第三節 異質の二人

 家に帰る頃には、体表は冷え切っていた。それなのに血は煮え滾り、呼吸は暴れ馬の蹄のように大きな音を立てている。誰も入ってこない家の鍵を閉めて幕を引き、服を脱ぎ棄てることもなく、部屋の隅の地べたにそのまま蹲る。寒い筈だ。身体は震えている。歯も鳴っている。それなのに身体の芯が熱く、臓腑ぞうふは古い革袋のように固く脆くなっているのを感じる。

「服を脱がないと。」

「嫌だ。」

「イシュ、風邪をひくわ。」

「嫌だ! こんな…こんな姿…! 『見られて』しまう。」

 自分をかき抱いて、眦から伝うのは、小鬢こびんから伝う湖の水だけではなかった。身体を折り、狼から怯える迷い子のように震えて。こんな時、イシュはとても頑固なことをイシャは知っている。

「大丈夫よ、此処にはわたししかいないわ。」

「神は何でもご存じだ。幕屋の中にいても、どこにいても全て物思いを見通される。そんなのは駄目だ!」

「ダメったって、アンタそれ、一人でどうこう出来る様な一物でもないでしょ?」

 駄々をこねるイシュに、イシャは努めて冷静に言ったのだが、余計イシュは縮こまってしまった。イシャは溜息をつき、イシュに近づき、額に口づけ、大きな子供の様な彼を抱きしめる。

こんな時ばかり意固地になって、普段はわたしを子供っぽいと嘲笑あざわらうのに、どうしようもない人。何よりも何よりも、自分が可愛いのに、自分を愛してくれる人を探しているのに、自分は相手に何も捧げようとしない。まるで死海のように、与えられるだけで空っぽな人。

そんな貴方を愛しているというのに、貴方はわたしを愛さない。

「アンタ、わたしは自分のものだって散々喚いていたじゃない。自分の所有権の主張してたじゃない。こんな時だけどうして一人で抱え込もうとするのよ。」

「うるさい、あっちへ行け。」

「イシュ、わたしを使いなさいよ。わたしはアンタのものなんでしょ?」

「あっちへ行けって言ってるだろ! い、今…、お前なんか、見たくもないんだっ!」

 イシュは自分を包んでくれていた温もりを手放す。しかしそれで引き下がるような女ではなかった。イシャは硬く貝のように閉ざした衣の裾を、指で割り、拒否反応を落ち着かせる為に太ももを摩る。それがイシュの性感帯だと分かっている。イシュはしかし、意志を強く保ち、あろうことか頭を壁に叩きつけた。

「―――きゃあっ! 血が出たじゃないのよ!」

「止めろって言ってるだろ! 目障りなんだよお前! どっか消えろ!」

「…なら一人でどうにかして見せなさいよ。一人で勝手にシコってなさいよ! わたしにやらせれば男の面子は立ったかもしれないのに、バカ! わたしの所為にできたのにね! うんと憐みっぽく『ボクは女に犯されたふにゃちんですぅ』って嘆けば捧げ物をしても慰められたかもしれないのにね! 大バカ!」

「うるさい、どっか行けよ!」

 そう言ってイシュは、脈打つ血を少しでも減らそうと、壁に頭をがんがんと打ちつけ始めた。指を噛み、悲鳴を押し殺し、歯と歯に挟まれた爪が剥がれかかって血が滲む。額からも血がだらだらと流れだしていた。

「ちょ、ちょっとやめなさいよ! アンタ自分がいくつだと思ってんの? ひょんなことで勃起くらいするでしょ! 何やってんのよ、この先アンタ、何回勃起すると思ってんのよ! わたしだっていい男がいたら濡れるんだからね! 生理現象でしょうが、止めなさい、止めてッ!」

「うるさい! お前なんかに分かるか!」

 ますます激しく頭を打ちつけるので、壁に付いた血は床にまで流れた。一撃一撃が遅くなっていくが、重くもなっている。このままでは本当に死んでしまう、イシャは危機感を覚え、ふらふらの身体で外へ飛び出し、助けを求めた。頭から血を流した人間が家から飛び出して来れば、一体何事かと人が集まってくる。面倒を避けようとする冷たい人間達の前に、平伏すように倒れ込むと、一人の男が駆け寄ってきて、頭の血を指で拭った。

「どうしたのですか?」

 誰かが自分を省みてくれたと、それだけで緊張の糸が切れてしまったかのように、イシャは倒れ込んだ。


 イシュとイシャが、特別だと気が付いたのはいつだっただろうか。

 他の男子や女子―――もしかしたら男児や女児というべき時代だったかもしれないが―――彼らと自分が視ているものが違うのだと気が付いたのはいつだっただろうか。律法学者ごっこをするよりも、家で昔の人の言い伝えや、母の手伝いをすることの方が好きだった。けれどもそれだけではダメだと知ったから、イシュとイシャは分かれて、それぞれ得意な方をするようになった。イシュは外で、男友達と律法学者ごっこをし、百人隊に媚び諂う大人たちの真似をした。イシャは家で、母や祖母と共に言い伝えや手伝いをした。そうしていると、周りの大人たちは褒めてくれるようになった。どうして褒められているのかは分からなかったが、ただそれが自然なのだと漠然とした形で受け入れた。

 わたしたちは、ぼくたちは、二人で一人前。一生離れることはない。生まれついての、神に定められた婚姻関係。そう二人で結論付けて幼い二人は神の前に一つになった。けれども、その契約を先に破棄したのはイシャの方だった。

先述したとおり、イシャは自分の欲望に忠実だ。支配したいものがあれば手に入れるし、傅きたいものがあればすり寄っていくし、見目良い男がいれば恋に落ちるし、優しい男がいれば靡く。その為に、自分の半身がどんな迷惑を被るか、どんなに未来が曇っていくかを考えない。安穏とした未来を望み、大衆の中の一粒でありたいイシュと、優秀な雄蕊と交わり、実を結びたい花盛りのイシャとは、徐々にすれ違うようになったが、もはやお互いがいなければ日常生活を送れない位に、お互いはかけがえのないものになってしまっていた。

イシュを慰めるのはイシャの役目。イシャを守るのはイシュの役目。幼いころに造ったくびきは、成長し、太くなった首に深く深く食い込み、息を細くさせるが、殺すには至らない。

今だって―――………。


「………。」

 瞼を上げる。頭が痛い。ものすごく痛い。あれだけ激しく打ちつけていたのだから当たり前だ。死に損なったらしい。誰かが自分を介抱してくれたらしく、傷は清められて、ここは…自宅の寝床のようだ。ゆっくりと身体を起こそうとすると、首が千切れそうなほど頭が重たい。起きるのはまだ無理そうだ。

「誰か…。」

 小さく声を出しただけなのに、ずきずきと頭が痛む。横になっているのに身体は臼のようにぐるぐると回っている。自分を助けてくれただろう誰かが、何のゆかりもない他人の家にまで押し入って世話を焼いているとは思えない。この家には、両親や兄弟とともに住んでいるが、彼等は日没まで皆外で働いていて帰ってこない。

 気持ち悪い。目が回る。痛い。苦しい…。

「おい、くたばりぞこない。今更死ぬな。」

 低く猛々しい乱暴な言葉遣いと共に、額の布が優しく取り替えられる。新しい布は清潔で、ひんやりと熱を持ち始めた傷口を冷やして鎮めてくれる。頑張って目を開こうとすると、今度は全く聞きなれない声がした。

「いけませんよ、患者さんにそんな乱暴な言葉を使っては。この方、本当に酷い怪我なんですから。」

「へん、ナザレのガキの知り合いだって言うから連れてきたんだ。たかが医者のクセに俺様に意見するな。」

「その、たかが医者の力を頼ってきて真っ青な顔で慌てふためき、清めの水と布をかき集め、今の今まで疲れてへばっていたのは誰ですか。」

「お、お、お…!」

 視えなくとも、漁師の兄が顔を真赤にしているのは分かった。彼は昔から素直じゃない。悪口は言うが陰口は絶対に言わない事からも、根は優しい良い奴だと分かるだろうが、それにしたって彼は、誰かを巻き込まないと謝罪の一つも言えない頑固者なのだ。

「お、俺様はなぁ! 網元の跡取り息子が間接的にだろうと人っ子一人、殺しちまったなんて噂が出たら困るから―――。」

「わたくしは後片付けをしますので、これで席を外しますが、くれぐれも安静にさせてくださいませ。明日また傷を診に来ます。この後の処理は貴方様がやった方が良いと思われますので。」

「今回だけだからな! 俺様は忙しいんだ。」

 はいはい、と笑う医者を見送ると、いよいよ気まずい空間に漁師はあからさまに動揺し始めた。自分が悪いということが分かっていることには分かっているのだが、どうしても普段が普段だけに言い出せないらしい。元々網元の跡取り息子として育てられ、父と母以外には傍若無人にふるまってきた男だ。ずっと悩ませているのもこれはこれで面白いが、いい加減哀れなので、先に声をかけてやる。

「ありがと。」

「ああん?」

「助けてくれて。」

「べ、別に俺様じゃねえよ! ガキがお前を見つけてだな、お前が重くて運べないとか大工のクセにヘタレたこと言うから仕方なく…、ホントだぜ!」

「ガキって? ナザレの従弟?」

「そ。うちの先生は結構ご執心なんだけど、あんなポヤポヤしたガキの何がいいのかわかんねえ。まあ、大工の腕は認めるけどよ。」

「年いくつ?」

「今年三十だったかな。」

 自分より年上だと、ガキと言われてもピンとこない。ぼんやりとした頭で思うのは、あの医者の若く瑞々しい肌のことだった。

「近々婚礼だってあるんだろ? 無茶すんじゃねえ。」

「…こんれい…。そうだった、ね。」

 ここより更に北に、カナという寂れた村がある。このベツサイダと違って産業もなく、正しく寒村という言葉が似合う田舎町だ。今後二千年は栄えないような、そんな印象がある、本当に淋しい寒村である。そこに、イシュの結婚相手が住んでいるのである。本来ならば花嫁がベツサイダに来るのだが、イシュの希望と、イシュの祖先がカナに住んでいたこともあって、この婚礼を機に、イシュはカナへ行くことになっていたのだ。住民登録の手間も省けるし、イシュは家系を継ぐ身分でもないので、体の良い口実だった。

「とーぜん、大親友の俺様は呼んでくれるんだろうな、え? 葡萄ぶどう酒を瓶一杯呑んでやるぜ。」

「もちろんさ。葡萄ぶどう酒を飲みきってぼくに赤っ恥をかかせないでくれよ。」

「わっはははは、それだけ言えれば十分だな。俺様帰るわ。式には俺様の家族も行くからな。」

「ああ、楽しみにしてるよ。」

 一人きりになって、時折来る傷の痛みのさざなみに揺られながら、イシュは眠りに落ちた。



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