその泥を受け入れる準備は、もう出来ている。

 密偵には、二人の話が聞こえないくらい位に遠くから見張っているように言いつけ、二人は外に出た。二人でどこかに行くなんて、久しく無かった。鞍に腰掛け、手綱を王弟が牽く。森を進み、清浄な小さな泉にやって来た。この泉は、かつてイシャが火傷した脚を浸した川の源流なのだと言う。静かな泉には、満月と星々が映され、天が下にあるように見えた。王弟の力を借りて泉の傍に座り込む。冷たい水に指を浸すと、空が揺れた。

「いつかこの泉の下流で………。われはお前に、近習になれと言ったな。」

「はい、覚えております。」

「もう間もなく、国王陛下が―――兄上が帰国されるだろう。」

「そうですね。もう、予算は殆ど、乏しい者達に分け与えてしまいました。もう一袋の三分の一くらいしかありません。今度大蔵大臣に予算をお借りしなければ。」

「離宮の修復すらせず施したからな…。われが筋を通さねば。」

「殿下、私は国王陛下の怒りに触れることを恐れてはおりません。」

「………。国王陛下が帰ってきたら…。われは王族を離れようと思う。」

「………。」

 いつかはその言葉が出ると思っていたが、思っていたよりも早かったことに驚いた。

「国王の代わりに世継ぎを産ませる…。この上も無く尊く喜ばしい名誉だ。だが…われはもう、姫以外の子供は…作りたくない。この役目を下りるには…。」

 そこで王弟は、イシャの方を見た。イシャは答えず、王弟の言葉を待っている。王弟はまるで隠すかのように、泉の中のイシャの指先を握った。

われが妻と離縁し、国を出る他ない。」

「殿下…。」

「晴れて一人の身になった暁には…。イシャ、われの寵愛を受けてくれるか。」

「………。このような奴婢に有難き僥倖にございます、殿下。なれどその道は茨の道。メシアの道は狭く、険しい物にございます。この上私なぞを愛したら―――。」

「お前、気付いておるのだろう。………われもまた、双子の男であると。」

 イシャは考えた。王弟がこれまで歩んできた道程を。

 国王の双子の弟として生まれ、常に日陰を歩き、双子の兄に忠誠を尽くし、それを誇りとしながらも、産まれたばかりの赤ん坊を妻にしなければならなかった、王弟の苦しみを。愛は勿論、恋すらも許されず、ただ『世継ぎの君を産む』為だけに姪を妻にし、やっとの思いで内親王が産まれた今、再び王太子を望まれる。しかし王弟は―――妃を愛している訳ではない。ただ王族の義務として、妃を抱いているに過ぎない。そしてそれは、恐らく妃も理解している。だからこそ王弟が興味を持ったイシャに対し、並々ならぬ敵意を持っているのだ。

 この結婚は、どちらも幸せになれていない。

 近親婚だからではない。二人の間に愛がないからだ。そして王弟の愛は今、イシャに向けられている。

 この愛に報いる事が、王弟の心を救う唯一つの手段であるのなら、そしてイシャにその愛に報いる心が与えられているのなら―――。

「イシャ。」

「!」

 考え込んでいると、唐突に頬に触れられ、唇に口づけられた。驚いて身体が硬直する。同時に、今まで禁忌として拒み続けていた何かが決壊する音がした。胸に手を添え、王弟の抱擁に応える。

「殿下………。もし、殿下が王族を離れることがあれば、イシャの旅にお供してください。」

「ああ、お前と共に、更なる東へも赴こうぞ。」

「殿下………。」

「少し先走ったが…。愛の言葉は、われが一人になってからに―――。」

 その時、ハッと王弟の顔色が変わった。きょとんとしていると、突然王弟がイシャに覆い被さって来た。忌わしい記憶と共に、倫理観も働く。不味い、ここで姦通の罪を犯させる訳には―――王弟をどう鎮めようかと考え始めた時、ドスン、と何か鈍い音がした。下から這い出てみると、王弟の背中に深々と矢が刺さっていた。

「殿下!! 王弟殿下!」

「落ち着けイシャ! 王弟はまだ死んでない!」

 確かに僅かにまだ息はある。イシャの叫び声を聞いて、密偵の二人が駆け寄って来た。二人ともどこからともなく放たれた矢に驚いていたようだったが、少年の方が答えた。

「閣下、ぼくが離宮までお供いたします。どうかお気を確かに、急げばお命は助かるかもしれません。おいお前! お前は矢を放った奴を見つけろ! 見つけ次第殺せ!」

「分かりました、兄さま!」

 少女は闇に溶けていく。王弟をイシャが乗って来た馬に乗せ、イシャもその後ろにどうにかして跨る。馬の乗り方は分からなかったが、少年が馬の腹を叩くと、馬は勝手に走り出した。徐々に距離を取られながらも、少年はついてくる。イシャは手綱を握りながら、意識のない王弟に呼びかけ続けた。


 離宮に戻ってくると、当然ながら辺りは騒然とした。早く医を、薬をとバタバタと兵士達が駆け回る。医が布を当て、王弟の背中から矢を引き抜くと、ブシュッと音を立てて凄まじい勢いで血がこぼれ、布を貫通した。

「きゃああああっ! 殿下!! 王弟殿下ぁ!」

 騒ぎを聞きつけて妃が現れた。だがイシャ以上に錯乱し、叫び続ける妃を、どうにか少年が押さえつける。齢は同じくらいとはいえ、女とはいえ、狂乱する妃をそう簡単に抑えて置けない。抜け出した妃は、傍らで手を握り離れようとしないイシャを蹴り飛ばし、あらぬ中傷を浴びせた。

「この大工が…! この大工が殿下をたぶらかしたに決まっています! わたくしが命じます、即刻死刑にしてしまいなさい! こんな―――こんな気持ち悪い大工さえいなければ…!!」

「妃殿下、落ち着いてくださいませ! この大工は王弟殿下に供を命ぜられ―――。」

「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 直ぐに牢屋に放り込んでしまいなさい! わたくしの―――わたくしの夫の心を乱しあまつさえ死の淵に立たせるなんて、パルティア王室そのものへの反逆罪ですわ!!」

「妃殿下! 傷病人の前です、どうぞお静かに!」

 医が声を上げる。イシャの座っていた場所を強引に奪い取り、妃はうなされる王弟の額に何度も口付け、手を握りしめた。

「閣下…。妃殿下を鎮める為です、恐れながら、一度牢の方へ…。」

 申し訳なさそうに少年が進み出た。イシャには断る理由がない。ただ呆然としたまま、頷くことしか出来なかった。

 牢屋と言っても、それは軟禁に近かった。流石に国賓を汚く寒暖の激しい場所に入れたくないという配慮もあったのかもしれない。何より臣下の全てが、イシャに過失はないと分かっていた。イシャは召使達の仕置き場所のような場所に案内された。

「こんなに立派なところでいいの?」

「はい、閣下に何も疾しい所が無く、王弟殿下が閣下を庇ったのは、ぼく達二人が証人となります。もし、妃殿下がお咎めになるならば、王弟殿下と閣下を護れなかったのは、ぼく達二人の責任―――ぼく達二人の命を持って、閣下を御守りさせてください。」

「………。ごめんなさい、今は、その考えを否定できない………。」

「ぼくは念のため、この部屋の傍に控えております。ご用命の際は何なりとお申し付けください。」

 少年は出て行った。


 それから暫くした夜の事、少女の方が気落ちした様子で部屋に入って来た。まさか王弟の身に最悪の事態が起こってしまったのかと思ったが、少女はイシャが言葉をかける前に、土下座をして謝った。

「申し訳…申し訳ありません、閣下! 先程、閣下と王弟殿下を襲った不埒者を捕えましてございます。その場ですぐに殺しました。………―――わたし共の、長兄でございました…! 真に、真に申し訳ありません!」

 その言葉に、外にいた少年も慌てて入ってきて、共に土下座をした。

 正直イシャはどうでも良かった。誰が射っていようと、誰が殺されようと、どうでもいい。唯、王弟のそばに居たい。それだけがイシャの今の望みだった。イシャが少年にそう告げると、日中であれば妃は宮廷にいるので、二人きりになれると言った。イシャはその言葉を信じ、次の日の昼、真っ先に王弟の病室に向かった。

「殿下、イシャめが参りました。御苦しゅうございますか。」

「イシャ………。」

 朦朧もうろうとする意識の中で、王弟は必死にイシャを眼で探した。イシャが顔を近づけ、額と額を合わせると、王弟は僅かに微笑んだ。

「お前に………。会いた、かった………。」

「殿下がお元気になりましたら、またあの泉に参りましょう。その時こそ、あの時の言葉にお答えをお返しいたします。ですから、どうか―――。」

「イシャ。」

 王弟は穏やかに囁いた。

 その瞳は、眼は、死を受け入れる目だった。

「最期に………。お前に、会えて、よか…た。」

「最期なんて…っ止めてください、殿下!」

「天の宮殿………。さぞかし………美しかろう…な。」

「いいえ殿下、まだ天の宮殿には、ほんの少しの人間しかおりません。この道に殉じた者は未だ瓶担ぎだけです。まだ宮殿は完成していません! どうか、どうか宮殿が―――せめて予算が底を突き、大蔵大臣に申し付けるまで―――。」

「イシャよ。」

 王弟は最期まで、微笑んでいた。

「死は―――王族たるもの………恐れては、ならぬ。」

「嫌です、殿下。どうか生きてください。」

われは………先に、お前を、待っている………ぞ。」

 そう言って、王弟は目を閉じ、握りしめていた指先から力が抜けた。死んだのだ。

「イシャ………。」

「あ、あああああ、ああああああああああああ、やだっ! やだっ!! お願い、死なないで! 殿下!! お願い、死なないで! 死なないでぇぇぇっ!!」

「イシャ、駄目だ。もう、王弟は天の宮殿に―――。」

「お願い、起きて! 起きてください殿下! わたしが命じます、起きて! 起きて! お願い! おねがい、おねが、い…っ!」

「イシャ、駄目だよ。」

 その時、イシャの身体を白い炎が包んだ。驚いてイシュが止めようとしたが、炎は益々燃え盛る。

「イシャ、駄目だ! 冷静になれ! こんな結末、望んでないだろう!」

「嫌…嫌よ…っ! こんな、こんな死に方したくない…! わたしは、わたしは誰も呪い殺したくない…っ! お願いよイシュ、どうか妃を罰さないで、それだけがわたしを呼び戻す鍵になる、絶対そうだから…!」

 イシュはイシャを抱きしめて誓った。

「ああ、分かったよ。ぼくは妃を呪わない。あの双子の長兄も呪わない。あの破落戸ごろつきも呪わない。そしてイシャ、お前を必ず絶望と憎悪の炎の中から救い出す。絶対に聖霊の下に帰す! 約束する。」

「おねがい………。」

 イシャは燃え尽きた。

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