第六節 暗闇の二人

 漸くイシュが満足して、さあ寝ようと清めの瓶から離れた時、夜更けだというのに非常識にも扉を叩く者がいた。一応この家に宿を借りているのだから、追い返すなり何なりしなければ、と思っていたのだが、運悪く今の音でラビが起きてきてしまった。言われるがままに扉を開けると、どこかで見たような顔の男が、如何にもこそこそと言った様子で、黒い衣をまとって立っていた。

「どこで見たのかしら? なんか冴えなくてパッとしない男ね。堅っ苦しそうでお高く留まってて。好みじゃないわ。子種も少なくてさらさらしてそう。こんな冴えない男に孕まされるなんて嫌だわ。」

 それを聞いて、ハッとイシュは思い出した。そして思い切りイシャの頭を叩く。

「大バカ! このお方はユダヤ教の指導者だよ! 罪なき血の正統な後継者じゃないか!」

「いったーい! 何よ、アンタだって忘れてたくせにぃ!」

 ぶうぶう文句を言うイシャを無視して、イシュは指導者とラビの会話に耳を傾けた。指導者の眼は真剣そのもので、いつもの様に上から粗探しをする彼の仲間とは違うような気がする。が、イシャと違ってイシュは基本的に人を信じないので、いつでも追い返すことが出来る様に、武器の位置を目の端で確認した。

「ラビ、私は貴方を見て、冷静に、極めて客観的に判断しまして、貴方はやはり、神から来られた教師なのだと思っています。そうでなければ、昼間の様な事は出来ませんし、此処に来るまでに貴方の示された業の多くの説明が付きません。では偉大な先生、是非お聞かせ下さい。人はどうすれば、永遠の命を得ることが出来るでしょうか。私はユダヤの律法は全て知っていて、全て理解していますが、これだけが理解できないのです。」

 頭から否定してこないということは、こいつはかなりの策略家なのだろうか、とイシュは勘ぐる。ラビは、指導者の聞きたいことを察して答えた。ラビは読心術が使えるらしく、こういう風に一歩先の言葉を話すことが多い。

「言い方を変えましょう。人が永遠の命を得るためには、新しく生まれ変わる必要があります。」

 すると指導者とイシュはぎょっと目を丸くした。恐らくその場にいた男二人は同じことを考えただろう。

「ラビ! あ、貴方という人は、まさかこの年になって、私に母の胎へ入るなどという母子相姦をせよと仰せなのですか! 破廉恥な!」

「違います。」

「なんだ。」

「何で残念そうなんだよ。」

 さしものラビも、そこまで非常識ではないらしい。しかし言っていることは相変わらず奇々怪々だ。だからこそイシャも興味津々でその続きに耳を澄ましている。

「言い方を変えましょう。肉から生まれたものは肉です。霊から生まれたものは霊です。誰でも、水と霊によって生まれ変わらなければ神の国には入れないのです。」

「あら、神は水遊びが好きなの? それとも沐浴を覗くのが好きなのかしら。それならわたし、気が合うかも。逞しい男のが水で縮こまってるのとか可愛いと思うのよね。元気にさせたくなっちゃうもん。舌でも指でも足の裏でもいいわ。やったことないけど。」

 イシャが頓珍漢で卑猥な相槌を打つ。イシュはギロリとイシャを睨みつけ、真面目に考える。

 水といえば、清めの瓶の水や婚礼の葡萄ぶどう酒のように瓶に入っている物である。喉を潤すものでもあるが、イシュは先ほどまでずっと手を清めていたので、清めや悔い改めの印象の方がずっと強かった。

「あ、分かった! ラビは坊やの先生の事を言ってるのね。」

「あの駱駝らくだ?」

「だってそうよ。この辺りで水を使って人々に改心を呼びかけてるのは彼だけよ。ラビと彼は親戚だって坊やが言ってたけど本当だったのね。」

「あいつ嫌い。」

 イシュが言い捨てると、イシャは面白くなさそうに頬を膨らませ、つんとそっぽを向いた。だが耳は欹てている。

「私が今、貴方に言ったことを不思議に思うことはいけないことです。霊は…。」

 ラビは目を閉じ、全身で息を吸い込むと、両手を広げて口を開いた。

「風です!」

「は?」

 きらきらと目を輝かせながら語るラビを、二人はぽかんとして見ていることしか出来ない。ラビは今、誰にでも分かる言語で、ラビにしか分からない事象を語っているということだけが理解できた。

「風は思いのまま吹くでしょう? 私達にその行く末は分からない。その音を聞いても、それがどこからきてどこへ行くのか知らない。そして風の前には、如何なる壁―――そう、言語、血筋、思想でさえも拒むことはできないのです。霊によって生まれた者も、このようになります。」

「………身体はどうなるのですか? 身体はペラペラの無花果いちじくか何かの葉のようになるのですか? そして木の葉のように風に流されていくのですか?」

「違います。」

「良かった。ペラペラじゃ男としてどうかと思うもん。挿れられても気持ちよくなさそう。」

「ぼくはお前のその猥雑な発想の方がどうかと思うよ…。もう諌めるのもげんなりする。」

 指導者は大真面目だ。イシュは正直馬鹿馬鹿しくなってきた。イシャは興味津々に夢物語でも聞いているかのように瞳を星座盤にしている。ラビは少し困ったようになって眉間にしわを寄せた。

「言い方を変えましょう。私達は知っていることを喋り、見たことを行っているのに、貴方方の方が私たちを受け入れないのです。私が話した地上の事さえ信じられないのに、天上の事が分かるはずないではありませんか。だって、天から下って来た者、即ち『人の子』と預言される存在の他には、天に昇った者はいないのですから。」

「人の子? それは何方ですか?」

「言い方を変えましょう。かつてエジプトから私たちの祖先を連れ出した預言者が蛇を掲げ、民を救ったように、人の子もまた、掲げられる必要があるのです。人の子によって、信じる者が永遠の命を得るために。」

「………??」

 これ以上聞いても埒が明かない、と、イシュは溜息をついて戻ることにした。イシャはもっと聞きたいと駄々をこねたが、イシュは眠たいんだと黙らせ、無理矢理寝床に潜り込んだ。

「誰か来たんですか?」

「あっ、悪い、灯が眩しかったかな。」

 イシュは慌てて手元の灯火を吹き消した。声をあげたのは丈夫だ。暗闇の中で、禿岩の二の腕に引っかかる。男たちの雑魚寝というのはどうも苦手なのだが、部屋がないのだから仕方ない。今晩はイシャが仕出かさないように起きていなくてはならないだろう。

「別に、起きていましたよ。さっきまで兄さんが寝付かなくって。」

「…お前らって変な兄弟だよな。」

「こんな兄さんだから最近、お姑さんにも奥さんにも、剰え娘にも尻に敷かれる始末で…。ラビの旅路の邪魔ばかりして、今日の昼間のことだってそうですよ。ちゃんと僕の手を繋いでてって言ったのに…。」

「…うん、変な兄弟だ、やっぱり。」

「…ああ、すみません。もう夜も遅いのに。僕寝ますね、兄さんの寝相が悪かったら蹴っ飛ばしちゃっていいですからね。」

「わかったわかった、もうお休み。」

 ごそごそ、もぞもぞ、と丈夫が寝床に戻る。イシュは溜息をついて、部屋の隅に行くと、身体だけでも休めようと小さく丸くなった。が、おい、とひそひそ声で話しかけられ、すぐに目を開ける。雷兄弟が揃ってこちらを覗き込んでいた。

「お前、にーちゃんと何話してたんだ?」

「抜け駆けしようとしてたのか?」

「別に、いつも通り訳のわかんないこと喋ってたのを聞いてただけだよ。」

「本当だろうな?」

「嘘だったら今後一切ベツサイダの魚は食わせねえぞ。俺様はベツサイダの網元になれる男だからな。」

「本当だよ。第一ラビの言葉を一対一で聞いたところで、理解できるだけの頭脳を持ってないじゃないか。」

 お前らは、と続けようとして止めた。こんな真夜中に騒ぎになったら面倒だ。

「そんなに気になるなら自分で確かめろよ。ぼくは寝る。」

 ふんっと背中を向けて無視を決め込んでいると、やがてラビが入って来た。本人を前にすると、所詮何も言えないようで、兄弟は渋々眠り込んだようだった。

「ねえねえ、イシュ、すぐ側に坊やがいるんだから、隅っこに行きなさいよ。」

「ふざけんな。お前はぼくの腕の中で寝てればいい。」

「何よぉ、今日は昼間の事もあって皆疲れてるわ。少しくらい身体に触ったって起きないわよ。」

「イシャ!」

 イシャが弟の身体のどこを触ろうとしているのか察して、イシュはイシャの首を片手で軽く絞めた。

「お前、いい加減にしろよ。」

 指を解こうとするイシャの指に噛みつき、イシュは獣のように食い千切ろうと顎を横に動かした。ぎりぎり、ぎりぎり、まるで鋸のように。イシャの悲鳴は首で堰き止められている。

「何度も言わせるな。お前はぼくのものだ。ぼくだけを見ろ。他の男を見るな。一切、見るな!」

 イシャが必死になって頭を縦に振り、イシュはそれでも指を離さなかった。信用できなかったのだ。イシャが愈々いよいよ切羽詰り、胸を激しく叩いたが、それが徐々に弱弱しくなり、もう間もなく息の根が止まるという所まで見定めて、イシュは手を離す。そこまでされたら、イシャはもう逆らえないことをイシュは知っていたのだ。

 初めはここまでしなくても良かった。始めはたしなめるだけで良かった。次は怒鳴るだけでよかった。次はつねるだけで良かった。次は叩くだけで良かった。そして次は―――…。

 よくない事とは思いつつも、他に手段がない。自分を無理矢理そう納得させて、イシュは眼を閉じた。疲れてしまった。もうこれに懲りて、イシャは今晩何もしないだろう。今は唯、愚かな自分の事さえ忘れて眠りたい。


「ラビ、ラビ、少し起きて下さい。わたしの質問、聞いてください。」

「何?」

 深夜、イシャは体力の回復を待たず、イシュの寝入ったのを見計らってラビを起こした。一つだけ、どうしても聞いておきたかったのである。

「ラビ、永遠の命を得、神の下へ帰るとは、どういうことなのでしょう。わたしはその時、どのようなものになるのでしょう。わたしは誰のものになるのですか?」

「…君は聖書を読んだことがない? 理解したことある?」

「ないです。わたし、頭悪いんです。」

「確かに人間が、霊の事を理解するのはとても難しいけど…。でも、神の国では男も女もなく、天使のようになるんだよ。」

「天使? わたしが?」

「うん。」

「そんなの無理です。わたし、天使みたいに綺麗な人格じゃないもの。」

 自覚はあるらしい。

「うん。知ってるから、別にそんなこと期待してないよ。」

 さらりと酷いことを言う。ラビは多分無自覚だ。

「何の心配もいらない。今のままの君が、天使になるの。」

「………。」

「………。」

 ラビは多くは語らない。イシャも多くは尋ねなかった。尋ねたら、愛するイシュの全てを台無しにされてしまいそうだったからだ。けれどラビは、イシャの聞きたかった言葉は言ってくれた。

 ―――今のままの君が、天使になる。

 今のようにひそひそこそこそ隠れないで、人格を認められて、全てを肯定されて威厳を持てるようになる。そして、神に仕える資格を与えられる。ラビの言っていることはどれもこれも現実的なことは何も言っていないように感じたが、イシャはイシュのように現実主義ではないのでどうでもよかった。

 今のままのわたしが天使に―――その響きは、正しくマナのようであった。 

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