第三十一節 奉仕の二人

 市場に行くと、やはり高価なカシミヤの服は盗品と間違われたが、王弟が衣の下から顔を覗かせると、仰天した。慌てて頭を伏せようとするので、王弟はその前髪を掴んで顔を近づけた。

「面白い遊びを教えてもらっているのだ。ここはわれに免じて、黙って金に換えてくれぬか。われは忍んでいるので、あまり大事にしたくないのだ。」

「め、滅相も―――。」

「………。」

「へ、へい! ま、ま、毎度あり!」

 カチンコチンになりながら、震える手で大量の硬貨を手渡すと、商人はその服を一番厳重な箱に納めに行った。周りの商人たちが不思議そうにひそひそ話をしているのが見えたが、とりあえず昨日の約束を果たさなければ。

 昨日のあばら屋の所に行こうとすると、ふと王弟が足を止めた。

われはどのように振る舞えば良いのだ。」

「どうといいますと。」

「乞食と同じなりをしても、乞食とは縁遠かったわれでは、乞食でないと分かってしまうのでは。」

「それなら、何も言わずに緊張しているふりをなさっては如何でしょう。」

われは国王陛下と違って、よく狩りに外に出る。乞食とはいえ、われの顔を知っているものもいるかもしれない。」

 そう言えば初めて会った時も、王族にしては簡素な服を着ていた。あれは狩猟の時だったのだろう。

「それでしたら、顔をお隠しになっていればよいのです。」

われの素性がばれないよう、尽力してくれ。」

「畏まりました。」

 王弟は布で顔の半分を覆い、昨日よりは少し積極的に後ろをついてきた。

 乞食たちは既に集まっていて、昨日の復習でもしているのか、色々な石を触って動かしていた。昨日の騒ぎを見ていた乞食たちもいたらしく、男も女も四十ずつは居る。

「おい、金大丈夫か?」

「一人一枚で足りると思うけど。」

「子供もいるぞ。」

「でもこの硬貨以外持ってないんだから、これ以外にあげる物ないじゃない。」

「足りなくなったらどうするんだ?」

「そん時はそん時。」

 イシュの不安をものともせず、イシャは明るく乞食たちに話しかけた。乞食たちはイシャに気が付くと、威勢よく返事をした。

「先生、その人は?」

 早くも乞食の一人が王弟に気が付いた。イシャは答えた。

「さっき道ですれ違った、通りすがりの方。仕事をしたいというから、連れて来たんです。」

「親方、親方! 定規貸して! 早く早く!」

 子供にせっつかれ、イシャは定規を渡した。王弟は珍しそうにその光景を見ている。乞食の一人が、気を使って王弟に話しかけた。

「旦那、何だってそんなに苦しそうに布を巻いてるんで?」

「………。」

「旦那?」

 声で王弟とばれないようにしたいのだろう、と気が付き、イシャが代わりに答えた。

「その方は顔の下半分に酷い火傷を負ってて、言葉は分かるけど声は出せないんです。でも仕事は出来るから、大丈夫。」

「災難だったなあ、旦那。でもこの親方に会ったのは幸運だったな! うひっひ、じゃあ、一仕事始めますぜい、親方!」

 定規を渡した子供が、早速何か質問をしたいらしく、手を振って来た。王弟をチラリと見ると、王弟は王弟で、話しかけてきた乞食を筆頭に、何やら楽しそうに石を運んでいる。初日は順調に行きそうだ。安心して、イシャは子供の方へ行った。


 日暮れ時になり、昨日と同じように給金を支払おうとすると、硬貨が足りなくなった。あと十数枚足りない。宮殿に取りに戻ろうかと思ったが、その間に喧騒が起きてもややこしい話になる。仕方なく、イシャは王弟を使いに出した。王弟は事情を直ぐに呑み込み、日が半分ほど地平線に隠れたころには、昨日と同じだけの硬貨を持って戻ってきた。それを乞食たちに配り、残った金で上質な狩猟用の服を買った。朝は気づかなかったのだが、考えてみれば王弟が乞食の身なりをして離宮に戻れるはずがない。こっそり抜け出したのだから、帰りは堂々と帰らねば変な騒ぎが起きかねない。何か適当な理由を付けて、王弟がいつもより慎ましい装いをしている必要があった。貴族も買い付けに出す大きな店に寄ると、主人はすぐに王弟の正体に気付いたが、騒ぎ立てせず、その店で最上級の服を売ってくれた。何か打算があったのか、大分定価よりまけてくれたようだった。

 離宮に戻ると、近衛兵達は大慌てで報告に行った。どうやら失踪したと大騒ぎになっていたらしい。まあ、そうだろう。二人で顔を見合わせて、思わずクスリと笑った。王弟も、今日は有意義だと感じてくれたらしい。

 が、奥から妃が走ってくると、王弟に飛びつく前に、イシャに飛び掛かった。

「この無礼者! わたくしに断りもせずにわたくしの夫を連れて外に出るなんて!! 身の程知らずのユダヤ人!!」

「妻よ、われは自分から―――。」

「殿下、このような下賤の者にたぶらかされてはなりません。殿下の妻はわたくしにございます。殿下はわたくしと国王陛下の事だけを考えていらっしゃれば良いのです! その他の些事など、臣民にやらせておけばよいのです! わたくしが殿下のお子を身籠るまで、ふらふらと出歩いてはなりません!」

「またその話か…。」

 はあ、と王弟は溜息を吐き、尚もぎゃんぎゃんと喚きたてる妃を抱き上げ、イシャの目の前で額に口づけた。

「相済まぬ、われが妻は気分が優れぬ故、暫し介抱してくる。夕餉の時間になったら使いを出す。それまで離宮の中を散策していよ。もう暗い故に、外には出るな。」

「はい、王弟殿下。」

 妃と王弟は何やら囁き合いながら部屋に戻って行った。その姿が消えたのを確認し、ケッとイシュが毒づいた。

「いくら妻でも、仮にも王家に連なる女のする事とは思えないな。何だ、あの態度。曲がりなりにもぼくは国賓だぞ。」

「そんなことはどうでもいいけれど、何だか王弟殿下、幸せそうに見えないわね。」

「客人の前で、それも日の暮れた直後からお誘いがかかったら、疲れるんじゃないのか?」

「ちょっとはしたないわよね。わたしも人の事言えないけど、あれじゃ頭ン中情交セックスばっかって言ってるような物じゃない。」

「お前の口からそんな言葉を言わせるなんて、妃殿下もとんだ淫売だな。」

「アンタ、それ表情に出さないでよね。メシアの為ならともかく、売女の逆鱗に触れて死ぬなんて皆に顔向けできないわ。」

「そういうお前もな。」

 イシュとイシャは大きな溜息を吐いた。衛兵が厭味ったらしい咳払いをし、縦横無尽に動く使用人たちのすれ違う眼が引きるように突き刺さる。

「そう言えば昨日、手紙を書くことにしたんだっけ。誰に聞けばいいのかしら。」

「書記官がいると思うぞ。」

 とは言ったものの、実はイシャはまだ離宮の中で大手を振って歩けない。外国から来た、特に貴族でもない大工を国賓として扱えというのだ。王家の世話をする人間としては、尊厳に傷がつく。おまけにその外国人は、何やら自分達とは違うおかしな習慣を実践していると来たら、それはもう面白くないのだろう。

「メシアの道において迫害されることは寧ろ本望だって、山上でメシア自らが言っていたじゃない。寧ろ彼等の眼が開かれて、真の炎を信じることが出来るように祈っていればいいのよ。」

「祈っているだけでどうこう出来るものか? こいつらは街でぼくが何をしたって知らないんだぞ、これっぽっちも。」

「離宮の中でだって出来ることは沢山あるわ。アンタは難しく考えすぎなのよ。」

「じゃあ、先ず何をするんだよ。」

「離宮の中でなら、何をしてもいいんでしょ? まずは御台所ね。わたし、この国のパンが気になってるの。ボロボロしてないし、美味しいわ。あ、それからあの、穀物をでろでろに煮た奴。イスラエルにはなかったわ。」

「じゃ、先ずは女どもから教えるつもりか?」

「あとはそうね、あの粗暴な使用人頭かしら。国賓が手伝いをしてるなんて知ったら、多分ああいう手合いの人間は青ざめて急にちやほやしてくるわ。それでメシアがやったように、使用人頭に奉仕してあげればいいのよ。使用人一人一人にメシアを教えるのも大切だけど、あの使用人頭は自分の地位をカサに着て粗暴すぎるわ。地上であれ天上であれ、王に仕える者は謙虚で慎ましくなくちゃね。」

「使用人頭なら、書記官が誰かも知ってるだろうな。」

「その使用人頭、今どこに居るの?」

「大方使用人の部屋で駄法螺吹いてるんじゃないか? 今の時間、夕食を運ぶこともないだろうし。」

「じゃ、その使用人の部屋、どこにあるの?」

「………。自分で探せ。」

 イシャが周囲を見渡すと、衛兵も使用人たちも、ふいっと視線を逸らせたり、口笛を吹いたりした。まあ、こうなるだろう。そうでなくてはイシャのやる気も殺がれるという物だ。

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