第二節 漁師の二人
ベツサイダの町に平穏が訪れたころ、イシュは漸くイシャが落ち着いたので、外へ出るようになった。もう町は、
「おい、溜息なんかついてんじゃねぇ、益々景気悪くなるだろうが。」
ぺっと足元に唾を吐きかけられ、むっとイシュは顔を上げた。が、見知った顔だったので、今度は更に大きく、これ見よがしに溜息をついてやった。すると唾を吐いた男は、
「ケンカ売ってんのかオラ! イシュ、てめぇ久しぶりに顔見せて安心させに来たのかと思ったら、魚腐らす為に来たのかァ!?」
「クソ兄貴、サボんじゃねえよ! 親父に言いつけるぞ!」
口では咎めているものの、一緒に網を繕っていた、彼の年の離れた弟は、自分の兄を止めるつもりは毛頭ないらしい。というより、イシュがどう行動するのか興味深そうに見ている。彼は手こそ出さないが口がとにかく汚い。
「うるさいカミナリ野郎、ブーブー喚くな。荒野の先生の時だけブーブー言ってろ。ブェーブェー、ブェーブェー、あ、ぶぇーぶぇー、ぶぇーぶぇーぶぇえー、ふごふごぴーぴー、ぎゅるぎゅるぴー。」
彼の先生の
「舐めてんのかコラァ、先生を侮辱すったぁ、上等だクソッタレ! 今すぐ沈めて魚の餌にすんぞオラ溺れろこの野郎!」
「クソ兄貴、水辺で暴れると魚が逃げるぞ!」
「いたたた! うるさいな、溜息くらいで何すんだよ、お前こそ沈めこの暴君! ヘロデもビビらあ!」
髪を引っ張られて湖に突き飛ばされそうになる。浅瀬とはいえ濡れ鼠になってしまったら確実に風邪をひく。イシュも負けじと漁師に掴み掛り、自分の方に引き寄せた。
「漁師が沈むかボケナス! 俺様の庭で良い度胸だオラァ!」
だが本職の漁師には適わない。彼等は大量の時は一日に山ほどの、それこそ船が転覆してしまいそうなくらいの魚を水揚げするのだ。
「漁師なら水辺で喧嘩すんじゃねぇよ、このおたんこなす!!」
しかし喧嘩両成敗、と言わんばかりに、同時に湖に突き飛ばされて終わってしまった。ずぶ濡れになったイシュと漁師は、今まさに、頭上で積乱雲を呼び、ごろごろ、ばりばりと唸りをあげる、弟の雷小僧に見下ろされていた。
「イシュ、服はオレの家で乾かせ。クソ兄貴はオレの分も網繕いだ。オレは親父に言いつけるからな、義姉さんにも。」
「はぁー!? なんでえ! 何いい子ぶってんだよクソ弟!」
「うっせぇ、この租チン野郎! こないだ末娘まで生まれてんのに、いつまでも喧嘩ッぱやくていけねぇや! オレの結婚にだって響くんだよ、そんなこともわかんねえのかよバーカ! 親父にも義姉さんにもお袋にも報告すっからな。それが嫌なら網を打て! ほらイシュ、行くぞ。」
イシュを引き上げ、代わりに弟は自分の兄に、まだ繕いのすんでいない網を放り投げた。ざぶん、と兄は再び湖に沈む。喧嘩をした時、手や足がすぐに出るのは兄の方だが、弟はとにかく口が、というより顔付きが悪い。もうそろそろ婚約の時期になるというのに、公の場で兄に対し、あかんべえが出来る人間なぞ、そうそういない。
この二人は漁師であるが、漁に出られない時などは、荒野に住み、
「坊やってば、やっぱり変わらず優しい子ね。わたし達を気遣ってるなら、正直に家に招待すればいいのに。本当に素直じゃないったら。可愛いわね、うふふ。」
「黙ってろイシャ。外だぞ。」
「はぁい。」
イシュの神経を逆なでするかのように笑ったイシャを睨み、イシュは震えながら弟の後をついて行った。後に残された兄の方は追って来ず、ぶつくさ言いながら網を繕っている。先にも言ったように、拳では兄が勝つが、口では弟が勝つからだ。それに、網元の息子たるもの、商売道具をほったらかして血に猛っているなどと囁かれては分が悪い。
「一応、心配してたんだからな。」
不貞腐れた兄の背中が小さくなった頃、ぼそりと弟が言った。何の脈絡もなく言われて、イシュは聞き返す。
「あのクソ兄貴だよ。お前、結婚が延期になったって聞いて、寝込んだっていうじゃねえか。」
「え? ………ああ、そうだったね。」
表向きはそういうことにしてあったのだった。実際は、今にも暴走しそうなイシャに付きっ切りでいた為に外に出られなかっただけだったのだが。
「ぼく、こう見えて繊細だから。」
「どの口がほざいてんだよ。兄貴とタイマン張れるなんて、アンタかナザレのにーちゃん位だぜ。」
「ナザレのって…母方の従兄だったっけ? 木の扱いが上手いという。」
「そ。もうそろそろにーちゃんも嫁さん貰うはずなのになー。なーんか、許嫁決めてないらしーんだよね。そんなわけだからか、最近先生の所で洗礼を受けたは良いんだけど、妙なことになっちまっててね。あーあ…商売敵とはいえ同業者からみょうちくりんなのは出ちまうし、そろそろ俺らにも飛び火しそう…。にーちゃん、気が狂ってんだ。」
『ナザレのにーちゃん』とやらは、会ったことはないが、話にはたまに聞いていた。父と共に腕の良い
かくいうイシュも、大工の端くれである。最も、イシュは
網元の家は大きく、そのすぐそばで召使の一人が瓶を磨いていた。
「お帰りなさいまし。おや、イシュさん、どうなさいました?」
顔馴染みの召使は、頭を下げながら早くも状況を分析している。そしておそらくそれは間違っていない。
「こいつの服を乾かしてやりたいから火を持ってきてくれ。またクソ兄貴がやらかしやがったんだ。」
「まあまあ、それはそれはとんだ災難でございました。」
「義姉さんいる? チクってやる。あとクソ兄貴の服、こいつに着せてやらないと。」
「若奥様でしたら、今お嬢様の昼寝に付き合っておいでですよ。」
「しょーがねえや。ちょっと小さいけど、イシュ、俺の服で我慢しててくれよ。………おーい、イシュ?」
「………へぁ? あ、うん。」
ぼんやりとしていたイシュの目の前で、ひらひらと手を振る。イシャはその様子を見て、にやにやと笑っている。
「そろそろ冷えてきたか? まあ入って脱げよ。」
「や、やっぱり帰るよ。」
「はぁ? お前の家、ここから遠いだろ。絶対風邪ひくぜ。」
「いいって! 悪いから! お前の兄貴にでっかいカミナリ落としてくれればそれでいいから! じゃあな!」
静止の声を振り切り、イシュは重たい身体のまま、走り出した。
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