第三十八節 流血の二人
パルティアは雨季になった。イスラエルにも雨季はあったが、パルティアの雨季は想像以上だった。本当に酷い時など、外に出て行けない。すぐに治まるから大丈夫だ、と思っていた。が、そんなことは無く、道が泥濘み、とてもではないが仕事をするには足場が悪すぎる。まして仕事をするのは熟練の職人ではない。始めの十二人の弟子達だって、イシュから見ればひよっこもひよっこだ。そんなところで、鋸だの重い石積みだの、やらせる訳には行かない。怪我をさせたら働けなくなる。
そして正直に言うと、イシャは雨が降ると気が楽になった。瓶担ぎの部屋で説教に集中できるからだ。王弟も最近は妃の世話にせっつかれたり、やれ土砂崩れだ洪水だと各地で水害が起こったりしているらしく、中々寺院へ休みに行くことが出来ない。自然と妃の機嫌も治って行く―――かと思えば、この頃妃は日増しに機嫌が悪くなっているように思える。何が原因なのか、イシャには皆目見当もつかないが、今の所その矛先は忙しさに感けて構っていられない王弟に向かっているようなので、あまり考えないようにしている。
「閣下、閣下の仰る『復活』とは、そんなに素晴らしいものなのですか?」
瓶担ぎの部屋で軽食を食べながら話をしていると、近衛兵の一人が顔だけ覗かせて質問をした。イシャは答えた。
「素晴らしいことです。人は皆死にます。その事実は変えられません。そしてその死とは、絶望です。しかしメシアは、自ら復活することによって、死を凌駕し、また御自らのお大切な追随者達を、同じように死から救うという事を実証したのです。」
「閣下は、それを見たのですか?」
「はい。私は全裸だったメシアにお召し物を差し上げ、処刑された時についた傷口に触り、祝福を受けましたから。」
「夢だったという可能性は無いのですか?」
「何でしたら、イスラエルにまた手紙を送りましょう。同じように、復活したメシアに会った者達が何百人もいます。」
「何百人!」
聴衆がざわついた。イシャは両手でそれを鎮めて、続けた。
「当時、メシアがまだラビと呼ばれた頃、つまり復活の直前ですが、その時、メシアに追従する者達は、イスラエル中に散らばって、鍵をかけて引きこもっていました。仲間だという事で殺されてしまうかもしれないからです。ところが復活されたラビ、つまりメシアは、鍵をかけた部屋に堂々と入ってきて、自ら食事の準備をしたり、それを召し上がったりしました。」
「因みに何を食べたんですか?」
「魚です。焼き魚。」
どっと聴衆が笑い出した。つられてイシャもクスクスと笑う。そこから、メシアが如何に人間的な人間であり、同時に奇跡を起こしたかという話になった。それでもやはり、聴衆の目の輝きで分かる。彼等は好奇心でしか聞いていない。心で聞いていない。
そう言えばラビは、以前信仰を種まきに例えたことがあった。パルティアでは農作方法が違うため、例えとして適さないと思ったので話していないが、イシャは例え干乾びた大地に落ちた種でも、運よく雨が降れば芽吹くと信じている。
「…何をしているのですか!?」
突然特徴的なヒステリックな声が聞こえて、使用人達の背筋が凍り付く。イシャも顔が強張るのを感じた。一同揃って立ち上がり、この国で最も高貴な貴婦人に礼をする。しかし妃はイシャを見るなり、近衛兵の持っていた剣を一本奪い取り、イシャに無造作に投げつけた。幸いにも弱い女の肩で投げたひょろひょろの軌道では、イシャの胸を貫くことは出来なかったが、逆にそれが逆鱗に触れたらしい。
「さっきから何遍呼んだと思っているのです!? こんな気持ち悪い話に傾倒して!! わたくしの呼びかけを無視して
「妃殿下、この方の訓示は決して下卑た
「お黙り!!」
瓶担ぎが弁明しようとした時、妃は別の近衛兵の剣を引き抜き、瓶担ぎの腹にそれを突き立てた。使用人の娘たちが悲鳴をあげて必死に頭を下げる。慌ててその背中を飛び越え、イシャは瓶担ぎに走り寄り、傷口を押さえた。あまりの蛮行に、使用人頭も声を上げる。
「妃殿下!! 使用人たちの不始末は私めの不始末で―――。」
「そんなことどうでも宜しいことですわ! 早く食事をお作りなさい!! わたくしはお腹が空いて空いて堪らないのです!! 貴方達、こんな気持ち悪い大工にすり寄るために朝食を手抜きしたんでしょう!」
「め、滅相も―――。」
「言い訳するなら早くお作りなさい!!」
使用人たちは慌てて散って行った。イシャが瓶担ぎに呼びかけていると、妃はイシャの顔を蹴り飛ばし、吐き捨てた。
「殿下から聞きましたわ。貴方、魔術を使って死人を生き返らせたんですってね。その子供も生き返らせてみたら如何?」
「………。」
その言葉を聞いた時、イシャは瓶担ぎの命を諦めざるを得なかった。その事が通じたのだろうか、瓶担ぎは額に脂汗を浮かべながら、弱弱しい手でイシャの手を握った。
「閣下…。貴方の、神に………。わたしの、いのち、を………。」
その時、石の上に置かれた種が芽吹いたのを知った。余りに儚く、悲しい種が。ならばイシャが言うべきことは一つだ。
「貴方は今日、真の愛の火の内に還るのです。暫しの別れ、私も時が来れば、必ず貴方のところに行きます。」
瓶担ぎは微かに笑った―――ような気がした。かくん、と、小さな音を立てて頭が落ち、喉を仰け反らせる。僅かに開いた唇を静かに閉じて、痛みに強張った顔の緊張を取り除いてやる。一連の動作を見て、尚も妃は嘲笑った。
「このわたくしを前に魔術が使えるなんて思ったら大間違いでしてよ。」
「………………。今、私がこの瓶担ぎを生き返らせることは、至極簡単です。メシアの名において為されることに、不可能なことはありません。」
怒りを抑えていても、悔しさと醜さが瞳から滲む。獲物を前に息を潜める獣のように息を震わせ、それでも道を踏み外さないように耐えた。だがこれだけは言ってやりたかった。
「もし妃殿下がメシアを試そうとしなければ、この瓶担ぎの少年は息を吹き返し、メシアの栄光を示したでしょう。」
「まあ、わたくしがこの子供を殺したとでも言いたいの?」
「この子の腹を突き破った刃は、妃殿下、貴方様の物にございます。」
「ほっほ…、わたくしに意見するというの。自分が魔術師と見破られるのを恐れたことを、わたくしのせいにするの。」
これ以上話していると、本当に怒りで気がどうにかなってしまいそうだった。瓶担ぎの骸を抱いて、静かに部屋を出る。妃の機嫌の悪さを凍り付く様に知らしめられた使用人たちは、イシャがどこに行こうと構わず、食事の準備に追われていた。
イシャは血を滴らせながら、中庭へ行った。凄まじい豪雨が飛び込み、目が開けていられない。開けられないのであれば、開けなければよい。イシャは目を閉じ、強く願った。
「メシア…、我がメシアよ。今この国で初めて、貴方の道のために貴方の愛し子が死にました。どうぞこの者の心の洗礼を御認め下さい…。」
まるで生まれたばかりの赤子を祝福するかのように、イシャは瓶担ぎの死体を高々と掲げた。雨が死体の血を吸い、イシャの顔に降り注ぐ。
それは、メシアがラビとして死んだあの時の事を、髣髴とさせるものでもあった。
「―――、―――。」
後ろから誰かに呼ばれた。雨の音が五月蝿くて良く聞こえない。振り向いたが、やはり雨が邪魔で良く見えない。仕方がないので、中庭の入口まで、瓶担ぎを抱いたまま戻った。声の主は王弟だった。
「何をしている。その少年はどうしたのだ。」
「………。この国で初めて、メシアの道に殉じた者にございます。」
「お前の神の…。では拝火教の葬送では哀れだな。お前の神は、どのような葬儀を好むのだ。」
王弟の心遣いも、今は空しいばかりだ。もっと力強く、あの洗礼者のように権力に怖気づくことなく強気に伝道をしていれば、この少年は死ななかったのではないか。神の道に殉じる事が不幸だとは思わない。だが、瓶担ぎを死に引き渡したのは他でもないこのわたしだ、とイシャは思うのだ。
その国を、土地を、文化を、民を優先しすぎたのだろうか。悪徳は悪徳であるというべきだったのだろうか。この国の習慣は、歴史は、悪徳に塗れた邪神の文化だと、旧い約束を思い起こさせようとした預言者たちのように、この国の全てを否定すれば良かったのだろうか。妃の挑戦を受けて、妃を猛省させるべきだったのだろうか。
「私達の国では…。古きユダヤの掟が前提でした。この者は…。」
拝火教の教えの中に生まれ、生き、そしてメシアの教えの中に死んだ瓶担ぎ。彼ならどんな選択を求めるだろうか。イシャは意識を集中させ、心の奥底にある聖霊の種火を引き起こす。
権力者に恐れることなく、間違いを訂正しようとしたこの少年の、最も望む葬送とは、何か。
「イシャ、何故黙っている。」
「………。葬儀は、必要ございません。」
「…何故。」
「瓶担ぎの魂は、この身体にはございません。彼の選んだ神の御前にあります。彼の家族の許に骸を帰してやり、ご家族の悲しみを癒す為にあるべきです。」
「そうか、わかった。では近衛兵、遺体を。」
「使用人とはいえ私の兄弟となる事を望んだ者です。どうぞ丁重にお願い致します。」
「
近衛兵は深く礼をして、瓶担ぎの骸を受けとり、その場を去った。
「イシャよ。」
「はい。」
「………。この頃、妻は気がおかしい。平素より怒るに早く、狂ったように食べ物を食らい続け、かと思えば以前のような情欲は見せなくなった。…イシャ、お前の力で、妻についた悪霊を取り除いてはくれぬか。」
「それは………。できないことでございます、殿下。」
「なんと。」
「不敬ではございません。メシアの名において出来ない事は何もありません。しかし、いくらメシアを説き伏せ、メシアの恵みを零れんばかりに頂いたとしても、それを受け入れる心がなければ、奇跡は起こりません。」
「ではあの商人は何故生き返ったのだ。」
「何故、誰が、という事は、私には分かりません。メシアの御心に沿う形であったから、そのようになったのだとしか申し上げられません。」
「ではイシャよ、お前はあの商人の命と我が妻の健康と、どちらが重いというのだ。」
「そう言う話では―――。」
その時、甲高い笑い声が耳を突いた。驚いて振り向くと、口の周りを光らせ、指先を油で汚した妃がこちらに歩いてきていた。目は血走り、本当に悪霊に憑りつかれているかのようだった。
「わたくしを殺すの? 大工。殿下、わたくしをお裁きになるの?」
「妻よ、
「まあっ! わたくしの身体の事を、わたくしを餓えさせようとした者に尋ねますの?」
「………。」
「ご安心ください、殿下。雨の最も激しい頃には、全て明るみに出来ますわ。すべて、ね…。ほっほっほっ…。」
不敵な笑みを
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