第78話 彼女と『彼女』

 暗い、ただひたすらに暗い闇の中。

彼女の存在はそこにあった。


「……私は……っぅ……」


 何かを考えようとするたびに頭に痛みが走る。

 よく見れば彼女の周囲にあった闇が彼女の思考を妨害するように蠢いているのが見て取れただろう。

 そしてそれだけではない。闇は彼女のことを覆い隠すようにその体を包み込もうとしていた。


「ぅ……」


 その闇は温かく、ともすれば安らぎの感情を彼女に与えていた。

 いつまでもそこにいたいと思うように、そして他の何かのことを思い出させないようにするために。

 そんな狙い通り、彼女は闇に包まれてまるで母の腕に抱かれる赤子のような安息を覚えていた。

 このままここに居ていいのだと、全てを忘れて楽になってしまえばいいのだと告げるように。


(——本当に?)


「っ!」


 一瞬過るよく知った誰かの顔。

 ハッと目を開いた彼女は自分の周囲にあった闇を力づくで振り払う。


「はぁはぁ……私は……私……は……」


 まるで靄がかかってしまったかのように思い出せない記憶。

 大切だった誰かの顔も名前も、自分自身の名ですら彼女は思い出せてはいなかった。

 それでも一瞬見えた誰かに縋るように彼女は立ち上がり闇と対峙した。

 そんな彼女の抵抗を無駄な足掻きと嘲るように、闇は蠢き、やがて一つの形へと変化していく。

 

「っ……」

『愚かな私……もうどうしたって抗うことなんてできないのに』

「お前は……」


 浅黒い肌に闇の中にあって鮮烈に輝く黄金の瞳。

 彼女と瓜二つの姿かたちをしたその闇は無駄な抵抗をする彼女のことを嘲る。


『私はあなたの闇。あなたがずっとその身に抱え続けた罪そのもの。あなたの負の感情を一心に受けて生み出された存在。もう一人の『私』自身』

「あなたが……私?」

『もう全部貰った。『私』という檻から解放された私は、あなたの名を、力を、記憶を奪った』

「っ、だから何も思い出せないのか……」

『後はその心だけ。それさえ奪えば……染め上げてしまえば私はようやく、本当の意味で『私』になれる。だからさぁ、早く、あなたの全てを私にちょうだい?』

「……断る」

『どうして? あなたにはもう何も残っていない。名も力も、全て私のものになった。××××××は一人でいい』

「っ……」


 もう一人の自分が発したであろう己の名が彼女にはうまく聞き取ることができなかった。まるでその部分にだけノイズがかかってしまったように。


「返せ。その名も、力も、記憶も、全部私のものだ」

『違う。もう私のものだから。私の返せと言われても返すわけがない。でもまだ足りない。これだけじゃ足りない。私が完全になるためには。私が私として完成するためには。最後に残った心が必要なの。だからちょうだい?』

「誰が渡すか」

『……なぜ拒むの? この状況で拒むことになんの意味があるの? どんなに抗ったところで結果は変わらない。無理やり奪うか、あなたが自らの意思で譲り渡すかの違いでしかない。せめてもの温情だったのに。あなたにはもう何も残っていないのに』

「だとしても」


 彼女の脳裏に一瞬過った誰かの顔。

 はっきりとした顔も、名前もわからない。それでも、その存在が抗うだけの意思を彼女に与えていた。


「お前が奪った私の全てを取り戻してみせる」

『それは無理。残念だけど……まぁいいや。その全てがこの『私』の力の前では無力だっていうことを、その身に直接教えてあげる』


 そして暗い闇に包まれた空間で彼女ともう一人の『彼女』の己を賭けた戦いが始まった。



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