第一章 双子の大工

第一節 後朝の二人

 三日前、愚かな男が死んだ。

 彼の愛欲を、社会は認めず、死罪を言い渡した。

 誰かが言っていたが、情交セックスとは本来こうあるべき、というものはないそうだ。

性的嗜好というものは、それがどんなに背徳的で、周りに迷惑をかけるもの、たとえば死体に欲情するとか、殺さなくては絶頂感を味わえないとか、そう言う物であったとしても、それを否定することは自分自身の否定につながることなのだそう。かくなる上はその様な倒錯者は、それを見事、社会的に昇華させるべきなのだという。つまり律法にあるように、獣と交わるだの、男が男と交わるだの、

レビラート婚―――つまり子孫の駆け引きだの、そんなチャチな悩みで性欲を減退させることは、愚かしいということなのだろう。

 小難しいことは置いておくとして、自分たちもまた、性的倒錯者と言える分類であることを、イシュは自覚している。このじゃじゃ馬の片割れが眠っているのを見ながら、自分の中の暴れ馬を押さえることに必死だ。

この、自分のものであるイシャは、とても魅力的な女だ。どう魅力的なのかと問われれば、それは惚気話ではなく哲学の話になってしまうくらいに、彼女の魅力は透明で、無垢で、愛おしい。だが危うさを持っていて、ともすれば、尻に敷かれて痛めつけられることも分かっているから、彼女の相手は堪らない。舌なめずりをしても、唾液が零れるくらいだ。男には得てして、女を社会的に抹殺してでも自分のものにしてしまいたいという危険な欲求があるものだと思うし、今のユダヤ社会の構造はそれを叶えているとも思うが、それでもイシュはイシャを殺そうとすることさえ、ままある。けれどもイシャは、イシュが自分を殺せないことを知っている。臆病者のイシュを愛しているからだ。だからイシャは笑ってイシャを慰めて抱きしめる。

バカな人ね、死が二人を別つなんてありえないのよ。わたし達は永遠に一つなのだから。

 イシュがイシャをゆるさないことはあっても、イシャはイシュを大抵赦ゆるしていた。惚れた弱みという奴だろう。イシュは、愛するがゆえにゆるせない。イシャは、愛するがゆえに、何でも受け入れてしまう。それがどれほどのものであったとしても、だ。

 彼女の事を殺したいくらいにゆるせないと思う度に、イシュは泣いてイシャにすがるのだ。

お願いだから、これ以上ぼくを困らせないでおくれ、ぼくの小悪魔! これ以上君がわがままを言うのなら、ぼくはこの首を圧し折らなくちゃならないんだ!

「………ちょっと。」

 不機嫌な女の声で我に返る。イシュの指は、イシャの首を不自然に撫でつけていた。眠りを妨げられた彼女は、イシュの手を払いのけ、はぁ、と溜息をついてこちらに向き直った。

「またいつもの病気? アンタ、だってベツサイダのあの羊飼いは嫌っていたじゃない。」

「そうさ、嫌っていたよ。…イシャ、君の心を揺り動かすものは、たといそれが神の溜息であったとしても、ぼくは我慢ならないんだ。」

「羊飼いが羊を犯して石打の刑…。フンッ、わたし、荒唐無稽なゴシップは嫌い。でもわたし、彼の気持ち、分かるわ。」

「そらまだそんなことを! 君はぼくの世間体を考えてもくれない!」

「声が大きいわ。…わたしは好きな男の事を話しているだけよ。そんなに嫉妬に狂うなら、アンタがわたしに見合う男になればいいのよ。………アンタは、変態として殺された羊飼い以下の男だわ。」

 つん、とそっぽを向いたイシャは震えている。その理由が分かっているから、イシュも強くは言えないのだ。だが心を鬼にしてイシャを抱きすくめようとした途端、突然イシャは悪魔が乗り移ったかのように手を痙攣させ、全身を硬直させてイシュを突き飛ばし、泣き喚いた。

「そうよ! わたしはあの羊飼いを愛していたわ! あの羊飼いもわたしの事を愛してくれたわ! わたしたちは同じ羊を飼って暮らすのが夢だったの! でも、あの羊飼いは、わたしの物になるはずだった羊諸共先に死んでしまったわ! なのに、なのに、アンタは口を開けば世間体の事ばかり! わたしの気持ちは律法に当てはめて無視するばかり! でも無学なあの羊飼いは、わたしの話をちゃんと聞いてくれたのよ! アンタなんかより! アンタなんかより!」

「静かに! 誰かに聞かれたらどうするんだよ!」

「うるさい! 死ね!」

 そう言ってイシャは音高くイシュの頬を叩くと、姿を隠してしまった。

 一人で頭を冷やせば、そのうち戻ってくるだろう。今は深入りしないことだ。とにかく、自分はさっさと寝てしまおう。


 きっかけは三日前の昼の事だ。

 ここガリラヤ湖畔の町ベツサイダで、ある羊飼いが石打の刑にあって死んだ。羊飼いは、白昼堂々と自分の羊を犯して廻り、大声で獣への―――その獣とは自分が律してきた羊の群れだったのだが―――愛を甲高く叫んで、幾度となく悪魔の臀部にキスをするような行為を繰り返したのである。その羊飼いとイシャは、懇意にしている間柄で、イシュの手前、将来を誓い合うことこそできないものの、心は添い遂げるつもりだと言っていた。だからイシュは、羊飼いが処刑されたと聞いて飛び上がって喜び、大声で笑っていた。これでイシャは自分一人のもの、自分の所に返ってくる。もう誰の後ろ指を指されることもない。問題の積み重なった、大きな山が海に飛び込んで、海獣に喰われたのだ。今頃奴は、捨てられ、燃やされるゴミのように、四六時中ゲヘナの炎に身を焼かれているのだと喜んだ。一方イシャは、深く悲しむかと思ったが、意外と淡泊な反応で。勿論悲しんでいたのだけれど。

 イシャは何故、羊飼いがあんなことをしたのか分かっている。だから、悲しみをこらえていたのだ。

 一昨日、結婚が正式に決まったのだ。ユダヤの社会では、結婚は段階を踏んで行われる。許嫁、婚約、結婚。つまり、最初から相手がいて、そのことを羊飼いも知っていた。だが、正式に日取りが決まったことを朝に知らせた時、羊飼いは一日として正気でいられなかった。羊飼いなどと言う身分の手前、イシャをめとることは出来ない。のらりくらりとイシャとて家族を誤魔化せない。その現実に耐えきれなくなったのだろう。イシュは忍耐の末に訪れた安息を喜んだが、イシャはどうだったのか。知ろうとも思わない。きっと知ったら、イシュはイシャをどうにかしてしまうだろう。

 イシャは恋多き乙女であるが、イシュは全く別で、人を見る時、まず利害を考える。自分にとって有害か無害か、有益か無益か、或いは損な存在か。イシュにとって世界は全く単純で、合理的で、石を積み上げていくようなものだった。対してイシャは全くの逆。格好いいか、逞しいか、優しいか、好ましいか、ついでに情交セックスは上手そうか、或いは男の象徴、端的に言うとまあ、ソレがどのように使えそうか、それだけでしか物事を判断していない。そして羊飼いは有害で損な存在でありながら、優しい存在だったのだ。こうして二人は対立したのだが、イシュはいざとなるとイシャに弱い。イシャが貞潔を絶対に護るということを条件に、羊飼いと会話することを許したのだった。

「イシャ…。どうしたら君は目を覚ますの。男のぼくに支配されているのが、君の幸せなんだよ…。」

 自分の不甲斐なさに頭を抱えながらも、イシュは低く呻いた。

 生まれたときから共に在った。イシュはこの先死ぬまで、共に在るつもりだし、その覚悟も出来ている。それだというのにイシャは奔放すぎる。イシュにとって損なことばかりをして、くるくると辺りをかき回していく…。

「もし、どうしてもぼくの言うことが聞けないのなら、イシャ、君を殺してぼくも死ぬしかないんだよ。」

 いつの間にか外が白み始めていた。 

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