第十一節 安息の二人

 過越祭を過ぎてカファルナウムに戻る最中、一行はふらふらになって大麦の畑の中を歩いていた。というのは、ラビの行く所行く所に人々が集まり、疲れても休むことが出来なかったのだ。その為、安息の地を求めて、ふらふらと流離っていたのである。

「へっへへっ…ひもじい…。」

「ねえ会計士、本当にパンを一切れ買うお金もないの?」

 禿岩が干乾びた菫のようになりながら会計士にすがった。だが会計士は沈黙したまま手を振り払う。

「お金はありませんし、あったとしても今日は安息日ですから、パンは売られていません。」

 安息日とは、六日間働き詰めた後の七日目、全ての労働を止め、神に賛美と感謝を捧げる日である。それに集中する為に、医者は命の危険のない患者を診てはならないし、女たちも家事労働をしてはならない。また、歩く歩数までも決まっている。そうしないと駄目だと、律法の専門家たちが言っているのだ。イシュ達凡およ夫は、それを聞いて習っていればよい。

「ラビ、どうしましょう。マナでも降れば良いのですが。」

「マナは要らないよ。直ぐ側に、食べ物があるじゃないか。」

 ほら、と、ラビは大麦を指差した。ぱあっとヘレニストが顔を上げる。

「へっへっへっ、確か腹の空いた旅人は、畑の麦を取っても良かったんですよね? ラビ。」

「馬鹿言うな、今日は安息日。麦を摘むなんて労働だぞ。」

 イシュがヘレニストの頭を引っ叩く。しかしラビは、それを咎めはせず、ラビは自ら進んで麦畑の中に入り、麦を摘み始めた。そしてぷっくりとよく肥えた美味しそうな麦を籾殻から押し出し、頂きますと口の中に放り込んだ。

「それは心配いらないよ。さあ、皆もお腹いっぱい食べなさい。美味しいよ。」

「いやっほう! そんじゃ、いっただっきま~す!」

「へっへっへ、禿岩の兄さんは現金な奴だな。ほらイシュも、この辺りが美味そうだ。」

 ヘレニストがぶちぶちと麦を摘んでいくのを見て、イシュは溜息をついた。

「………ぼくはいらない。」

「わたしは食べるわよ。」

「ダメ!」

「食べる! お腹すいたもん!」

「安息日の労働はダメ!」

「ラビがいいって言ってるからいいの!」

「ようし、じゃあこうしよう。…ラビ! あそこをご覧ください。」

 口をモクモクと動かしながら、ラビが顔を上げる。その視線の先には、数人の男たちがこちらを指差して何かささやき合っている。それはこの間、元取税人の家に来た律法学者たちだった。が、あの日イシャが酌をした律法学者はいないようだ。ラビは彼らを目に留めたが、また構わずモクモクと麦を摘み始めた。見かねてイシュは言った。

「ラビ、ご覧になられましたか。律法学者たちが因縁をつけようとしています。」

「みたいだね。」

「イシュー、おなかすいたー。」

「どうにかしてください。ぼくはあれが気になって食べられません。」

「え、そう? 私を信頼してくれていいのに。だって安息日は、王様も奴隷も皆等しく天への祈りに集中する平等な日なんだよ? それなのに安息日に規則がついているのはおかしいと思わない?」

「おーなーかーすーいーたー。」

「やかましいっ! …ほらラビ、近づいてきます。」

 律法学者たちは、イシュ以外の全員が麦を摘んでいるのをこれ見よがしに確認してから、じっとりと言った。

「貴方方は安息日なのに、麦の穂を摘んで労働していますね。」

 するとラビは返した。

「貴方たちは、私たちの祖先の大王が餓えた時、神殿で祭司以外食べてはいけないパンを食べたのを知ってるでしょう? それに、安息日は人の為に造られたもの。安息日の為に人が創られたわけではありません。そして私が、今日、麦を摘むことを許可したので、いいのです。この日は、祭司も、王様も、奴隷も、寡女も、皆等しく私の父を賛美することに専念する日であって、律法を守り家に閉じこもる日ではありません。」

「ほらね、イシュ。ラビに従ってればいいのよ。」

「えー…。」

 それでも渋るイシュに、ちょんちょん、と誰かが肩を突いた。振り向くと、強引に口の中に禿岩が麦を押し込んだ。不意を突かれ、ごく、とそれを呑みこんでしまう。

「ほら、これなら労働じゃないだろう? あんまり気を張って倒れちゃったらダメじゃないか。」

「………はぁ。」

「何でそんなに残念そうなんだい。」

「別に何でもないよ。それより禿岩、何触ったか分からない指を人の口に押し込まないでくれるかい、汚らしい。」

「君は潔癖すぎるんだよ。はい。」

 禿岩がくちゃくちゃ音を立てて麦を貪る傍ら、イシュの為に麦を一房寄越したが、イシュはそれをチラッと見るだけで、自分で摘みだした。

「禿岩の指フェラなんて嬉しくないわねー。えんがちょー。」

「イシャ、表情に出るからやめろ。」

「坊やたち、今頃どうしてるのかなぁ…。」

「知るかよ。自分の先生の所に帰ったんだ。それでいいじゃないか。」

 実際、イシュはほっとしていた。とにもかくにも、雷兄弟は目障りだったからだ。これであの小煩い潔癖症の駱駝らくだ共々心中してくれたら、もっと良い。あの男は嫌いだ。とにかく自己嫌悪に陥らせてくる。あのように清廉潔白な男はいけ好かない。


 午後になると一行は会堂に入った。安息日だからというのもあったが、ラビが教えを話すためでもあった。ラビはここの所、ずっと屋外で教えておられたが、この近辺の有力者が、会堂を用意してくれたのだ。ヘレニストは会堂に初めて入ったかのように燥いでいる。彼も安息日には聴衆として入ったことがあるはずの、何の変哲もない会堂だ。

「あんまり騒ぐなよ、ヘレニスト。お前の訛りは目立つんだ。」

「へっへっへへん! おれっちはギリシア語だって喋れるんだぜ? こーんな会堂なんかより、もっとずっとでっかい、どーんとした神殿だって見たことあらあ!」

「それ、ローマの神殿だろ? なんで入ったんだよ。えんがちょー、しっしっ。」

「だってよう、おっぱいちゃんがいっぱいちゃんな女神様がいたらこう、おれっちの下半身がふらふら~っと。」

 こいつから逃げた嫁の賢明さは、賢王の知恵に勝るかもしれない。イシュは面倒くさくなって頭を抱えた。ラビの話は、もう何度も聞いたことのある話だったが、かといってウトウトもしていられない。人の良いラビのことだ。律法学者たちが目をギラつかせて粗探しをしているにもかかわらず、堂々としている。あれは単純に眼に入ってないだけじゃないだろうか。こんな時に病人が近づいてきたら、きっと癒してしまうだろう。昼は少数しかいなかったが、今は不特定多数の大衆がいるのだ。そんなことをしたらラビの命にだって関わる。

「イシュ、君の後ろにいる男の人を前に出してあげなさい。」

 眉を顰めて腕組みをしていると、ラビがそう言った。後ろを見ると、老人が背を丸め、怯えた様にこちらを見ている。良く見ると、右手が分厚い布に包まれている。一目で、手が不自由な人間だと分かった。

「イシュ、どうしたんです。貴方が邪魔ですから退いてあげなさい。」

「ラビ、まさか…。」

「今日は安息日だぞ!」

 聴衆のどこかからか、叫び声が聞こえた。イシュの気持ちを代弁わきましてくれたので、とりあえず冷血漢にはみられないで済みそうだ。

「イシュ、それから聴衆の皆さん。よく聞いてください。例えば貴方の家に、一匹の可愛い羊がいたとします。その羊が落とし穴に落っこちてしまっていたら、例え安息日でも助け出しませんか? この老人は確かに可愛くないかもしれませんが、羊より遥かに価値のある存在です。」

 ラビのあの毒舌は無意識なんだろうか。時々思う。

「安息日に、善いことをするのと悪いことをするの、どちらが良い事だと思いますか? 善いことをする方がいいと思う人、手を上げて!」

 しかし会場は静まり返っていた。皆、お互い顔を見合わせて、こいつは手を上げるか、或いはアメーン《その通り》というか、と、機を窺っている。

「ア―――もが!」

「こら! 今聴衆の中には律法学者だっているんだぞ! 静かにやり過ごせ!」

「むー!」

 聴衆は困り果てるようにして、ラビを見た。ラビは悲しそうな溜息をついたが、ふと見た拳はわなわな震えている。表情には出さないが、腸が煮えくり返っている事だろう。そして老人に向き直り、言った。

「手を伸ばしなさい。」

 老人が右手に視線を落とすと、右手にまかれた布がもごもごと動き始めた。驚いた老人が、バラバラと布を捨てると、その下には、日に焼けていない若干白い、しかし柔らかく自由に動く五本の指が、大きく天井に向いていた。そして舞い降りてきた天使の衣を掴むかのように曲げ、伸ばし、また曲げて、最後には手を叩いた。

 聴衆たちは皆これを讃えたが、一部の人間達は、その場から悔しそうに出て行った。恐らく、律法学者たちだろう。弟子たちも、老人の喜びを祝っている。だがイシュはそんな気分にはなれなかった。そんなことより、あの勢い付いた律法学者たちが気になる。イシュは人混みをかき分け、律法学者たちを追いかけた。

 会堂のすぐ隣で、律法学者たちは大声で怒鳴り合っている。街道の柱の陰に隠れて様子を伺った。

「見ませい、あの男! あの耄碌もうろくは命に関わるでもない罪を、よりにもよって安息日に! これ程の贅沢はありませんぞ!」

「盆暗共は、安息日に何よりも大切なことは何かを忘れている。安息日に大切なのは羊の世話ではなく、羊を創造して下さった神を讃えることなのだ。」

「しかし我々パリサイ派やサドカイ派だけでは、総督は動かせますまい。ユダヤ教の中のゴタゴタと勘違いされてしまう。これは国家転覆にも繋がる大罪だと、ローマの下賤の者は気づきやしない。」

「ではこうしよう、我々と同じように奴を殺してしまいたい面子と、共同戦線を組もう。」

「例えば誰と?」

「保守党の奴らだ。奴らは親ローマ派。ローマ総督に掛け合って奴を死刑にしてしまうには、うってつけの人種ではないか。」

「成程、確かに言われてみればそうだ。奴らを使えば、十字架刑だって夢じゃない。」

「熱心党に、私の知り合いがいる。奴をあの男の所へ送り込んでみよう。」

「おお、それが良い。奴ら、ヤハウェこそ第一と言って憚らぬ非現実主義者だ。神の息子を名乗る男がいるとなれば黙ってはおくまい。」

「因みに、その熱心党の知り合いの名は?」

 イシュはその男の名前を忘れないうちに、会堂の中に引き返した。ラビは暢気に、壁一枚隔てたところで自分の暗殺計画が立てられているとは知らず、次々に病人を癒している。イシュは病人を押しのけてラビに必死に嘆願した。イシャも一緒だ。

「ラビ、ラビ! 御心がけはご立派ですが、外で律法学者たちがラビを殺そうと目論んでおります。このままここにいては、我々弟子はおろか、関係のない民衆まで巻き込むかもしれません。早く逃げましょう。」

「男の人が来るんですって! イケメンだったら改心させて仲間にしてください!」

 イシャは相変わらずだったが、余りにも切羽詰った様子でイシュが言うので、ラビはあっさりとそれを受け入れた。否、分かっていて、イシュの申し出を待っていたとも言えるかもしれない。


 後日、熱心党出身で、禿岩と同じ名前を持つ男が弟子入りした。イシュはすぐに、彼が間者だと気づき、彼を排斥する様にラビに言ったが、ラビは『これでいいんだよ』と笑って流してしまった。

 ラビの情報網は一体どれほど広いのだろう? 

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