第四十節 慶賀の二人

 雨季が開け、凍える冬がやって来た。雨季の間思うように工事は捗らず、六袋あった硬貨の袋だけが萎んでいく。今乞食である人間は有難がるが、初めの十二人のようにそれなりに仕事が出来る元乞食は面白くない。イシャの周りには嫉妬の雑言が増えるようになった。彼等に『一人一日一枚の約束』を思い出させても、働く事が難しい老人は駄々を捏ねる。身体にかかる負担が大きいのだから給金を弾んでもいいはずだ、というのだ。更に困ったことには、影響を受けやすい子供などは、やれ鋸で切った石に挟んだと便乗してくる。そうなってくると、働き盛りの男たちも黙っていない。彼等よりも仕事をしているから給金を増してくれ、ということにある。

 確かにここで、イシャが大盤振る舞いをして給金の弾むことは簡単だ。だがそれでは意味がない。足るを知り、今あるもので満足する、そこにこそメシアの平安があるのだ。何度も口を酸っぱくして言うが、時々仕事の時には居ないのに、何故か給金を支払う時になると現れる男は、懐の肥やしにしているのだろうと暴力を振るう。流石に初めの十二人がそれを止めるが、イシャにその男が来ることを拒むことは出来ない。

 その男が、妃の放った密偵であると分かっていてもだ。

 耐え忍び、それでも愛を語り、メシアを語り、興味を持つ若者と、戯言と嘲笑う者達が分かれてきても、尚平等に話を聞かせる。

 イシャはもう限界だった。疲れた。休みたい。誰かに寄り添っていて欲しい。

 そして出来るなら、それは王弟でいて欲しい。間もなく子供も生まれる高嶺の花と分かっていても、あの優しく憂いを帯びた蠱惑こわく的な寂しい表情は、その奥底を知りたくなる。この国で何よりも分かりたい、知りたい、そして出来るなら抱きしめて貰いたい、そう思う唯一の人。

 坊やへの仕打ちを思えば、イシャが幸せを、恋を、愛を求める訳には行かない。そう思うと、休む暇もなく働いていなければ、王弟への煩悩をかき消すことが出来ない。イシュは何度も、休めと言ったが、休もうとすると、幻の王弟が覆い被さってくる。愛している、われの近習になれ、と、いつかの告白が猛毒のようにイシャの身体を蝕む。強弓を操るあの逞しい腕に吸い込まれたら、何もかも忘れて赦されるような気がして。そんな筈はないのに。

 その日も給金を払い、罵声を浴び、漸く日の沈む頃にヘトヘトになって帰ってくると、何やら離宮が騒がしい。使用人頭に理由を聞くと、今はそれどころじゃない、と、あしらわれてしまった。どうしたものか、と、とりあえず王弟の部屋に行くと、王弟は頭を抱えて、今にも泣き出しそうになっていた。

「殿下!? 如何なされましたか、殿下!?」

「妻が…。」

「妃殿下がどうなされたのですか?」

「子を産んだ。元気な子を…。」

 喜ばしいことの筈なのに、何故か王弟は悲しみに暮れている。感動して泣いているのではない。頭を抱え、酷く沈み泣いている。心の底に押し込めたものを吐き出す様に、濁声をあげて泣いている。

「殿下、落ち着いてください。宜しければ、私めにお話し下さい。」

「妻が………。子を産んだのだ。………一人。」

「はい、はい。」

「………。姫だった…!」

 生まれた子が女。という事は、妃は王位継承者を産めなかったと言う事になる。

「殿下、妃殿下の産褥さんじょくが酷いのですか?」

「今は落ち着いて眠っている。姫も…眠っている。」

「殿下、まだ機会はございます。妃殿下のお身体の許す限り―――。」

 その時、王弟はまるで抱きつくかのようにイシャを抱きしめた。否、拘束した。すがったと言ってもいいかもしれない。

「あああ、…ああああ、………うわあああああ…っ!」

「殿下………。」

「姫だった…。王太子ではなかった…!」

 その悲しみが何から来るのか、イシャには分かった。だがそれは、理解してはいけない事でもあった。

 王弟には妻がいる。イシャがしゃしゃり出て、王弟の心を救うことは簡単だ。傲慢と言われようと不遜と言われようと構わない。イシャは王弟の悩みを理解している。王弟が心を開いていないだけだ。

 だがそれは姦淫の罪だ。邪淫の罪だ。妻子ある男をたぶらかしてはならない。それはユダヤの掟でもあり、パルティアの掟でもあり、何よりそれは、イシャ自身の掟でもあった。

 他人の幸福を壊して、自分が幸福になってはならない。

 坊やの平安を奪い、穢し、一生癒えることのない傷を負わせてしまったイシャは、利他的に生きることでその贖いとするしかないのだから。

「王子が産まれるまで…。王太子が産まれるまで…。われは―――。」

「大丈夫でございます、殿下。私がおります。妃殿下のお加減が悪い時、いつでも私は控えております。」

「イシャ………。」

「殿下、私の忠誠は真の王に奉げております。なれどその王が、王弟殿下、貴方様にお仕えせよとお命じになっているから、私はここにいるのでございます。どうぞ私をお使いください。」

 王弟はボロボロと涙をこぼし、再度イシャを強く抱きしめた。

「もう、妻を抱くのは嫌だ………。」

「殿下…。」

「国王陛下が…。兄上が二度と子供はいらぬと…。われの妻以外の子供などいらぬと仰ったから、われはまだ妻が赤子のころより婚約をした。妻が女になった途端、王太子を産むと言って毎晩のように迫ってくる。それも、一晩に一度や二度ではない。………もう嫌だ。………イシャ。」

 まるで情愛を求めるかのように、王弟はイシャの頬に触れる。その掌に自分の掌を重ねることは簡単だ。だがそれは、坊やへの冒涜を更に踏みにじる行為だ。イシャは王弟の掌を優しく包み、胸の前に戻した。

「殿下、妻子ある方は妻子に奉仕するべきです。私も可能な限り殿下のお力になります。どうぞ義務を―――王太子を産ませると言う、義務を、果たしてください。」

 言っていて涙が流れた。何故、何故、何故、と、理不尽な答えばかりが頭の中を過ぎる。王女が産まれたことが恨めしい。王弟の血を引く正当な王族なのに、何故こんなにも王弟は苦しめられなければならないのか。何故国主は男でなくては駄目なのか。同じ血を引いているのであれば女王がいても良いではないか。好きでもない娘と結婚をし、そうまでして血筋を保ち男子に拘り続けることに何の意味がある。真に愛し合うだけでは駄目なのか。

 好いた相手と結ばれることは、わたし達双子の人間にとって、そんなにも罪深いことなのだろうか。

 産めよ、増えよ、地に満ちよとは律法の言葉だ。だがメシアは新しい約束として、互いに愛し合うようにと言った。こんなにも苦しんでいる王弟に、掟だから義務だからと押し付けて、それが果たして愛だろうか。

 王弟もまた、自分と同じ双子の男。内なる感情に押さえつけられている憐れな男。それを思うと、発狂してでも妃と別れさせたくなる。このままでは、王弟は幸せにはなれない。

 嗚呼、だけど、だけど。

 坊やの幸せすら、大切な坊やの幸せすら守れなかった自分が、どの面を下げてそんなことが言えるだろうか!

「イシャ?」

 そっと胸を押しかえす。拒絶ではない。突き離す事でもない。唯、これ以上は無駄に王弟の絶望を深めるだけだ。

「どうぞ、お戻りを…。妃殿下のお傍に、内親王殿下のお傍にいて差し上げて下さい。夫とは、父とは、そのような者にございます。」

「ああ………。そうであったな………。」

 何か見放されたような、親に拒絶された子供のような表情をして、王弟は後ろ髪を引かれるように立ち去った。イシャも早々に、王弟の部屋を出て自分の部屋に戻る。近衛兵に適当な用を言いつけて追い払うと、ぼろりぼろりと化けの皮が剥がれるように涙が流れた。寝台に飛び込み、声を押し殺して泣くイシャに寄り添い、イシュが静かに宥める。

「偉かったぞ、イシャ。」

「………ぐす。」

「ぼくが言わなくても、坊やの事を忘れなかった。…お前は、偉いよ。」

「………うん。」

「王弟に子供を産ませる能力があると分かった以上、妃は産褥さんじょくを過ぎれば今以上に執着するはずだ。」

「………。」

「もう、今迄みたいに離宮から出られなくなるかもしれない。王女が産まれて宮廷の来客も増えて、政敵も同様に増える。」

「分かってる。」

「…だから言っただろ。恋は、坊やだけで終わらせるんだ。」

「分かってる………。」

「お前が不幸になれって言ってるんじゃない。王弟は駄目だって言ってるんだ。」

「うん………。王族だものね。」

「それに、ここでの竣工が終わったら、もっと東へ行かなくちゃならないんだから。…その時に辛いのは、お前だからな。」

「うん。もう寝るわ。寝て、全部忘れる。疲れも、悔しさも、全部。」

「それがいい。お休み、イシャ。今だけは、安らかに。」

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