第四十四節 陰謀の二人

 激しい熱と頭痛、全身の痛みで目が覚めた。茹だる様に頭だけが重く、全身の隅は氷の様に凍てついて床に張り付いている。呼吸は浅く激しく、すぐ傍に、誰かいる。―――子供か?

「う………。」

「閣下、気付かれましたか。今医を呼んで参ります。」

「あ………。」

 医よりも王弟に会いたかったが、子供はさっと走って行ってしまった。ぼやけた視界と頭で、あの子供―――少年の正体を探る。どこかで会ったような…。あの時助けてくれた子供だという事は解るのだが。

 暫くすると、医と少年と、もう一人そっくりな少女がやって来た。ああ、この少女はあの、罪なき血の申し子か。となると、少年とは兄妹なのだろうか。

「私が分かりますか。」

「はい………。」

「出血が酷かったので、血を分けました。この密偵の少年と少女の血が固まらなかったので、二人の血を入れました。スーレーン族の犬の血といとわず、どうぞお受け取りを。さもなくばお命がありませんでした。」

「そんなこと…おもいません。…ありがとう。」

 精一杯の力で、口角をあげる。少女は泣き出した。あまりにその表情が痛々しかったのだろう。少年にすがり、しくしくと泣く。王弟は冷たい手を額に乗せ、冷たい涙を流した。否、自分が熱いのだ。

「怖かったであろう、痛かったであろう、お前が戻ってくるのが遅いともっと早く気付けば―――。」

「いいえ殿下。私ども二人が閣下を見つけるのがもっと早ければ…。」

「閣下、あの破廉恥な男共は成敗してございます。もう何も怖くありません。今、王弟殿下が黒幕を全力で捜索しております。労働者たちにも、閣下の具合が悪いと先に断ってきました。」

 つまり、何も心配せずに療養しろと言うことだろう。

「あの………。」

「どこかまだ痛いですか?」

 医が言うので、それには答えず、じっと王弟を見つめた。声が出せないのではない。ただ、これからいう言葉に渾身の力を注ぎたいのだ。王弟は暫く真意を図りかねていたが、やがて気が付くと、三人を下がらせた。三人が確かに外に出たのを確認してから、王弟は覆い被さるように額に口付けをし、愛おしげに頬を撫でた。王弟は泣いている。その涙は怒りから来るものだと分かった。

「殿下………。」

「何か欲しい物でもあるか。」

 イシャは渾身の力で息を吸い込み、未だ違和感の残る腹に力を込め、はっきりと、一度で聞こえるように言った。

「殺してください。」

 王弟の顔が蒼白になる。しばしの沈黙の後、王弟は理由を求めた。イシャの眼から、死にゆく自分への未練のような涙がこぼれる。

「私は………。メシアの教えを伝えに………遣わされました。赦しを尊び………メシアの赦しを告げ知らせる為………。でも………今の私には―――。」

「そのような戯言を申すならば、われが供をする。」

 動かさないように、王弟は頭を優しく撫でて微笑んだ。不遜にも、王弟の愛おしむような微笑みを見たのは初めてだった。

「お前が汚れたとも、憎む心を否定することも、せぬ。お前が怨みたいだけ怨め。われが許す。そして時が満ちるまで、不条理を呪うと良い。」

「………。」

「呪うことを拒否するな。それは必要な感情だ。本当に必要のないものであれば、メシアはお前にその心を与えまい。不埒者を愛することだけがメシアへの愛ではない。…安心せよ、お前は未だ美しい。穢れの知らぬメシアよりの使者ぞ。」

 王弟は力の入らない右腕を持ち上げ、自分の頬に当てさせる。

「こんなにも弱って………。忙しさに感けて、お前を顧みていなかった。もっとわれがお前を傍に置いていれば、今回のような事も起こらなかったろうに。」

「殿下………。」

「イシャ…。われは―――。」

 ハッとして、イシャは王弟の口を覆った。ずきん、と身体が痛む。けれども、それを言わせるわけにはいかなかった。

「妻子ある方は………妻子に尽くす………義務が………ございます。………もう、夜も………遅く………、妃殿下と、内親王殿下………の………もと、に………。」

 言っていて涙が流れた。本当は傍にいて欲しい。怖かったろうと宥めて欲しい。汚くなんてないとキスをしてほしい。けれどもそれはあってはならないのだ。唯でさえ近親婚という罪の文化の中にいる王弟に、これ以上罪を重ねさせるわけにはいかない。この国の文化を守る為、この国の思想を護りながら、メシアの教えを広めるには、これしか思いつかないのだ。否、これしかないのだ。

「イシャ、お前は何故そうもわれを拒む。われの傍に居れば、この世の地位も名声も…。それこそ乞食たちに施すための財も無限に手に入れることが出来る、のにも、関わらず…。」

「殿下…。義務を………果たさなくては、なりません。………義務を、怠り………、その上に…メシアの………救、いは………。」

 そこまで言って、指先から力が抜けた。もう体力が残っていないのだろう。だが話をしていたい。もっと傍にいて欲しい。そんな思いも空しく、瞼が重くなっていく。王弟は焦り、強くイシャの手を握りしめたが、イシャが微笑んで僅かに握り返すと、唯疲れただけだと理解したらしく、額に口付けた。

「当分、密偵の双子にお前の警護を命じる。少年少女と言えどその技術は大人と同じ。安心して身体を休めよ。」

 その言葉に応える余裕はなかった。イシャは静かに瞳を閉じた。


「イシャ、イシャ。」

 夜中に自分を呼ぶ声で目が覚めた。瞼を持ち上げると、イシュがいた。

「アンタ、今更何のこのこ出てきてんのよ。」

「いいから来い、とんでもない物見ちまった。」

「はぁ? 何よ、持ってきなさいよ。気が効かないわね。」

「いいから。」

 イシュは強引にイシャの手を取り、するりと密偵の視界を潜り抜け、宮廷まで連れてきた。こんな時間に宮廷は開かれていない。にもかかわらず、そこには妃と、今にも殺されそうな数人の妃の密偵の姿があった。

「一体どういうことです!? あの大工は生きて帰ったばかりか、わたくしの与えた報酬を取り返すことすら出来なかったなんて!」

「も、申し訳ありません。妃殿下に害が及ぶことの無いように、縁も所縁もない破落戸ごろつきを雇ったのですが、彼奴らは報酬をすぐに酒と賭博に使ってしまったらしく………。」

「その上王弟殿下のお遣わしになった双子の密偵の兄の方が、弓の達人でして、遠くから射殺してしまい…。」

「し、しかしながら妃殿下、大工の心身の傷は大きい筈。当分の間餞民と関わることは勿論、部屋から出ることも出来ませんでしょう。」

「それにしたって手緩いですわ! もっと自分が何者か分からなくなってガラクタのようにしてしまいなさいと、わたくしはそう言いつけた筈です!」

「真に私共の不手際でございます!」

「申し訳ございません!」

 それからも妃は、如何に自分の密偵たちが不甲斐ないか、役立たずだったかを延々と繰り返し、頭を抱え、癇癪を起した。イシャはぎろりとイシュを睨みつける。それこそまるで、悪魔でも睨むかのように。

「何? アンタは迫害の黒幕として、妃を呪い殺せと、そう言いたいの?」

「ま、平たく言えばな。このままだとお前、本当に凌辱の限りを尽くして殺されるぞ。」

「『その時』の事なら、私はおそれてないわ。」

「そうじゃなくてさ…。国王の帰還までに生きて―――。」

「黙れ悪魔。」

 イシャがそう言うと、イシュは黙った。

「イシュの姿をしていれば騙されないとでも思ったの? それともイシュとして語りかければわたしが屈すると思ったの? 酷い中傷だわ。貴方がやっていることは悪魔と同じ。下がりなさい。」

「酷い中傷はお前の方だよ、イシャ。ぼくは心配して言ってるんだ。」

「己が死におののいて、その為に誰かを迫害することは、メシアの十字架への冒涜よ。下がりなさい。」

「イシャ、ぼくは―――。」

「下がれ悪魔! わたしは妃を呪わないし、殿下にも言わない! 誰にもこの事は話さない!」

 イシュは今度こそ押し黙り、暗闇に溶けてその場を去った。イシャは溜息を吐く。

「ったく…。『本物』はどこ行っちゃったのかしらね…。」

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