第四節 婚礼の二人

 傷もすっかり癒えたころ、イシュはカナへ赴いた。ありったけの葡萄ぶどう酒、パン、果物、乏しい生活費の中から一族が総出で出した豪華な婚宴の席。王女はイシュの妻ではない。彼女は妻の妹だ。イシュの妻は、生来の穢れの為に外へ出てくることが出来ないため、化粧で顔を変えた妹が代役を務めているのだ。婚礼は既に大部分が終わり、今は六日目。明日でこの宴も終わってしまう。

「まあ、そんなことしなくってもいいんだけどね、どうせイシュに妻なんていらないんだから。」

 葡萄ぶどう酒を手にして笑うイシャの顔は、邪悪だった。淫猥で下劣な優越感に満ちた顔。誰もがイシュの人生の節目を祝っているにもかかわらず、イシャの顔は酷く冷めていた。イシャはこの結婚の、裏の裏まで知っている。だから気に入らない。気に食わない。親たちが祝っているのは、子供の将来ではなく自分の家の将来のこと。これでこの家から穢れが消えた、体裁が保てる、カナなんて寒村になどもう来たくもないわ、という老いた親たちの考えだ。

 その証拠に、両親はありったけの葡萄ぶどう酒を用意した。ありったけの、一番若い葡萄ぶどう酒。質より量を選んだのだ。良い純度の高い葡萄ぶどう酒を一杯だけ飲ませ、客を始めに酔わせれば、後で水で薄めたりした悪い葡萄ぶどう酒を呑ませても何も文句を言わない。酔いが回り、分別がつかなくなるからだ。婚礼の宴に置いては、それが常識だ。実際、今イシャが呑んでいる葡萄ぶどう酒は酸い。あそこで件のバカが、本当に瓶一杯はあろうかという勢いで葡萄ぶどう酒を呑んでいる所為だろうか。このままだと本当に恥をかかされてしまうのではないかと心配になり、イシャは杯を持ったまま、漁師の兄の方に近づいた。

「本当に瓶一杯呑むつもり?」

「おー、主役のご登場かあ! 俺様は約束通り、たーんと食ってるし、どーんと呑んでるぞぉ。」

「そのよう。ところで、貴方よりも貴方の弟とお喋りしたいんだけど、坊やは?」

「あーん? あいつか? あいつならさっき、ガキとおばさんと一緒にいたぜ。なんか神妙な顔して世話役と話してた。」

「世話役と? お客さまがそんなことしては…。」

 何か客を煩わせる些末事があるらしい。世話役を探すと、世話役は召使に言いつけて、手洗い場の瓶の水を足していた。清めの水が足りないだけか、と、ほっとする。傍には弟と、見知らぬ母子がいた。子の方は三十程の男で、漁師ほど逞しくないものの、無骨で傷だらけの大きな手が目立つ。これはもしかすると、彼は何かの職人なんじゃないんだろうか。とすれば、彼は…。

「坊や、そちらの方を紹介して。」

「ん? あ、いや、紹介するほどの男でもねえよ。」

 弟は何か汚い物を隠すような眼で、後ろを向いている男を見る。彼が男を快く思っていないことがはっきりとわかった。もしかしたら傍にいる婦人―――見たところ未亡人の様だが、彼女の事も快く思っていないのかもしれない。

「…あら、そう? ねえお客さま、こっちを向いてみてください。」

 振り向いた男の顔は、見栄えのしない有り触れた物だった。けれど窪んだ眼孔に沈む光は、何かが違う。

 ―――何だろうか。この男は、ぼんやりと何も見えていないようでいて、全て視えている。例えばそう、イシャの心の中でさえも…。…面白くて魅力的な男だ。こんな男を手玉に取れたら楽しいだろうし、こんな男に良いようにあしらわれても燃え上がる。今までに見たことのない種類の男だと直ぐに分かった。

「こんにちは。良い宴です。」

「ありがとう。楽しんでいただけている?」

「はい。でも、貴方に逢いたかったから。」

 イシャは記憶を辿った。こんなに面白い種類の男がそうそう居る訳ではないし、逆にこんなに印象強い男をそうそう忘れるわけがない。しかしどうやっても思い出せない。この男を前にすると、胸を締め付けられるようなときめきを覚えるのに、それすら初体験で、懐かしさなど微塵も感じない。

 この男はとても真面目そうに見えて、実はとんでもない道楽息子なのだろうか。この男の鼻や舌は、こうして次から次へ享楽に耽る為についているのだろうか。

「ごめんなさい、わたし、貴方に見覚えがない。」

「そうでしょうね。でも私は貴方を知っていますから。」

 ますます不可解な事を言うので、イシャは男に興味を持つのと同時に、不信感も持った。この男はとんだ破廉恥な奴かもしれない、気がどうかしてしまっているのかもしれない、とも思った。それは余りに露骨に表情に出ていたのだろう。気まずそうな初老の女と、穏やかな笑みを浮かべた男とを見比べて、弟はイシャをくるりと身体を回し、背中を押した。

「あー、あー、あー、もういいだろ! ほら主役は戻った戻った!」

「まだお話の途中なのに。」

 すると弟は苦菜を食いつぶしたような顔をして、声を潜めて言った。

「にーちゃん達はな、『父無子』の上にこの間養父に死なれたばかりなんだよ。俺のお袋が血縁の情けで、恩義をかけてるから、こんな公衆の面前に出てきてるだけで…、あいつらは祝いの席には全く―――いだっ!」

 ひそひそと弟が目立たない努力をしているというのに、背後からその努力を破壊する存在が現れた。彼の兄だ。彼はかなりの酒豪の筈だが、かなり出来上がってしまっていて、前後不覚、もしかしたら目の前にいるのがイシュかイシャかすら分かっていないかもしれない。

 そんなことより、彼があの『ナザレのにーちゃん』なのか。彼の事がもっと知りたいのだが。

「おーおーおーおー! 来たるべき我らの王よ! どうぞワタクシの接吻をその爪先に! そしてその右の座にワタクシめをご用命ください!」

「ひゅーひゅー、やるねえボンボン!」

 それは非常に魅力的な申し出だが、確実に吐瀉物が付随してくる接吻は御免被りたい。イシャと弟が揃って後ずさりすると、兄はイシャに抱きつき、ばんばんと肩を叩いて大笑いした。

「奮発したじゃねえかあ、ええ? こんな上等な葡萄ぶどう酒、俺様んちの誕生日ですら出てこないぜ! それを六つの瓶全部に一杯なんて太っ腹だなぁ、がっはっはっは! 今度からはもうお前らを貧乏人なんて呼ばないぜ、ちゃんと夕食にも招いてやろう!」

 そんなことを陰で言っていたのか、と、イシャは複雑な気持ちになる。だが兄はそれを隠さず話し、申し訳なかった、と、非を認めることが出来る器の持ち主なのだ。…酔っている時ならば。しかしそんなことよりもおかしい現象が起こっているらしいので、イシャはどうにか兄を座らせ落ち着かせる。

「六つの瓶全部に一杯って何? 瓶はここに十一あるけれど、葡萄ぶどう酒が入っている瓶は五つの筈…。」

「あーん? とぼけんなって! 俺様ァ酒にゃうるせーんだ! 酔っ払ってたってこんな極上を水と間違えるポカはしねえ! それそこに、召使どもが配ってる葡萄ぶどう酒だよ! お前も呑んで来いよ、自分で用意したんだろ? おうい、そこの姉ちゃん、酌ぅ!」

 何を言っているのか分からず、言われた通り召使の元に行くと、召使は確かに、用意した分の葡萄ぶどう酒ではない葡萄ぶどう酒を配っていた。しかも、これはかなり位の高い高級品。芳醇な和毛のような香り、一舐めした舌に広がるまろやかさ、突き抜けるコクがその証拠だ。これは水に葡萄ぶどう酒を混ぜたりしたものでもない。れっきとした立派な葡萄ぶどう酒だ。こんな葡萄ぶどう酒を杯一杯でも買ったなら、婚礼は一週間どころか一日だって持ちはしない。となれば一大事だ。もしかしたら面子が大事な両家のどちらかが、どこかの酒蔵から盗み出すように召使に言ったのかもしれない。

「ちょっと!」

「はい、なんでございましょうか。」

 イシャは葡萄ぶどう酒を配っていた召使の男を呼び、首を掴み上げて問い質した。

「言いなさい! 一体どこからこんな高級品を持ち込んだ? いくら家の面子が大事だからって盗人に落ちぶれるなんて許さない!」

「おま、おま、おまちください! この葡萄ぶどう酒は頂いたのです。」

 サァッと血の気が引く。つまりそれは、婚礼の葡萄ぶどう酒を切らしてしまうという大失態を第三者に知られたということだ。家の面子どころではない。

「だれ! 言いなさい、誰からもらったのか!」

「そんなに声を荒げないでください。私の父からの祝いの品ですから。」

 大波を鎮めるかのような静かで低い声に振り向くと、先ほどの父無男が優しく微笑んでいた。彼の微笑みは純粋な好意から来るもので、そこに打算は無いのだと思う。けれども―――イシャは違和感をぬぐえない。彼の表情はどこか漫ろなのだ。こんなに場が騒がしければ誰しもが興奮するだろうに、彼は静かな眼をしている。極上の葡萄ぶどう酒があれば、あの兄のように呑んだくれていてもおかしくないのに、彼の手には見ただけで分かる、酸い葡萄ぶどう酒がある。彼は―――そう、場違いなのだ。

「父? 貴方、父なんていないんじゃなかったんですか?」

 あまりの違和感で、つい不躾に言ってしまい、げ、と思った。主催者がこんな発言をしては、出て行けと言っているようではないか。慌てて訂正しようとしたが言葉が見つからない。公の場で父親がいない、自分の家系が分からないなどと言う恥を晒してしまったのだからどうしようもない。しかし彼はどこ吹く風で、笑って言った。

「いいえ、いますよ。私は父から遣わされてきたのです。」

「じゃあ貴方はお父様の代理でいらした? 申し訳ありません、先ほど嫌な話を聞いたものだから。」

「貴方が私に謝ることは何もありません。さあ、どうぞ貴方も召し上がってください。」

 召使が差し出した葡萄ぶどう酒を見ると、成程、改めて見て、溜息が出る。味を確かめる為ではなく、今度は婚礼の祝いの品として味わいながら頂く。葡萄ぶどう酒は、死海のように濃く、されどもその液体の中には香り、まろやかさ、コクと言った生きた魚が泳ぎ、跳ねている。跳ねているのに、それは鋭くなくて、羊の毛のようにふわふわと鼻の中を遊び、頭の中へ抜けていく。

 これは実に美味!

「おいしい! 貴方、職人かと思ったけど、農夫だったのですか?」

「いいえ、ナザレで大工をしています。」

「やっぱりナザレ! 遠くからお越しくださって…。お見苦しいところまでお見せしたようで。こんな素敵な葡萄ぶどう酒、生まれて初めて飲みました。お父様に宜しくお伝えください。」

「その言葉、父にも届いていることでしょう。」

 そう言って笑う父無男、改めナザレの大工は微笑んだ。


 大工はとても生活水準が高いとは言い難かった。今となってはイシャにはもうどうでもよいことだが、自分と同じかそれ以下。恐らく父無子と言われ、彼と未亡人の年齢差を見るに恐らく彼は長男で、日々家族を養う為に齷齪あくせく働いているのだろう。くびきを造るのが専門だと言ったが、彼は自分自身にもくびきを嵌めていると思った。しかして、その瞳が映しているものは一体なんだろう。わたしはこの瞳をどこかで見ている筈なのに、彼だけがわたしを覚えている―――。もっと彼の事が知りたい。蠱惑的な彼の瞳の謎が知りたい。わたしと彼は―――。

「イシャ。」

「…あら何よ。主役が怖い顔しちゃダメよ。笑顔! 笑顔! イ・サ・ク! ほうら、神の御業を笑うとわたしでさえ妊娠しちゃうわよ~。」

「そうじゃない! お前、またぼくの前で他の男に目移りしただろう。」

「あら良いじゃない。彼いい男よ。多分もうあの年じゃ子供もいるでしょうけど―――。」

「イシャ!」

「でも彼、結婚してないんですって。タマ無しなのかしらね。いい男なのに勿体無いわ。ああいう男の子だったら孕みたい。逞しくって、ドロドロの熱い子種でしょうね~、ああ、欲しいわぁ。」

「いい加減にしろ!」

 カシャン、とイシャが驚いて杯を落とす。慌てて召使たちが駆け寄ってきて、客が退く中、やはり男だけが場違いにイシャの傍にいて、召使の代わりに杯を取って渡した。男だけは、イシャに対して誠実だった。

「落としましたよ。」

 そう言って微笑む男の顔は、どこまでも澄み切っているのに、どこか悲壮感の漂う眼をしていた。

 やはりこの男は、何かが違う。 

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