第三十節 会食の二人

 次の日の朝、昨日と同じように召使の服を着て食堂に行くと、妃が先に、昨日イシャが座った席に着いていた。王弟の姿は無い。

「夫はまだお休みよ。大工、わたくし、貴方とお話がしたかったの。お座りなさい。」

 そう言って妃が示したのは、何も敷いていないテーブルの隅だった。成程、流石は女。今ここで上下関係をはっきりさせておき、王弟の寵愛を受けることが無いように牽制しておきたいのだろう。

「貴方―――ユダヤ人ですわね?」

「はい。」

「それなのに、貴方はユダヤの王にもユダヤの神にも仕えていないんですの?」

「私がお仕えするのは、真の王、王の中の王、始まりにして終わりの方、メシア唯一人にございます。」

「ふうん? 貴方、パルティアの国賓の癖に、わたくしの父に忠誠を誓わないという事かしら?」

「父上?」

「言ったでしょう? 王弟殿下はわたくしの叔父なの。わたくしの実の父は、国王陛下。わたくしはこの国で一番高貴な貴婦人なのよ。」

「………。」

 だからなんだというのだ。地上の名誉など年と共に衰え、廃れ、やがては無に還るというのに。

 それなのにこの胸のざわめきは何だろうか。妃の挑発的な言葉には、悪意さえ感じる。

「その高貴な貴婦人の夫に色目を使うとは…。国家反逆罪に匹敵する大罪と思わなくて?」

「………。何を申されているのか、理解に苦しみます。」

 ぎらりとイシャの眼が光った。沸々と沸上がる憎しみにも似た怒りを、妃の余裕ぶった態度に突き刺す。だが妃は怯まなかった。

「分からないのですの? 貴方、気持ち悪くってよ。わたくしの夫に、仮にも第一位の貴婦人の夫に、あんな焦がれるような眼をして、生産性のない感情を抱いて、一体何になるというの?」

「…妃殿下は何か思い違いをしておられるようです。私は一介の大工、それ以外の何者でもありません。」

「そう、貴方は一介の大工。わたくしの夫の下部ですらない、国王陛下が呼び寄せた大工。本来国王陛下が遠征になんて行っていなければ、貴方はわたくしの夫と話すことも出来ない身分なのでしてよ?」

「仰るとおりにございますが。」

「昨夜、夫と愛し合った後に聞きましたわ。」

 ビクッと膝に埋めた指先が震えた。

「貴方、自分から夫のお世話をしたいって言ったんですってね?」

「それをご存じとあらば、何故そのようにお申し出したのかもご存じなのでは。」

「ええ、お慈悲をかけてもらったって言ったそうですわね。でも夫から聞いたのだけど、あの方は貴方には何もしてない、寧ろ貴方の方が付いてきたって言っていましたわ。…一国の主を騙したことが明るみに出たら、貴方はどうなるかしら。」

「後ろめたいことは何もございません。なんでしたら、今ここに王弟殿下をお呼びして、私がこの国に来てから国王陛下にお願いをするところまで、証言して頂いても構いません。最も、私のような一介の大工に、そのような権限があるとは思えませんので、もしそうするのであれば、妃殿下から王弟殿下をお呼びしてください。」

「まあ、一介の大工風情がこのわたくしに意見するというの?」

「一介の大工だからこそ、王弟殿下に直接証言を求めるなどと言う無礼は出来ません。」

「…何? 貴方はわたくしを敬わないと、そう言いたいの?」

斯様かような事は申し上げておりません。」

「わたくしの夫に証言を求めることが出来ないのに、わたくしには意見が出来るの?」

「ご気分を害したのであればお詫び申し上げます。」

 その時、カンッとイシャの顔に杯が吹っ飛び、頭からぐっしょりと酒を被った。顔を拭う布がなかったので、自分の服の裾で拭うと、妃は更に皿ごと果物を投げつけて、イシャを床に這いつくばらせた。

「わたくしの父上の客でなければ、召使に命じてうまやに首を放り込んでいるところでしてよ。わたくしの慈悲に感涙なさいな。」

「………………。」

「何? 不遜な眼で見ないでくれるかしら。わたくしのカシミヤの服に染みが付きますわ。」

「………………。」

 イシャは目を背け、顔にぶつけられ無様に崩れた果物を拾い集めた。このまま捨ててしまうのは口惜しい。瑞々しいこの果物があれば、城下に居る子供の一人の喉を潤すことが出来るだろう。しかし妃は、掻き集めていたイシャの指をサンダルで思い切り踏みにじり、尚も畳み掛けた。

「自分の召使に残飯を漁らせるなんて、貴方の主人も暗愚ですこと。」

「!」

 言外にメシアを侮辱され、イシャは思わず妃の足の指を捻った。

「我が主は暗愚なのではありません。自らを省みない愚かな家臣たちが苦しむのを憐れんでいるだけにございます。」

「いた…っ! こ、この、不埒者が!」

「メシアの名によって死ぬ者は幸いです。しかしメシアを知りながら受け入れず、愛にすら生きない者の死は絶望的です。」

「近衛兵!」

 妃が近衛兵に命じ、イシャに剣を向けさせようとした。が、近衛兵は何かに気づき、慌てて剣を納めた。何だろうと思っていると、こんこん、と壁を叩く音がした。

「で、殿下…。」

「妻よ、何をしている。夫より早く起きるのは殊勝だが、目覚めるまで傍にいないとは感心せぬぞ。」

 たった今起きたばかりといったような王弟が、半分眠ったような瞳で、しかし不機嫌に壁に凭れ掛かっていた。国王がいない今、王弟がこの国の頂点だ。例え国王の娘である妃だとしても、その気になれば首を刎ねることが出来る。妃は怯えて視線を動かした。

「あの…わたくし…。」

「イシャ、お前はまた召使の服なぞ着て、一体何をしている。」

「………。」

 イシュが小さく囁いた。

「イシャ、本当の事を言った方がいい。」

「駄目よ。妃殿下はまだ無用な嫉妬で眼が曇っておられるのよ。」

「何があったのだ。」

 イシャは微笑んで答えた。

「ご機嫌麗しゅうございます、王弟殿下。私は妃殿下に朝食に誘われたのですが、余りにも妃殿下がお美しいので狼狽してしまい、果物を落としてしまったのです。」

「頭の上にか。」

「はい。」

「どうやって。」

「足元がむず痒かったので、うずくまりましたところ、食べ物の山の上から果物が落ちてしまったのです。その果物は私の故郷では見ることが出来ず、まるで真珠のように輝いて見えました。なので、こうして落ちた真珠の欠片を拾っていたところ、夢中になりすぎてしまい、妃殿下のおみ足に触れるご無礼を働いてしまいました。それで妃殿下は、お怒りなのです。」

「近衛兵よ、それは本当か。」

 王弟の見えない、しかしイシャには見える位置で、妃がぎろりと近衛兵たちを睨みつけた。近衛兵はその意を汲み取り、相違ございません、と口々に答えた。

「その果物はこの国では吐いて捨てるほどあるし、さして高価な捧げ物でもないが。」

「そのような事はありません。この世の食物全て、メシアの愛により祝福され、私達に与えられた貴重なもの。それを床に落とすばかりか、同じように朝食を食べる事すら出来ない兄弟を思わないことなど、どうしてできましょう。」

「では貴様の兄弟とは誰か。」

「それは、昨日王弟殿下が見た者達の事でございます。」

「………。」

 澱みなくイシャが答えると、王弟は暫く黙り、剣を抜いて、扉の奥を指示した。

「近衛兵、妻を部屋まで送れ。妻よ、われはこの大工と暫し話がある。われが迎えに行くまでここに戻るな。」

「で、殿下…。」

「何、怒っている訳ではない。本当に宮殿について話があるのだ。」

「殿下…。」

 妃はチラリとイシャを見ると、見せつけるように王弟に寄り添い、口づけをして、聞こえるように囁いた。

「愛しておりますわ、殿下。」

「ああ、われが妻はお前一人だ。さ、お行き。」

 王弟が応えるその瞬間を見ることが出来ず、イシャは手元にあった果物を握りつぶした。王弟は妃を送り出し、扉に鍵をかけ、自分の着ていた上着をイシャの頭に掛けた。

「そのような嘘で誤魔化せるほど、スーレーン族は愚かではないぞ。」

「王弟殿―――。」

「妻がいる手前、われをそう呼んだのは賢かったが、われと二人きりの時は約束があった筈ぞ。」

「………殿、下…。」

 魔術のようなその言葉につられて、ぼろぼろと涙が流れる。王弟は優しく頭を撫でて、泣き崩れるイシャの肩を抱いた。

「許せとは言わぬ。妻はわれが娘と言っても過言ではない年だ。未熟でわれが手綱を牽いてやらねばならぬ。その監督責任を怠りお前に屈辱を与えたことは、われの責任ぞ。」

「いいえ、殿下…。良いのでございます。妃殿下が何故ご立腹なのか、私は十分に心得てございます。」

「………。」

「殿下、ご寵愛を賜るには私は余りにも矮小な存在です。妃殿下はそれを妬んでいらっしゃるのです。妬みや嫉みは、特に女にとって、この国で言う所の悪神に近い感情です。どうぞ殿下、妃殿下を今までより一層に、愛して差し上げて下さいませ。妃殿下はそれを望んでいらっしゃるのです。」

「………。」

 王弟は何か言いかけようとしたが、首を振った。そしてイシャの手を取ると、首飾りをテーブルの上に置き、窓に近づいた。

 城の外には、仕事を貰えるという噂を聞きつけた乞食が押しかけている。その中には、何人か知っている顔もあった。

「こっちだ。」

「で、殿下!?」

 王弟はひょいっと窓の外に立つと、そこからつたを伝ってするすると降りて行ってしまった。来い、と言われたので、恐る恐る真似をして外に出る。城の日陰に降り立つと、王弟は自分が着ていた服を脱ぎ、その下の薄汚れた服を露にした。

「…昨日の真似事を、われもしてみたくなったのだ。この服はどこに行けば売れるだろうか。」

「…お連れ致します、殿下。宜しければ、お手を。」

「うむ。」

 静かに重ねられた手は、まだ泥にも塗れておらず、美しい堅木の様だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る