第十節 病人の二人

 取税人の家は、他の取税人と同じように豪華な贅沢品で溢れていて、出てくる食事は皆一級品。使用人も綺麗どころが揃っていて、平民の中で考えられる限りの豪華な家だった。取税人は人々に嫌われる職業だ。だから彼等は、自分を見下し敵対している人々から金をせしめて、心の隙間を埋めようとする。この取税人の家に置かれた香油や壺や宝石は、取税人の心の隙間をそのまま表しているようだった。

 取税人はあの短い会話の中から何か大きな幸福を見つけたようで、取税人の仲間たちも皆呼び寄せた。仲間たちは、ラビを喜ばせようと踊り子や酌婦を連れてきて、それでも取税人の家にはまだまだ席があった。ここまで罪深い人たちが集まっていると、イシュももうどうでもよくなってきた。イシャはイシャで、普段滅多に食べられないご馳走や、カナの婚礼の時にはやや劣るものの、最上級の葡萄ぶどう酒に酔っていた。華やかな宴の中で、やはりあの大酒呑み達がいないと少し静かな気もする。彼等は今頃どうしているだろうか。

 と、外で人の話し声がした。騒ぎを聞きつけて、まだ来ていない仲間が来たのかもしれないと取税人は意気揚々と扉を開けた。しかしそこにいたのは、律法学者たちだった。取税人たちは一気に酔いがさめる。自分たちが彼らに何と言われているか、知っているからだ。しかしラビは、気にせず飲み食いをしている。それどころか、今日から弟子になった取税人に酒を進めていた。

「ラビ、貴方は外ではまっとうな教えをしているのに、どうしてこのような罪人と食卓を囲んでいるのですか。」

「ん? 何か問題でもありますか?」

「ここにいる者達は、不正な金で富を得た、偽りの恵みに生きる者達です。貴方も、神は偽りを何よりも嫌うと、仰っていませんでしたか。」

「んー…。」

 ラビは気にせず、自分の手に持った杯を呑み干し、言った。

「医者が必要なのは病気の人です。私は自分が正しいと思っている人の為ではなく、負い目がある人の為にいるのです。そうですね、『私は憐みを好むが、生贄は好まない』の意味を、もう一度考えるとよいでしょう。」

 そう言って、ラビはまた、何事もなかったかのように食事を続けた。取税人たちは、自分たちが本当に受け入れられていると知り、喜び勇んで拍手をして騒ぎ始めた。余りの喧騒に追い立てられるように、律法学者たちは家を出ていく。

 しかし一人だけ、残った律法学者がいた。だが中に入る勇気はないようで、羨ましそうに此方を見ている。さてどうするのかと思っていると、案の定、ラビはその律法学者を呼び寄せ、自分の隣に座らせた。

「高名な預言者様とお見受けいたします。私は、エルサレムのラバンの下で律法を学んでいる者です。」

「うん、知ってるよ。エルサレムに残してきた弟弟子に宜しく言っておいてね。彼には今後、会う予定があるからさ。」

 すると、律法学者は顔色を変えた。何か期待に満ちたような、それと同時に恐れているような、正しく天使を目の前にした罪人のような表情。

「いつ私が、そのような話をしたでしょうか。預言者様、貴方は私のどこまでを、神に知らされているのですか。」

「私の父の前に隠されていることなど一つもありません。貴方が知っていることで、私の父の知らないことは何もないし、私の父が許さずして存在する物も何一つありません。」

「では預言者様、私が今、貴方に何を求めているかも、私が今、貴方を見ているだけで分かるのでしょうか。」

「それは感心しませんね。神を試すことになります…。貴方を救うのは貴方の信仰です。」

「………。」

「…まあ、そう怪訝な顔をしないでください。貴方は鳩の使いを見るでしょう。その鳩は貴方に栄光を与えに現れ、そして死の間際まで貴方に寄り添います。その鳩は、父の選んだ義なる鳩です。」

「鳩とは、生贄の鳩でしょうか。」

「いいえ、父は先にも述べた様に、生贄は好みません。寧ろ貴方は、この先深い憐れみと慈悲をその頭上に頂くことになるでしょう。花婿が来ている今しか、宴会は出来ません。さあ貴方も、私の妻たちの注ぐ葡萄ぶどう酒を呑んでください。」

「はい、どうぞ。」

 さっとイシャが律法学者の手に杯を握らせる。律法学者は自分を見る取税人たちの眼が白くないことに、かえって動揺しているようだった。しかし、イシュもイシャも、何故彼らが律法学者を排除しないのか分からない。ラビはそれを見抜いて言った。

「ある国主が家来に金を貸したとする。その家来は一万タラントン《およそ三千億円》借金をしていたが、家財や娘を売っても返せないということが分かると、国主は哀れに思い、その借金を帳消しにしてやった。ところがその家来には、実は百デナリオン《およそ五十万円》を貸している仲間がいた。それで、家来は仲間のところに行って借金を取り立てて許さなかった。国主はこれを知って怒り、帳消ししたことを無しにして家来を牢に入れてしまった。…ここにいる人たちは、今の話の家来よりも聡いから、君を外に追い出したりしないんだよ。」

「恐れながら預言者様、私は生まれてから一度も、穢れに触ったことはありませんし、罪を犯したこともありませんし、例え犯していたとしてもきちんと生贄を奉げて償っておりますし、日頃から深く神殿を敬い、収入の十分の一を納めています。私はいつ、神に一万タラントン分もの借金をしたのでしょうか。」

「言い方を変えましょう…。」

 なんだかんだと言っても律法学者だ。その辺りの事は敏感だし厭味ったらしい。イシュはイシャが興味を持つ前にその場を離れようと立ち上がった。

 ふとその時、ふわっと首筋を何か涼しい物が撫でた。こんなに豪華な家で隙間風などあり得ない。どこかの窓が開いているのだろうか。ラビもお疲れなのに、冷えてはまずいと、風の元を探る。台所の方の様だ。

 幕を一枚隔てた所の窓が、僅かに開いて、そこから何か黒く光るものがあった。人の瞳だ!

「ぎゃー!」

「うわー!」

 思わず悲鳴を上げると、瞳の主も悲鳴を上げて、滑り落ちるような音がした。ここは二階だから、木にでも登っていたのだろう。これはまずいと大急ぎで広間の医者を引きずり、外へ出た。

 が、こきこきと首を鳴らしながら、ぬうっと亜麻の服を着た男が出て来たので、再び悲鳴を上げて医者の後ろに隠れた。

「なんでさあ、昼間もお会いしたじゃねえっすか。おれっちだよ、おれっち!」

「な、なん…何をしてたんだよ。」

 へっへっへ、とヘレニストは首を鳴らしてずけずけと言った。

「それがよう、今日食扶持がなくって…。へっへっへ、そうしたらよ、今日は取税人の家に、巷で話題の大先生様がお出でなすってるじゃねえか。借りも貸しもねえけどよ、パンの欠片でもくれねえかと思ったのよ。」

 呆れた、と、言おうとしたが、医者はそんなことよりもヘレニストがどこも打ち身になっていないかの方が気になるらしい。くるくるとヘレニストの身体を回して確かめて、納得したように溜息をついた。

「確かにパンも葡萄ぶどう酒も有り余っていますが…。」

「冗談じゃないぜ医者! 主催者に何の断りもなく…。」

「あら良いじゃない。どうせ食べつくして飲みつくして、身一つであの取税人はわたし達について来るんでしょ? 早く宴が終わって休めるからラビも喜ぶわ。」

「どうかした?」

 言っている傍から、主催者の取税人が出て来た。ヘレニストはにやっと笑うと、手もみをしながら取税人に近寄った。

「へっへっへ、今宵は良い宴でやんす。ここに来る途中で財布をられ、かかあに逃げられて、身も心もぴゅうぴゅう寒々しいおれっちにお恵みを…。」

「なんだい、そんなことかい。医者くんもイシュくんも何を戸惑ってたんで? 今日は誰でも参加できる宴なんだから、お恵みなんて言わずに参加しな。」

「ひゃっほう! やっぱり金持ちは違うね! んじゃ、遠慮なく~!」

 そう言うと、びゅんとヘレニストは家の中に飛んで行った。途端に悲鳴だか歓声だか分からない大声が上がる。あーあ、とイシュは頭を抱えたが、医者も取税人もニコニコしている。仲間が増えたとでも思っているのだろうか。

「ラビのお話を近くで聞けば、きっとあのヘレニストも仲間になるわよ。」

「…ぼくが言ってるのはそんなことじゃないよ。」

「それにあのヘレニストは小汚くて嫌だわ。タマも小さそうだし、わたしの趣味じゃないから安心して。」

「そんなことじゃないって言ってるだろ! あとお前はいい加減ソコで男の価値を測るのをやめろ!」

 イシュは地面に唾を吐いて家の中に戻った。宴は、まだまだ終わりそうにない。席に戻ると、ラビとヘレニストが仲よく話をしていた。一体どういう経緯で知り合ったのかと尋ねる取税人に、酔っ払った禿岩が音頭を取って状況を説明した。

 ふんふん、と聞いていた取税人だったが、話の途中で腰を折った。

「ん? デナリオン銀貨十枚?」

「うん、そうだよ。会計士が払ったんだ。」

「そりゃちょっと多いな。」

「多い?」

 ラビは沈黙している。取税人は続けた。

「あっしはね、今だからこそ言えますが、人から税をせしめるとき、一人当たり三アサリオン《およそ九百円》ずつ取るんでさ。ここいらの取税人は大体そうです。あんまり多いと殺されかねませんからね。すこーしずつ、ひろーく取るんでさ。その時のラビの人数で銀貨十枚も取るなんて、随分と業突張りだ。」

「なんでなんで? なんで多く取られてんの?」

「悪霊が一人いたとか! で、取税人が数え間違えた!」

「まっさかあ、あはははは!」

 ゲラゲラ笑う漁師兄弟を尻目に、会計士は一人沈黙して杯を傾けていた。 

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