第十二節 山上の二人

 ラビを慕う男たちは、総じて職人だった。いつも何かしら失敗をする禿岩以外は、大体昼間働きに出て、夕方ラビと共に教えを宣べ伝える。この頃になると、あの取税人がいて良かったと思うようになってきた。田舎町とはいえ取税人だったあいつが交渉すると、大抵は税金も規定以上取らないし、運が良ければまけてくれるし、もっと運が良ければ、その町にいる為の宿から食事まで用意してくれることもある。イシュとしては、また目障りな人間がいるものだと歯軋りをするしかない。イシュは会計士の様に教養がないし、禿岩のような無鉄砲さもないし、医者のようにラビの御身体に直接ご奉仕することもないし、丈夫のように大きな荷物を持つ訳でもない。元盲人の爺のように、奇跡を体感したこともない。

 日毎に自分が惨めになってきて仕方がないというのに、イシャはそんなことには目もくれず、爛々と瞳の中に炎を焚いて今日も今日とてきゃっきゃっとラビの周りで世話を焼いている。

「イシャ、私は少し疲れてしまったから、山で祈ってくるよ。」

 ラッキー! とイシャは指を鳴らした。

「ラビ、ラビ、そうしたら、一緒に連れて行ってください。」

「うーん…。じゃあ、こうしよう。今日は私を一人にして祈らせて。その代り、明日君に一番にいい知らせを教えてあげる。」

「本当に?」

「本当だとも。」

 そう言って、わくわくと近づいてきたイシャの頭を、ラビは少し背を伸ばして優しく撫でた。幼子ではないと反論しても良かったが、誰も見ていないし、ラビに構ってもらえるのは嬉しかったので、イシャは変わらずニコニコしている。

「だから今日は誰が何と言おうと、日没より早くお眠り。それで日の出より少し早くに、私が君を起こしに行くから、そうしたら、君は言うとおりにして。」

「…? なんでそんなに面倒くさいことをするんですか? 今ここで仰って下されば、今すぐにでも、イシャはラビの為に死ねます。」

 するとラビは笑いながら手を振った。

「違う違う、そういう重い話じゃないよ。でも大事な話だからよく考えて決めたいの。お分かり?」

「うーん…。わかりました! じゃあ、お休みなさーい!」

「お休み。」

 今借りている取税人の家では、弟子たちは皆出払っており、家にはラビの護衛と雑務を仰せつかっていた、弟子の一人、馬面がいた。馬面はベトサイダ出身で、初期のころから一緒にいたが、イシュは取り立てて彼に何の劣等感も持っていなかったため、気にも留めていなかったのだ。言わば彼は、イシュにとって、他の雑多な弟子たちの背景の一つに過ぎなかった。

 強いて言うならば、馬面は戦車を牽く馬の様にいつも鼻の穴を膨らまして、何かくだらない事について怒っているので、益々馬みたいだ、とは思っていた。

 ちなみに、彼が怒っている事柄というのは、昨日ラビのお通じが無かったのはあの女の料理に肉が少なかった所為だとか、夕べ僕が禿岩に蹴飛ばされたのは丈夫の身体がでか過ぎて寝返りが打てなかったからだとか…。実に下らない、というか逆恨みというか…。ある意味、気持ち悪い男である。あれは多分、病気だ。一回考え出したら止まらない病気なのだ。

「…こら、イシュ、お前、仕事に行ってる時間じゃないか。フンッ。」

「悪いけど、ラビからお役目を貰っちまってね。」

 ふふん、と得意気みたが、馬面はいつも通り、フンッと鼻を膨らませて、長い鼻の輪郭をこちらに見せた。更に、今日は自分が留守番係でいじけている為、口の端は顎までずり落ち、歯茎が見えている。

 …これで笑わない人間がいたらお目にかかりたい!

「な、何を笑っているんだい! 失敬な! フンフンッ!」

「い、いや、馬面には関係ないことだよ…。じゃ、ぼくはお役目の為にもう寝るようにラビに言われてるから。」

 じゃあね、と、イシュは馬面がブルルンブルルンと鳴いているのを尻目に、寝室に入った。

「見た? ねえ見た? あの馬面の拗ねた顔! やっぱり名は体を表すのね!」

「今回ばかりはお前に賛成だよ。さあさ、寝よう寝よう。日の出前に起きるなんて今までやったことないからな。」


 その日の夜、イシャは不思議な夢を見た。一人の美しい天使が来たのだ。白い百合を携え、その百合よりも白い衣をまとった美しいその天使は、眠るイシャの身体を揺り動かして自分を起こしている。

「起きなさい、起きなさい。時は満ちた。人の子がお前を呼んでいる。」

 人の子って誰だろう? 初めは分からなかったが、その美しい白百合の君に応えようとして身体を起こすと、光はすぅっと解けていき、それは細い光の筋となった。外では、鳥たちが貪欲に餌を突いて鳴いている。

「……ふ?」

 窓を開けると、地平線から、細い朝日の線が差しこんできていて、仕事から帰ったばかりの弟子たちを照らし出した。途端に寝坊した事に気づき、イシュはその場に寝ていた全員を蹴り起こして、大急ぎで山に向かった。外では、女たちが瓶を担いで井戸に水を汲みに行ったり、涼しい間に外の仕事をしたりしている男たちもいる。そんな中、大人数が一目散に山に向かっていったものだから、彼等の視線は釘付けになった。

「げ! なんだあいつら!」

「あら良いじゃない。ラビのお話が聞きたいだけよ。」

 寝坊したおかげで、大所帯の男たちが山へ向かっていくのが目立ってしまい、村人たちが我も我もと後をくっついてきたのだ。

「おい禿岩、追っ払えよ。ラビは大事な話をされるんだ。彼らがいたらうるさくって叶いやしない。」

「なんだい、イシュ。随分と冷たいな。そんなに大事な話なら尚の事、皆にも聞いてもらってラビの良さを知ってもらおうじゃないか。」

 丈夫に至っては、山道で足を取られている女の手を引いてやっている。

「ラビはぼく達をお呼びなのであって、およ夫共はお呼びじゃないよ!」

「アンタ、その選民意識、パリサイ人そっくり。」

「お前は黙ってろじゃじゃ馬!」

 しかしその時、ふんわりとした花の香りがイシュの鼻をついた。百合だ。山上から吹き下ろしてくる風に乗って、白百合の香が運ばれてきている。もしかしたら、夢のあの美しい天使がいるのかもしれない。イシュは前を振り向いた。そこには天使などはいなかったが、確かに香は道筋となって、イシュを導いている。

「おい、イシュ、そっちは横道だぞ。」

「いいんだよ禿岩。こっちでいいんだ。こっちから行くのが正しいんだ。」

「うーん…。まあ、ラビに伝言を渡された君が言うのだからそうなのかなあ? 弟よ、少し険しい道だから、女や子供達には手を貸してやり―――うひゃーっ!」

「兄さーん! …ああもう、世話の焼ける! イシュ、先に行っててください、兄さんを回収したらすぐに追いつきます!」

 あの弟も、大変なことだ…。つくづく同情する。まあ、ライバルが二人減ったことは喜ぶべきだろう。ラビの教えを知る者は一人でも少ない方がいい。

「アンタ最低。自分より少ない人に分けてあげようとか、知らない人に教えてあげようとか思わないの?」

「ぼくは、ぼくの好きな人と一緒にいたいだけだ。ぼくは同じ感覚を持ってる人とつるみたいんだよ。」

 大衆の中で一人だけ『異質』であること、それはイシュにとっては耐え難い屈辱であり、悲しみであったからだ。その為には、他の追随を押しのけてでも、神の用意した指定席の、最後の一席を陣取る心算だった。

 しかしそれは、他の誰もが思っている事であって、イシュはそれを素直に表現しているだけに過ぎないのだ。逆に言えば、イシャの様に、『ラビが好きな人も嫌いな人も、皆仲よくしようね』なんて飯事を素直に表現しているのは、稀、というより…莫迦だろう。

 山の頂に人影が見えた。その人はイシュが、その人がラビだと分かる前に、手を振り、大きな声で、弟子の何人かを名指しで呼んだ。その中には、禿岩、丈夫、馬面、元取税人、会計士、熱心党などがいたが、医者、ヘレニスト等、呼ばれない弟子もいた。岩肌を転げ落ちた禿岩と丈夫が、その呼び出しに慌てて前へ出て跪く。

「…それから、イシュとイシャ。君たち十人は、今、私が使いに出している二人の弟子と合わせて、十二弟子として特別な権限を与えます。今後、より一層、私の傍についていてください。」

「はい、ラビ。」

 異口同音に応えられた言葉に、唯一不服だったのは、イシュだった。今、使いに出している二人の弟子とは、あの雷兄弟の事だ。未だにラビがあの二人を気にかけていたのも癪に障るが、何で丈夫や会計士はともかくとして禿岩や雷兄弟と同列でなければならないんだと苛々する。同時に、医者やヘレニスト等、役立ちそうな面々ではなく、自分が選ばれたことに胸がすく思いだった。イシャは無条件で喜んでいる。

「それにしても、随分と沢山つれて来たねえ。男だけでも五千人はいるんじゃない?」

「申し訳ありません、ラビ。夜明け前に不思議な夢を見て、寝過ごしてしまったのです。」

「うん、そうだろうね。私の使いは中々粋な計らいをしてくれるでしょ?」

 あの美しい白百合の君の事だろうか。

「はい、白百合の良い香りが道導となってくれました。ここからなら、ラビの声も、この大群衆に風が届けてくれるでしょう。」

「そうだね。エルサレムにいる兄弟にも聞こえるように、ちょっと頑張っちゃおうかな。」

 ラビはよいしょとその場に座り込み、一度深呼吸してから、口を開いた。

「これから、皆が幸せになれる方法を教えます。皆、覚えて帰れるように、私の後に続いて復唱してください。」

「はーい!」

 当たり前だが禿岩が一等浮いている。なるべくこいつの傍にいないようにしよう、と、イシュは風下に移動した。風上に医者がいるのが見えた。他にも、ヘレニストや馬面などの面々が、各々好きな体勢でラビの言葉を待っている。

「ひとつ! 自分の貧しさを知り、謙虚になる事!」

「自分が貧しいってどういうことですか?」

「つまりね、自分は天にいる父さんから色んなものを借りてるだけで、自分は何も持っていないってことだよ。」

「うーん?」

「兄さん、僕が後で説明しますから黙っててください。」

 民衆のバラバラの声の中で、やはり一等目立つのは禿岩だ。風下にいるからか、風に乗って馬鹿でかい声が良く聞こえる。風下に移動したのは間違いだっただろうか。しかしあいつがいるのは風上だし、ラビの後ろに行くわけにもいかない。

「ふたつ! 人の悲しみを自分の事の様に悲しむ事!」

「アンタには無縁ね。」

「黙れイシャ。」

 ラビの話はまだ続く。

「みっつ! 優しい事!」

「これもアンタには無縁ね。」

「ぼくは、ぼくに優しい人には優しいよ。」

 風が一陣吹き付けて、イシュは髪を掻き揚げた。

「よっつ! 正しいことをする事!」

「お前には無縁だな。」

「アンタにも無縁ね。」

 イシュとイシャはお互いに睨み合った。

「いつつ! 困ってる人は助ける事!」

「乞食は嫌だな。」

「臭いし不気味だけどいい人もいるわよ。」

 とは言ったものの、イシャとて、犬の小水をかけられ禊も出来ない乞食と、先ほどの白百合の君と、どちらかを選べと言われたら、迷わず後者だろう。

「むっつ! 下心を持たない事!」

「お前には無理だな。」

「アンタの打算的な性格はよく分かってるつもりよ。ちょっとは禿岩を見習ったら?」

「禿岩の場合は、単純に二心持つだけの知能がないんだよ。」

 酷い言われようだが、多分彼の弟も同じことを思っているだろう。

「ななつ! 皆仲よくする事!」

「ほら、わたしがいつも言ってる事よ。たまにはわたしも良い事言うでしょ?」

「それはラビが言うから良い事であって、お前の言ってるのは単なる妄想だ。」

 イシュは一蹴した。

「やっつ! 虐められてもめげない事!」

 その言葉に、イシュとイシャはお互いに顔を見合わせた。思わず言葉を詰まらせてしまったのだ。と、ラビが最後の一つを言おうとした時、突然強い突風が吹きつけてきた。

「ここのつ! 自分の失敗は笑う事!」

 一陣の気紛れな風が運んだラビの最後の金言を、民衆が聞き取ることはなかったらしく、そこの復唱は無かった。ラビもそれに気が付いたのか、一通り風が止むのを待って、もう一度口を開いた。

「それから、皆が親切にするのは、自分に親切にしてくれる人じゃないよ。寧ろ自分を苛めるような、そんなキンタマの小さい人が、大らかで穏やかで優しい心になれるように祈りなさい。上着を引き裂こうとしたら、パンツも持って行ってもらおう。本当に持っていかれても、取り返してはいけないよ。皆は天の父さんから、タダで何でも貰って、今も貰って、明日も貰って生きるのだから、皆も地上の人に、何でもあげて、それを、やっぱり返して! なんてことは言ってはいけない。自分を優しくしてくれる人と仲よくしたり、物を貸したり返したりは、皆が見下す、天の園に行けないような罪人でも出来るカンタンなことなんだ。そんなカンタンなことをやって、威張ってはいけない。威張らないで、この地上でどんなに惨めな思いをしても、天の父さんはちゃんと見ていて、皆が自分の近くに来たとき、一番良い服を着させて、一番良い靴を履かせて、一番美味しい霜降りマトンを焼いて、主賓にしてくれる。だから皆も、地上にいる間、自分に出来る一番良い服と良い履物と美味しい食べ物とを持って、周りの人を持成そう。皆が持成すから、父さんが持成してくれるんじゃないよ。勘違いしちゃいけない。父さんが持成してくれるから、皆も周りの人を持成すんだ。」

 あまりに長い話に、禿岩を始め何人かの人々は目が虚ろになっている。ラビはあらあら、と眉を顰め、ぴしっと禿岩にデコピンをして起こした。隣で丈夫が真っ赤になっている。ご愁傷さまだ。

「あとこれから、裏ワザを教えよう。」

 その言葉が、再びびゅんと風に乗っていくと、忽ち民衆は目を覚ました。………現金な奴らめ。

「皆は父さんに愛されているけれど、父さんだって何時でもヨシヨシしてくれるわけじゃない。時にはビシッと怒ることもある。でも怒られない方法がある。それは、皆が他の人を怒らない事。そうすれば、父さんは皆を怒らない。欲しい物があったら、おねだりをする前に誰かに与えなさい。そうすれば、はち切れんばかりに、もういらないと言うまで貰える。…皆、分かったかなー?」

「はーい!」

 元気な禿だな。

「ところで、ねえ馬面、私、沢山喋ったからお腹すいたよ。ここにいる人たちもお腹減ってるんじゃないかな。どこに行けばパンが買える?」

 すると、馬面はブルルンと鼻を鳴らして言った。

「そんなことは簡単ですよ、ラビ。皆を下山させて、各々食事を摂らせれば良いのです。もし、私達が買おうとしたら、二百デナリ《およそ百万円》あったとしても足りません。」

 イシュはそそくさと進み出て言った。ラビがお望みの答えはそれではないと分かっていたからだ。

「ラビ、そのようなことをしなくても大丈夫です。皆、本当は袖の中にパンを持っています。ただ、パンを食べようと取り出すと、分けてもらおうと群がられるのが嫌で、取り出さないだけです。」

「あー、多分そうだね。」

 すると、丈夫が一人の少年を連れてきた。もう成人はしているだろうが、まだあどけなさの残るその少年は、酷く怯えているようにも見えた。

「ラビ、この子が、大麦のパンを五つと魚を二匹持っていました。」

「あほったれ! そんなんでどうするっていうんだ。この民衆、男だけで五千人はいるんだぞ。女子供に食わせなくたって足りないじゃないか!」

「アンタねー、子供にくらい食べさせてあげたっていいじゃないのよー…。」

 はあ、とイシャは溜息をつく。しかしラビは、子供がおっかなびっくり差し出してきたその少なすぎる捧げ物を受けとると、大きな声で、頂ます、と宣言をし、二つに裂いて、半分をイシュに寄越した。

「ほら、君もお腹が空いただろう? お腹いっぱい食べなさい。」

「お腹一杯ってったって…。」

「じゃあ、もしそれだけで我慢できないなら、僕のおわきま当をあげるよ。」

 禿岩が、少し潰れた無花果いちじくを出した。恐らく先ほど山肌を転がった時に潰れたのだろう。イシャはクスクス笑って言った。

「アンタも袖の中の物、出した方がいいんじゃないの?」

「うるさいな! 分かってるよ! 禿岩、ぼくは自分で持ってきた大麦のパンが二つあるから、それは誰か別の人に上げていいよ。」

「そお? じゃあ坊やにあげようかな! 勇気ある少年に乾杯!」

 気が付くと、民衆たちは各々好きに座って、飲み食いを始めていた。先ほど眠気半分に聞いていた言葉が、成人したばかりの小さな子供の勇気ある行いによって、実を結んだのであろうか。

「おじいちゃん、無花果いちじくおいしいよ! ありがとう!」

「…え?」

 …ただ、子供というのは時に残酷である。 

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