第四十一節 遠駆の二人

 イシュの憂慮以上の展開になった。

 乳母が王女を育てるのは王族にはよくあることだと思っていたが、まさか産褥さんじょく期の鬱憤がイシャに向かうとは思ってもいなかった。てっきり王弟に甘えたり、当てこすりをしたりするかと思っていたが、そうではなく、イシャの部屋にやってきて、メシアの話をするように命令する。

 初めこそ、妃の時が漸く満ちたのだと喜んだ。だが実際は、イシャの信仰を試し、貶し、挙句の果てには凌辱する為だった。

 それでも、何度でも『メシアのお話を聞かせて』と言われれば断ることは出来ない。しかし『それは違うと思いますわ』『メシアは間違っていますわ』などと言われても反論できない。反論するべき舌が与えられていないからだ。王弟に相談しよう、と、イシュは言ったが、妃とメシアの霊的絆が築かれているかもしれないのに、無粋な横槍は許されない。本当はイシャも、妃の目的がメシアではなく、イシャ個人への冒涜であることには気づいていた。それでも、反論する舌が与えられない限り、イシャは唯々頷いて、『仰りたいことはよく分かります』『真に、真に、その通りでございます』と繰り返すことしか出来ない。

 朝食を手早く済ませ、瓶担ぎの部屋で説教をし、給金についての不満を聞きながら城下の者達に仕事を与え、日が落ちると離宮に戻り、夕食の時間まで妃のいびりに付き合って只管黙り相槌を打ち、毎度王弟の誘いを断って上級使用人たちと共に夕食を終えると、部屋に戻って泥のように眠る。だがこの泥濘には常に妃の言葉が渦巻き、イシャの身体にへばりつき、魂を蝕む。

 せめて一時、王弟と話す機会さえあれば、大分違うのに………。せめて妃の眼の届かない所で、何も言わずに食卓を囲むことが出来れば。

 そう思わずにはいられない。王弟は正直、王位を継承できない内親王には興味がないようだった。唯王族が一人増えたことに対する処理や、凍死した乞食たちの供養をし暴動を防いだりと、冬は冬で膨大な公務がある。もう間もなく乾季が来る。国王が遠征に行って一年。あと同じだけの時間を過ごせば、その時こそ、全ての労苦が報われる。

 ただそれのみを支えとして、イシャは今にも切れてしまいそうな、蜘蛛の糸のような信仰を支え続けた。

 その糸は僅かな傲慢によりぷつりと切れてしまうようなもので、幾度となく怒りや嫉妬でその糸に火がついたか分からない。その糸の火を消すには、祈りが一番だと分かっていても、毎日のように聞かされるメシアへの侮辱と自分の行いについての侮辱は、イシャの信仰を何度も試させた。

 他の弟子達と違い、たった一人で東へ、イスラエルという楽園から遥か東へやってきたイシャには、共に祈りを捧げてくれる者もなく、励ます手紙も来ない。否、イスラエルに手紙を送ろうと思えば出来たのだ。だが帰ってくる返事の内容が想像できるものほど空しい物は無い。

 イシャは絶望していた。

 あの時瓶担ぎを復活させていれば、もっと使用人たちは自分の言うことを信じてくれたのではないか。そんな後悔にも似た疑惑が沸々と湧き起こり、イシャの信仰を蝕む。メシアを試せと言われさえしなければ、そう思うと、妃が憎らしくて堪らない。

 だが、あのように幼い妃が、自分の父親ほどの夫の愛を独占しようと、拙い頭脳で姦計かんけいを巡らす様は、無様というより憐れに思うのも事実だ。そう思うと、やはり自分は離宮などではなく、臣民たちと共に貧しく暮らした方が良いのではないだろうかと思う。しかしそんなことをすれば、乞食たちに給金を支払い、今はいない国王の天上の宝を積むことが出来ない。それは同時に、王弟の天上の宝をも積むことが出来ないという事でもあった。

 王弟殿下の為にも、働き続けなければ―――今の生活を続けなくては―――そう思うと心が死体のようにずるずると腐って行く。


「王弟殿下、謁見の賜りたいのですが。」

 ある時、イシャは改まって王弟に提訴することに決めた。これ以上は耐えられない。王弟は畏まったイシャの態度に不信感を持っていたが、一般臣下の謁見の後、特別二人きりの時間を作ってくれた。だが謁見は謁見だ。イシャは捨ててしまった自分の服の代わりに、使用人頭に服を借り、なるべく身を整えて頭を下げた。

「王弟殿下、どうか妃殿下と内親王殿下のお傍に、これまで以上に居て差し上げて下さいませ。」

「どういう意味か。」

「妃殿下が、王弟殿下がお傍にいてくれないと、私めに相談するのでございます。王弟殿下は国王陛下よりパルティアの統治を任され、更に内親王殿下や乳母を始めとする侍者、警護も手配せねばならず、御多忙なのは重々承知の上です。なれど妃殿下は、御子をお産みになったばかりで、大変情緒が不安定でございます。日増しに不安が募るのでしょう、外で労働した後、特別に時間を取り、このような相談を毎日―――。」

「イシャよ。」

 なるべく目を見ないように顔を上げずにいたが、突然王弟が椅子から立ち上がり、くっと顎を持ち上げた。

「誓ってそれは真実か。」

「真に、真に、そうにございます。」

「メシアに誓ってか。」

「はい。」

「………。」

 王弟は何か考え、来い、と二の腕を掴み、部屋を足早に出た。このまま妃の所まで連れて行き、詳細を聞き出すなどという事はしないと思うが、王女が産まれた今、王弟の行動規範が変わっていては厄介だ。とにかく何も言わずについて行くと、王弟は私室に入り、この国で最初に出会った時のような服を押し付け、身分を表す首飾りだけを身につけ、動きやすく丈夫な服に着替えた。目線が同じようにするようにと言っていたので、イシャも同じようにした。

「あの、殿下…。」

「黙れ。」

 質問は許されなかった。王弟の機嫌も伺えない。唯有無を言わさず、王弟はまるでイシャが離れるのを恐れるかのように、力強く二の腕を握り、裏道を通り、うまやまで行って、漸くイシャの方を見た。

「お前は馬には乗れるのか。」

「いえ、旅には必要ないものにございましたので。」

「そうか、なれば。」

 王弟はひょいっとイシャを青駒の上に乗せると、弓矢を取り、そのまま自分もイシャのすぐ後ろに座る。かなり密着していて、イシャの背中は王弟の胸板から腹の下までぴったりとくっついた。余りの事に、思わず鞍の淵に掴まる。うまや番が気付くよりも早く、王弟は馬の腹を蹴り、駆け出した。

「で、殿下!?」

「黙っていよ。」

 馬の脚は速く、傍の狩り用の森を抜けると、あっという間に、いつか密偵の話をした荒野までやって来た。王弟の意図が分からず、イシャが馬上で震えていると、王弟は誰もいないことを確認し、後ろから抱きしめた。

「すまぬ。辛い思いをさせたな。」

「殿下…?」

われは冗談を好まぬ。嘘も好まぬ。…だがな、イシャよ。」

 振り向かせたイシャの額に口付け、誰にも聞こえないように囁く。

「物言わぬ口は、寂しい限りぞ。」

「………。」

「妻の申した事、全て言ってみよ。ここならば、誰も来ぬ。…密偵も、この短時間では来ぬ。」

「………。」

「この弓はお前の唇を護る弓ぞ。安心して申せ。」

「………。」

 耳の傍に、王弟の早まった鼓動がある。頬を摺り寄せれば、その鼓動は自分のものになる。王弟はそれに気づき、強く抱きしめて自分の胸に顔を埋めさせた。外の世界から隔離され王弟の腕の中に匿われ、イシャはわっと泣き出した。絞り出し、羊が子羊を産む時のように力み、小さな身体をすっぽりと王弟の身体の抱擁の中に入れ、掌に吐き出す様に泣いた。王弟の節だった掌が、呼吸に合わせて優しく後頭部を包み、その心臓に合わせて背中を摩った。

 妃の行く末も、自分の処分も、何もかも忘れて、イシャはこれまでの仕打ちを全て王弟に話した。自分が王弟に特別な感情を持っている事以外、全てを。会食で汚れていた理由、火事の真相、毒矢の真実、瓶担ぎの本当の死因、そしてイシャへの冒涜。へりくだってなくてもいい、メシアのしもべとして相応しくなくてもいい、唯一気に、イシャがイシュにするように一気に吐き出した。

 王弟は黙って頭を撫でて背中を摩り、相槌すらも打たなかった。ただ、そのひそめた眉からは、妃に対する怒りではなく、唯イシャに全て背負い込ませた悲しみだけがある。それでイシャは十分だった。妃に怒りの矛先が行ったら目覚めが悪すぎる。

 そんな事よりも、唯イシャの苦しみを分かってくれるだけで良かった。それを一番求めていたからだ。

 海を隔てた地の兄弟の祈りよりも、自分の言葉に導かれ水の霊を受け入れる人よりも。

 たった一人で背負いこまなければならない苦しみを理解してほしかった。

「イシャよ。やはりお前はわれの近習となれ。」

「殿下…。」

「最早お前の主が誰かなど関係ない。お前のメシアが駄目だと言うなら、メシアも善神も及ばぬところまでこの馬と駆ける。…お前が苦しむのは見たくない。」

「………。」

 魅力的な申し出と言えばそうだった。だが今はまだ『その時』ではない。王弟も、その事は何となく分かっているようだった。断られて当たり前、自分の気持ちだけ伝えたい。そんな表情で、濡れた前髪を拭う。

「………お前には安らかでいて欲しい、イシャ。」

「!」

 額に口づけられた瞬間、イシャの背筋に電流が走る。

 泣き叫ぶ坊やの顔、神殿で怒り狂ったメシアの顔、羊飼いと愛を約束した日の周囲の顔、ありとあらゆる怒りの顔が神鳴りのように頭を駆け抜ける。その耳には横暴の限りを尽くすローマ兵の馬の轟きが響き、口の中に抜け落ちた坊やの魂の残留が広がる。

「どうしたのだ。」

「………殿下、私は………。」

「今は答えずとも良い。…何れ時が満ち、お前がこの地を去る時、われの未練を断ち切ってくれれば。」

「………はい。」

 王弟もまた、自分と同じ双子の人間。その寂しさも辛さもよく分かる。

 だがそれによって、イシャが何かしらの益を被ることなど許されない。

 くびきのようなそれは、イシャの心の中で膨らみ続ける感情を強く拘束し、今にも皹が入りそうだった。

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