第二十九節 寝室の二人

 部屋に入るなり、王弟は鍵をかけ、イシャを茣蓙ござに座らせた。徐に腰の剣を抜き、その首に突きつける。イシャは黙って、王弟を見つめた。王弟が自分を殺さないと分かっているのだ。

「………ふ。」

 小さく笑い、王弟は刃を収めた。そして、くっくと笑い出し、最後には盛大に笑った。

「実に面白い。われは産まれてより此の方あのような者達を顧みたことはなかった。貴様、あのような者達にいつもあのような事をしているのか。」

「シリアでは、あのように仕事のないものに技術を与え、理不尽に家を壊された者の家を修理していました。」

「貴様はどのようにして食べていくのだ。われら王族は捧げ物を食らうだけで良いが、腕一番とはいえ貴様に貢ぐ貧民などいまい。」

「その通りでございます。ですので、同じ考えを持つ者同士で固まり、互いに助け合っていました。お金も食べ物も、皆で持ち寄って使いました。」

「この国にいる流浪の沙門さもんたちは、皆布施で食いつないでいるが、それはしないのか。」

「そのような方々を否定するわけではございませんが、私共はその様に己の信仰のために他人様にご迷惑をおかけすることは控えています。」

 成程、と王弟は腕を組み、豪華な柱を背に凭れ掛かった。

「貴様の神は面白いな。まるで善でも悪でもないかのようだ。」

「メシアの前では、愛も憎しみも、悪魔でさえも矮小な存在です。…メシアが唯一つ出来ない事があるとすれば。」

「ほう。」

「それは、この世への愛を忘れる事です。」

 王弟はふいと顔を背けた。

 やはり、この一連の会話で、王弟は何かの答えを探している。イシャも何となく、それが自分の持っているものの何かなのだと気が付きはじめていた。

 シリアではなくパルティアに来た本当の理由。メシアの本当の計らい。それは恐らく、この男。

 未だ不明瞭な悩みに怯え、名も知らぬ牧者を求め彷徨い、鳴いているこの一人の牡羊なのだ。

「殿下、―――。」

 イシャが何か言いかけた時、不意に扉が叩かれた。誰だ、と王弟が問うと、静かな百合の香りのする声が聞こえてきた。

「ああ、まだ紹介していなかったな。」

 王弟は鍵を開け、座っているイシャに一人の少女を見せた。少女は煌びやかな装飾に身を包み、ぱっちりとした瞳と薄い唇に若干の大人っぽさを含め、王弟の物と同じ布地のドレスを着こなしていた。王弟の妹だろうか? 否、娘…?

「騒々しい場所は苦手でな、昨日の宴には居なかった。われの姪で妻だ。」

「近親婚なのですか?」

「この国では、縁者と婚姻を結ぶのが美徳なのだ。庶民もそうしている。」

「………。」

 イシャは胸が突き刺さる思いがした。イスラエルではそれは律法でも禁じている事だった。イシャの中のユダヤ人の血が騒ぐ。否、他にも何か禁じるべきものがざわつく。だがその仕来りの中に生まれた二人を糾弾することなど出来ない。

「殿下、この者はこのわたくしが謁見を許しているというのに、何故礼の一つもしないのですか?」

「そう言うでない。この者は国王陛下直々のご命令で、遥か西の果てから赴いてくれた国賓ぞ。」

「…ご無礼を致しました。妃殿下の余りのお美しさに少々我を忘れていました。」

「ふん、心にもない世辞を。お下がりなさい、ここはわたくしと殿下の寝室ですのよ。」

 言外に何を言っているのか理解し、イシャは微笑みを崩さないまま席を立ち、静かにこの国の礼をして部屋を去った。


 部屋に戻るなり、イシャはたんつぼに吐き戻した。

 あの妃の存在が気持ち悪くて仕方がない。これから情交セックスをするから出て行けと言ったあの女の神経が信じられない。

「イシャ、大丈夫か?」

「気持ち悪い…。わたし以外の女なんていなくなってしまえばいいのに。」

「産めよ増えよ地に満ちよとは、神の仰せだぞ。」

 するとイシャは、きっと睨みつけて胸ぐらを掴んだ。

「どうせわたしは神に見捨てられた石女よ! それがそんなに悪いというの!? メシアの従兄の洗礼者だって、石女から生まれたわ!」

「そうは言ってない。ただ、不毛な恋はもう諦めて、メシアの道を進むべきなんだよ、イシャ。…恋は、坊やの事で全て終わらせるべきだ。」

「アンタに何が分かるっていうのよ!!」

 イシャの涙と共に、イシュの頭が壁に叩きつけられる。それはいつかの仕打ちと同じようなものだった。

「坊やはあの夜の事を、責めもしなかったわ! メシアですらあのことに触れなかった! 全てなかったことにしようとしてるのよ! わたしが、わたしがあんなに、どんなに苦しい思いで坊やに接していたのか分からない筈がないのに! どんな思いで坊やを襲ったのか分からない筈がないのに!!」

「痛い痛い痛い! 人が来るぞ、止めろ!」

「確かにわたしは姦通の罪を犯したわ。だけど間男との間に子供を作ったあの娼婦は子供諸共祝福されて、どうして子供の産めないわたしが何も言われないの!? 石女には罪の赦しさえもいらないの!? 孕まない女は贖罪の対象にすらならないの!? わたしだって出来る事なら子供が欲しいのに! 坊やとの子供が欲しかったのに!」

「落ち着け! 今更西へ戻ってどうする? 坊やはもうイスラエルには居ないんだぞ!」

「そんなの分からないじゃないのよ!」

「だったら使者を送るんだ! それからでも遅くないだろ!? 西の果てにいる仲間を呼びたいと言えば使者の一人や二人………。」

「………。」

「な? 明日一番に殿下に頼んで、イスラエルの教会に坊やがいるかどうか確認してもらおう。な?」

「………分かったわよ。」

「それじゃ、もうお休み、イシャ。」

「うん、お休み。」

 ふっと部屋の灯を吹き消し、寝台に横になった。

 真っ暗な中うとうととしていると、突然、大きな声が聞こえた。すわ強盗かと思い飛び起きる。何かぼそぼそと、外で話す声が聞こえる。何だろうと思い、油に火を灯して、廊下に出てみる。すぐ側が、王弟の部屋だが、廊下には見張りの者もいない。

「―――…。」

「?」

 王弟の部屋からだ。何かの声が聞こえる。何だろうと確かめようとすると、イシュが待ったをかけた。

「夜、夫婦の部屋に行くもんじゃない。」

「………。………それもそうね。」

「イシャ、大丈夫だ。戻って眠ろう。」

 踵を返そうとすると、一際甲高い声が響いてきた。まるでイシャに聞かせるように。

 甘く蕩けきった三文芝居のような情欲の言葉。イシャには縁のない優しい悲鳴。何か叫んでいたような気もするが、聞き取れなかった。辛うじて聞き取れたその言葉たちが、酷く胸を重くし、イシャはその場にうずくまった。

「イシャ! 戻るんだ! 早く寝よう、明日も仕事をあげなくちゃならないんだから!」

「分かってる…。あの女が…、妃殿下と殿下が夜にする事なんて、初めから分かってるの…。」

「今夜はぼくがずっと傍にいるから、そらすぐそこに、自分の部屋があるだろう? だからもう戻ろう、ね?」

 妃の安っぽい愛の言葉の隙間に、王弟の小さな声が混じる。その声の言葉が分からないことが、イシャにとっては救いだったのかもしれない。或いは致命打だったのかもしれない。

 当たり前の事ではないか。王弟とはいえ、王族に生まれた男が、子孫を残すという義務を放棄するはずがない。まして彼はこの国の二位なのだから、好きな女は選り好み出来る。遊ぶなら石女を、子を産ませるなら美しい妻を選ぶことが出来るのだ。

 それなのにどうしてこうも胸が苦しいのだ。あの絶望の暗闇の中、泣き叫ぶ坊やの心を捻りつぶしてまで断ち切った筈の未練が、どうしてこうも心の中にこぼれかえる。

 どうしてこんなにも悲しい?

 どうしてこんなにも悔しい?

 どうしてこんなにも切ない?

 きっと答えはメシアすら教えてくれないものなのだろう。イシュの所有物としてイシャが生まれ落ちたことは、古今東西誰も否定してはくれない。イシャの存在を認めたとしても、イシャの意思は認めてくれない。

 メシアは事実、イシャを罪に定めなかったが、かといって祝福もしなかった。ただ、この存在によって神の栄光が表されるとだけ言って。

「栄光を表すって何なの…? わたしにメシアは何を求めているの…?」

「いいから! もう寝よう、イシャ!」

「目の前に現れた魅力的な人を愛することが、どうしてわたしにだけ赦されないの!?」

「戻るんだ、イシャ!!」

 イシュに強く呼び掛けられ、イシャは漸く腰をあげた。止め処なくこぼれる涙が、イシャの心を全て表していた。覚束ない足取りで部屋の中に戻り、灯火を消して、尚も響く妃の叫び声に耳を塞いで、寝台の上に丸くなる。

「イシュ。」

「なんだ?」

「どうしよう。」

「………。」

「わたし…。」

「………。」

「でもそうしたら坊やはどうなるの? あの日わたしが命の限りを尽くして辱めた坊やの事を蔑にしているわけじゃないの。ただ殿下がわたしの近くに居て、坊やが遠くに居る、それだけなの。」

「イシャ、もうお休み。」

「わたし、わたし、もしかしたら―――。」

「寝るんだ! お前は明日も仕事をしなくちゃいけないんだぞ!」

「………。」

「王族なんてのは古今東西どこでも腐ってるものさ。イシャが正しいことが分かれば、近親婚が美徳じゃないって分かれば、王弟も妃殿下との婚姻を清算して別の女性と―――。」

「ごめんなさい、イシュ。もう、何も聞きたくない…。」

「………。」

「お休み、イシュ。」

「うん、お休み。」

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