第三十九節 対極の二人

 妃の狂気を垣間見てから、かなりの日数が経った。こう何日も休んではいられない、怪我をしてでもいいから働きたい、と、離宮に乞食たちが詰めかけた時には、妃によって乞食諸共締め出されそうになった。度重なる豪雨のおかげで、家や畑を失った人が増え、仕事を求める人々は、まるで膨らまし粉を入れたパンのように膨大に増えていく。最初の十二人がどうにか仕事を覚えてくれているのが幸いだった。イシャがどうしても外へ行けない時は、彼等が補ってくれている。

イシャが金を持って外へ出る度に、妃はヒステリーを起こした。王弟が何とか宥めると、何度でも証を見せろと言い、イシャの前でキスをしていた時は頭が痛くなった。そこまでして熱愛を当てこすりしなくても、何もしないというのに。

 王弟も夜、イシャの部屋で愚痴を零すことが多くなった。妃が営みを求める事こそなくなったというが、夜になるとイシャの悪口や使用人についての我儘がとにかく多いのだという。全体的に苛立っていることが多くなった、と項垂れていた。

「イシャよ、妻は本当に悪霊の類に惑わされているのではないだろうか。」

「申し訳ありませんが、分かりかねます。少なくとも私には、妃殿下はいつも通りに見えます。」

「普段からああだったのか。」

「恐れながら、妃殿下は私を好ましく思っていないご様子。私から見れば、いつもの妃殿下です。」

「昔は使用人にも、あんなに酷い言葉は使わなかったのだがな…。」

 杯を空けて傾けて来るので、イシャは杯を押し戻した。

「呑み過ぎです、殿下。明日も水害の対処がございますでしょう。」

「ああ…そうだったか。お前の方はどうだ。」

「始めの十二人とその家族の為の家は全て完成しました。特にあの一番小さな乞食だった少年の呑みこみは、目を見張るものがあります。今や大人たちを率いて家を建てる勢いです。大人たちはどちらかというと、遠くから石を持って来たり、他の乞食たちを集めることの方が向いている気がします。」

「予算はあとどれくらいある。」

「大きな袋に六つございます。」

「この調子だと、天の宮殿とやらはいつ頃出来る。」

「天の宮殿は完成する物ではございません。日々の火のように燃え盛る愛の祈りによって、常に大きくなるものです。しかし地上での『宮殿』の完成は、存外早いかも知れません。何しろ一日一日、仕事を求める人が鼠算のように増えておりますから。」

「そうか。しかし一度で良いから、われも天の宮殿を見てみたい。」

 どこか諦めたかのような王弟の横顔が胸に刺さる。今ここで、王弟も見ることが出来る、漁火のように燃える愛の宮殿を見ることが出来る、と言ったところで、それが一体どんな慰めになると言うのだろう。王弟は未だ悩みを抱えていると言うのに。そしてそれをイシャに話していないという事は、まだ心を開いていないという事だと言うのに。

「イシャよ。われは明日、建築現場に行きたい。」

「いけません。統治者の義務を怠ることは許されません。」

「何、水害の現状を見てくると言えばよい。事実、大雨の所為でどれほど工事に支障が出ているか見ておきたい。」

「本当に…、困った御方ですね。妃殿下にはくれぐれも怪しまれないようにしてくださいませ。」

「ああ…。」

 はぁ、と王弟は溜息を吐いた。もう帰る、というので、イシャは微笑んで見送り、片づけをして寝台に横になった。


 早朝、珍しくイシャの部屋に、朝食を運ぶ小姓ではなく、王弟の近衛兵が遣わされた。一体何事かと言われるがままについて行くと、王弟と妃の食卓に招かれた。この時ばかりは、妃も微笑んでいる。ただ、その微笑みがどこか不気味なのは変わらない。王弟は、とても晴れやかな顔をしていた。

「喜べイシャ。たった今、妻に魂が入った。」

「………は?」

「うふふ、石女だと分からないかもしれませんわね。どうぞいらっしゃいな。わたくしの身体に触れる名誉を授けましょう。」

 腹黒い笑みの裏を量りかねていると、妃がクスリと笑って立ち上がり、イシャの手を自分の下腹部に当てた。


 とん。


「………!」

「ふふふ、どう? 愛おしい温もりでしょう? あと半年もせずに、パルティアの新たな光が産まれ落ちるのですよ。」

「あ………。」

 思わず言葉を無くした。ひんやりと冷たい妃の指先から毒が流れ込んでくる。今すぐこの腹を蹴り飛ばし、揺り籠をぐちゃぐちゃに壊して、小さな命を踏みにじってやりたいという、凄まじい嫉妬。揺り籠を持たないイシャへの当て付けのように、何度も腹を撫でさせる妃。王弟は微笑んで、それを止めようともしない。

「これで、われも肩の荷が下りたというものよ。妻よ、元気な王子を産め。」

「ええ、殿下。殿下とわたくしの子ですもの。きっと珠のように可愛い子ですわ。………あら? また蹴飛ばしたみたいですわね。」

「大変元気なやや子のご様子。おめでとうございます、妃殿下。」

「イシャよ、今日はわれの子の魂が妻に入った喜びの日ぞ。ここに来て、共に食すが良い。」

 王弟の表情から影が消えている。イシャは声を震わせながら答えた。

「有難き僥倖にございます、王弟殿下。しかし私は朝の祈りをしなくてはなりません。祈りは、他人に見られてはならないものにございます。妃殿下とその御子の祝福を祈る為、朝食は部屋で頂きたいのですが。」

「そうか…。お前は忙しいからな。朝くらいは一人の時間が欲しいという事か。」

「勿体無きお誘い、申し訳ございません。」

「良かろう。近衛兵、イシャを部屋まで送るがよい。」

 近衛兵に顔を見られないようにしながら、イシャは部屋まで戻った。

 戻るなり、痰壺に盛大に吐き戻す。とてもじゃないが、身体の震えが止まらず、食事を摂る気になどなれなかった。

「イシャ、しっかり、ぼくがいるからね。」

「うえええ…。」

「大丈夫だよ、イシャ。」

「う…っうう…っ。」

 痰壺の中の汚物に、透明なイシャの涙が落ちて跳ねる。イシュは努めて冷静に言った。

「妃と王弟が情交セックスしてりゃ、何れはこうなるんだ。それが目的なんだから。そして王弟の義務でもあるんだよ。世継ぎの君を産ませなくちゃならないんだ。」

「………。」

「例えお前に揺り籠があったとしても、イシャ、お前には王弟の子供は産めないよ。そういう身分なんだ。」

「………。」

「ぼく達はいずれこの地を去る。未練は…無い方がいいんだよ。」

「………ぐす。」

「妃は悪霊に憑りつかれてたんじゃない。王太子を身籠った悪阻の所為だったんだよ。それが分かっただけ、喜ばなくちゃ。」

「………。うん。」

「そんな事より、早く仕事に行こう。瓶担ぎが殉教した直後だ、何かしら一騒動起こるぞ。」

「…うん。」

 イシャは頬を拭い、血のように赤い瞳を涙で洗い流し、瓶担ぎの部屋に行った。

 瓶担ぎ亡き今、部屋の荷物は少しさっぱりとしているが、イシャの話を聞こうと訪れた使用人たちは部屋の中に入れない程だった。瓶担ぎが妃の怒りに触れて尚従おうとした信念。皮肉というべきか、瓶担ぎの死は、イシャの祈りを叶えたのだ。彼等の好奇心の中に、確かに信仰の種が撒かれているのが分かる。瞳の輝き方が違うし、何より聞いている姿勢が違うのだ。今までは、イシャが真面目に話をしていても、面白いと思ったときは歓声を上げ、つまらない、難しいと思った時は何人かキョロキョロと視線を動かしたりしていたが、今は皆前傾になり、イシャの言葉を聞き逃すまいとしている。

「皆さん、先日、この離宮で瓶担ぎが死にました。しかしメシアは彼を覚えています。それは死ではなく、メシアと一つになると言うことで、悲しいことですが、本質としては喜ばしいことです。瓶担ぎは、天の国にいます。」

「一つになるという事は、メシアは女性なのですか?」

「………!!」

 先程の勝ち誇ったような妃の厭らしい笑みが頭を過ぎる。自分の存在を誇示するかのようなあの小さな足の感触が掌に蘇り、イシャは胸の前で手を隠しながらそれを握りつぶした。声を振り絞り、しかし冷静に、イシャは答えた。

「私もかつて、メシアに同じことを訊ねました。その時メシアはこう仰いました。『天の国では、男も女も関係ない、天使のような存在になる』と。」

「天使とは、拝火教における守護霊のようなものですか?」

「そうです。瓶担ぎは、拝火教の教えで言えば守護霊と同一になり、善神の傍に置かれています。」

「それを、閣下はどのようにして見たのですか?」

「それがメシアの神秘なのです。口では説明がつくものではありません。信仰によってしか、メシアは語ることも出来なければ、理解することは勿論、その後ろ姿も影さえも見ることは出来ません。」

「では瓶担ぎは、どうして死の間際、拝火教を捨て、メシアについて行くことにしたのですか。」

「拝火教を捨てたのではありません。瓶担ぎは信仰によって、拝火教の更に奥にあるメシアという真理に辿りついたのです。いいですか、勘違いしてはいけません。メシアの教えは拝火教に勝るものではありません。メシアの教えは、拝火教も太陽信仰も沙門さもんの教えも、全ての教えを完成させるものであり、優劣はありません。」

 今までであれば、この辺りで何人かが欠伸をしていたが、今は目を見開いて話に聞き入っている。

「メシアが十字架の上で受難に耐えている間に、強盗の一人が、一言だけ、メシアに声をかけました。その時、メシアは『貴方は今日、私と共に天の国にいる』と言ったのです。瓶担ぎも同じです。拝火教の教えの中に居ながら、末期の刹那、愛に餓え渇き、メシアに声をかけたのです。それによって、瓶担ぎは何の徳を積むこともなく、メシアの元へ引き上げられたのです。」

「何故、徳を積まないでもメシアの元へ行けるのですか。私達は、徳を積まずに放蕩の限りを尽くしても良いのですか。」

「そうではありません。メシアは百の悪行より、一抹の愛を尊ばれます。従って貴方方が放蕩の限りを尽くしていても、施しを続けていても、そこに愛がなければ、メシアはお心に留めません。しかしメシアは忍耐強い方です。貴方方が愛に生きる喜びを見出すまで、その手を額に置くことはありません。」

「私達が迷っている間、待っていてくださるのですか。」

「その通りです。」

 イシャが偽った笑みを張りつけ微笑むと、入口にいた近衛兵が中の使用人たちに言った。

「王弟殿下と妃殿下がお食事を終えられた。閣下、お話の続きはまた明日!」

「はい、分かりました。それでは私はこれから天の宮殿のために外に出ます。貴方方も、メシアのお命じになられた通りに、愛を尽くしてご奉仕に励みなさい。」

「はい、閣下!」

 わらわらと使用人たちは出て行く。イシャは最後の一人まで見送り、近衛兵もいなくなったのを確認し、ボロボロと泣き出した。

「イシャ、立派だったよ。お前はメシアからのお勤めを立派に果たした。大丈夫だよ。」

「わたし、わたし早く天の国に行きたい…。男も女も身分も関係のなくなる世界に行きたいよぉ…っ。」

「駄目だよ、イシャ。架せられた使命を果たして、メシアが来いとお命じになるまで、この世で福音を述べ伝え続けなくちゃ。さあ行こう、今日の食べ物を買うお金を求める人がいる。」

 震えて動けない脚をどうにか支えて、イシャは袋のある部屋まで歩いて行った。

 その日、王弟は建築現場には来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る