第五節 神殿の二人
男は大工仕事の傍ら、学問を教えているらしい。どこの派閥に属しているのかは分からなかったが、イシャはそんなことはどうでもよかった。あの雷兄弟の親戚だということ、弟である坊やが『にーちゃん』と呼び慕うのなら、出自は卑しけれど、人となりもしっかりしているだろうと考えたのである。
そして何より、イシャは彼の考え方に心酔していた。元々好奇心が旺盛なイシャは、悲壮な彼の眼にすっかり魅了されていた。それは恋心にも似た探究心で、イシュは非常に面白くない。というのは、彼はユダヤの伝統を尊びながら、伝統を伝える者達に対して否定的だったのだ。これは、外面を重んじるイシュにとって非常に喜ばしくない事である。
とはいえ、どうして嫌々イシュがイシャと共に彼に師事し、剰え雷兄弟の弟弟子になんぞ甘んじているかというと、穢れを持った娘と仮面夫婦を続けることが嫌で、良い口実になったからだった。
さて、カナの婚礼を過ぎた後、初めての過越祭の為、一行は首都エルサレムへ上った。過越祭とは、今から二千年前に、エジプトで奴隷になっていた、我々ユダヤ人達を神が救ったことを記念する祭りで、その祭りの時は、囚人も一人無罪放免される程に大きく、盛大な祭りだった。
この頃になると、彼をラビ《先生》と慕う男たちは十人を超えようとしていて、その誰もが、ラビ自らが声をかけた人物だった。その中には、特にイシャのお気に入りの弟子が何人かいる。
何を差し引いても、先ずは雷兄弟の弟の方。元々イシャは、弟の事を『坊や』と呼んで可愛がっていたのだが、流石に親戚だからか、それともいつも喧嘩腰だからか、ラビといつも四六時中一緒にいる。面白くない。ただ最近、兄弟は何か思い悩むことがあるらしい。イシャはこれを機会に、坊やに取り入れないかと手薬煉を引いている。イシュはイシャが今に何かやらかしそうだと気が気でならない。
次いでルカニアからやって来たという、物腰の柔らかい医者の好青年。命の恩人と言うだけあってイシュもそれなりに気に入っているが、やはりイシャが反応するのは気に食わない。色事には無関心の様で、医者はいつでも、死の穢れに近い自分の職業の卑しさを自覚して、公の場では身を引いている。それだけがイシュにとって喜ばしいことだったが、彼は何故か、イシュを見るときとイシャを見るときで目付きが違う。まるでイシャを一人の確固たる人権を持った存在として扱うかのように。何故そのようなことをするのか分からなかった。女なんて、特にイシャなんて、一人で生きる術もなくて、男の下で働いて子供を産み育てるために、神に与えられた存在に過ぎないのに。
そして、後述する一番弟子の、弟。この弟は、雷兄弟とは似ても似つかぬ、爽やかで男らしい肉体と精神を漲らせた逞しい男だ。『きっとアレも逞しい人よ』などとイシャがちゃかすので、イシュは思わず殴りつけてしまった。以降、イシュとイシャの間では、この人物は、実際にそうであるかどうかに関わらず『丈夫』という大変率直すぎるあだ名がついた。始め、イシャは率直に『デカと呼ぼう』と大笑いしながら言ったのだが、イシュが説得に説得を重ね、自分の男としての色々大事な物が傷つくと青臭い理由をつけて、何とかある程度表現の柔らかい方に変えてもらったのである。
最後に、元香油売りの会計士。彼はカリヨトという南ユダヤの村の出身で、地元の漁師やら何やらといった無教養な男達と違い、教養深く、計算ができる為に、一行の財布を任されている。しかし、やはり喋る言葉に南部訛りを隠した、独特のイントネーションがある為か、あまり仲間に馴染めていないようだった。だからこそ逆に、イシュの監視の下、あまり男弟子と話すことが出来ないイシャの、良き話し相手だった。つまりイシュから見て、この男はそれ程価値のない、コンプレックスのない存在だったのである。
ともかく、イシャが目をつけているのはこの三人。同様に、イシュが警戒しているのもこの三人だった。更にイシュはイシュで、別に眼をつけている男がいる。
それは雷兄弟の同僚で、一番弟子の、通称『禿岩』。顔が角張っていて、岩石のようだからとそう呼ばれている。現在いる弟子たちの中で最も高齢で、漁師としての腕も確かな筈だが、人間をとる漁師としての腕前は半人前以下で、いつもポカをやらかしてはラビにとがめられている。だが、イシュの勘は、そんな禿岩の表面上の事はどうでもよく、もっと奥を見越していた。こいつは馬鹿でドジの頓馬だけれど、近くにいてきっと損はしない。こいつと居れば、自分は何もしなくても輝いていられるのだ。しかもお人よしの優柔不断の直情径行と来た。いざとなったらいくらでも丸め込められる。彼は弟、つまり丈夫と共に、あの荒野の
イシャと違い、イシュは損得でしか動かない。利害しか興味がない。自分の人生に損になる者は切り捨てるし、突き放す。禿岩は自分を引き立てるのに役に立つ。だから利用する価値がある。だから優しく接する。それだけだ。
「ラビ、ラビ! ラビー! どこですか、この人混みでははぐれてしまいますよう、手をつないでいてください!」
「ここにいますよ。」
「…ああもう! 一体何度目だよ、禿岩! ぼくの服の裾をしっかり掴んでいろって言っただろ!」
イシュは乱暴に人混みをかき分け、禿岩のつるりと光った頭頂部をがしりと掴むと、ずるずると引っ張っていった。
「皆さーん、はぐれたら僕を目印にしてください。僕はこの通り大柄でがっしりしてるから、兄さんと違ってすぐに見つかりますよー。」
ひらひらとラビの傍にいた丈夫が手を振る。あいつの顔を見る度に、イシャが言っていた『アレも逞しいわよ』という言葉がチラついて苛々する。彼の兄が、
「兄さん、駄目ですよ。おっちょこちょいなんだからどこかに行ったら…。」
「だってあっちに、面白そうな旅芸人がいたから…。」
「旅の、ということは異邦人じゃないですか。穢れたらどうするんです。ねえラビ、そうお思いになりません?」
しかしそんなことは気にも留めず、ラビは立ちどまり、じっとある一点を見つめていた。丈夫の言葉は耳に入っていないようである。イシュは禿岩の頭から手を離し、それはどこかとじっと見定めた。どうやら換金所の様だ。
エルサレムはユダヤ人にとって信仰の中心である聖なる都市。そこに奉げられる生贄は、異なる神を崇める民が振れた銀貨、即ち、穢れた銀貨を使うわけにはいかない。だから、神殿の境内には旅人の為の換金所や、旅人が現地調達するための生贄売り場が設けられているわけである。
「やーな感じ。折角の厳かな気分も台無しだわ。」
「おいイシャ。」
「だってそうじゃない。両替人がこっそり私腹を肥やしてるのを、わたし達庶民が知らないと思ってるのかしら?」
「世の中には道理ってもんがあるんだよ。」
本来ならば、そのような外道を祭司が許すはずはない。それが横行しているということは、それによって得をし、それを咎めないだけの権威を持つ人間がいるということであり、それはつまり―――。
「あら! 神への捧げ物に優劣をつけて売り買いすることを認めてるのはパリサイ人だけかしら!」
「イシャ!」
パンッ!
往来で祭司への侮辱を始めたイシャに手を上げようとしたとき、一拍早く、別の所で乾いた音がした。先ほどの換金所の隣にある売店の様だ。みすぼらしい上着を着た年若い女が、頬を押さえて蹲っている。それでも台座に
「お願いします! 今年でもう十二年も長血が治らなくて…。」
「黙れ! 山鳩一羽買えない、汚らわしい罪人め! 商売の邪魔だ! 神殿から出ていけ! ―――おお、そこの職人のお兄さん、見た所手ぶらだね、捧げ物の山鳩を一つがいどうだい? 安くしておくよ!」
イシャは嫌悪感を露にしたが、イシュはラビの手前どうしたものかと無表情を固めていた。ラビはパリサイ人達に対して批判的だから、こういう場面は好まないと思うのだが…。
と、次の瞬間、ラビは周囲の予想をはるかに超えた行動に出た。
「はいよ! 一デナリオン《
なんと、すぐ側で商売をしていた別の商人の籠から鳩を次々に逃がし、繋がれた羊や牛を次々と放ったのだ。蜘蛛の子が散らされる様に鳩達は外へ飛び出し、土埃を上げて羊や牛が縦横無尽に走り回る。忽ち境内は混乱し、悲鳴と罵声と怒号とが飛び交う地獄絵図と化した。女子供を踏みつけてでも、走り去る羊や牛を逃がすまいと、沢山の商人がその背中を掴んだが、引きずられて共に走り去っていってしまった。弟子たちが呆気にとられているのにも関わらず、ラビは更に最後の羊の縄を解くと、女を無視して両替人の台を蹴り上げ、椅子を踏み倒し、見ていてスカッとする位に暴れに暴れて店を壊した後、こう啖呵を切った。
「この偽善者共! 一体お前たちの内の誰がこのような振る舞いを許可した! 聖書には『神殿は祈りの家』と書いてあるじゃないか! それをお前たちは強盗共の巣にした! 旅人から不正に金を奪い、娘の心を踏みにじっている!」
「そうよ! いつまでも調子に乗ってるんじゃないわ! ラビが正しい! ゴ、ウ、トー! ゴ、ウ、トー! 出ていけ! ゴ、ウ、トー!」
「何を言い出すんだ、やめろイシャ!」
イシュは慌ててイシャの口を塞いだが、焚き付けられた民衆は、今にも暴動になりそうな勢いで拳を突き出し、銘々に不満を叫びだした。弟子たちもこれに当てられたのか、特に禿岩は自ら進んで商売台にナイフを突き立てて場所を荒らし始めている。
「禿岩、やりすぎだ、やめろ! 祭司たちに殺されるぞ!」
「そんなことない、ラビが正しいんだ。ほらイシュ、君も手伝いなよ。」
バキバキとナイフで台座を壊して行くので、イシュは見かねて禿岩の頬を引っ叩いた。
「止めろって言ってるだろ! 大体が野蛮なんだよお前は!」
「何を言ってるんだい、君だってあいつらのやり方は汚いと心では思ってるだろ?」
「そうよイシュ、構うことないわ、そこのナマイキそうな商人の背中でも、一発蹴り飛ばしてやりなさいよ、この意気地なし。」
イシャは悪魔のような笑みを浮かべて、イシュの心に直接語りかけた。イシュは震えあがり、頭を振る。一方、ラビはラビで、反感を持ったパリサイ人達とやり取りをしていた。
「では貴様は、ここでこんな風に暴れることを誰に許してもらって、それをどう証明してくれるというのだね。」
ラビはその時、初めて、イシュが全く理解できないことを言った。
「この神殿を壊してみろ。私は三日でそれを建てなおす。」
「はぁ?」
周りの喧騒の中で、その言葉はまるでイシャの声のように、イシュの耳にはっきりと届いた。まるでそれは、世界中に向けて発した言葉のように。けれどもそれは余りにも抽象的で、イシュにはピンと来なかった。案の定、弟子たちも互いに顔を見合わせては、あれやこれやと議論している。祭司たちは勿論、その場に居合わせた参拝者も商人も、長血の娘でさえ、これには声をあげて笑った。
「三日ぁ? この神殿は大勢が一丸となって、建てるのに四十六年もかかったのに、それをアンタはたった一人でやるってのかい? 行こう行こう、こんなバカと付き合ってたら、せっかくの金づるが逃げちまう。」
「ほら聞いた? イシュ! 今のがあいつらの本音よ、ホ、ン、ネ!」
「調子づくな!」
イシュはイシャを黙らせると、喧騒の中から一人浮いている弟子の所に行った。それは元香油売りの会計士で、落ちた金を拾い上げていた。
「何してるんだい、そんな乞食みたいな真似をして。」
「何です? 貴方たちの大食いに辟易している会計士が、お金に感けていることの、何がおかしいのですか?」
「べっつにぃ。いっつも節約節約って煩いお前らしいよ。」
金に汚くて。
内心そうつぶやいたが、会計士は無言で金を拾い集めていた。他の弟子たちは気づいていないらしい。しかし確かに、こんな喧騒だ、今なら多少の金をくすねても何も分からないだろう。まさかと思ってイシュがイシャを見やると、イシャは今にも金を拾い上げようとしていたので、慌ててその頬を引っ張り上げる。
「何をしてるんだお前は! 穢れた硬貨を欲しがるなんて、お前はあの気取った会計士以下か!」
「何よ、ちょっと外国人が触ったかもしれない唯のお金でしょ? 後で手を洗えば良いわ。そんなことよりほら、あそこにも一レプトン《
「そういう問題じゃない! ぼくにこれ以上恥をかかすな! 大人しくお前はぼくの後ろに引っ込んでいろ!」
「…わかったわよぉ。…もったいなぁい。」
イシャは結局硬貨には触れず、大人しく後ろに下がった。
ただ、イシュはそのことを帰っても根に持ち厳しくとがめ、イシャを叩き、自身も来客が来るまで、手を洗い続けていなければ落ち着くことが出来なかった。
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