(9)

「それで、どうしたの?」


 ベッドを背に、ローテーブルをハルちゃんと囲む。


 当たり前だが、今日も家にはわたしひとり……いや、今はふたりだけ。


 ハルちゃんはいつになく真剣な顔をしていて、わたしの体にも自然と緊張感がみなぎる。


「……逆に聞くけど、ヨシくんとなにかあった?」

「……え?」

「様子がおかしかったから……」


 ハルちゃんを見る。ハルちゃんは珍しくこちらを見ていなかった。


 美しいまつげに縁取られた目を、憂い気に伏せている。


 ヨシくんと……。


「ヨシくんと、なにかあった?」。


 そのセリフは、わたしにとっては致命的だった。


 うろたえたわたしの顔が、さっと熱くなる。反対に、背筋はなんだか冷たかった。


 顔が赤くなっていたのかもしれない。


 あるいは、あからさまにうつむいてしまったわたしを見たのかもしれない。


 恐る恐るハルちゃんを見れば、ハルちゃんは柳眉をひそめてこちらを見ていた。


 わたしは、なんだか自分がひどく汚らわしいもののような気になった。


「なにかあったんだ」


 ハルちゃんは目を細めて、不機嫌そうに言う。


 体験したことのない険悪な空気に耐えきれなくて、わたしはあわてて弁明の言葉を口にする。


「ちょっと、ケンカしただけだよ」

「……最近、仲いいよね」

「普通だよ」

「そうかな」

「そう」

「告白でもされた?」

「え?」

「……それとも、もう付き合ってるの?」


 わたしは、どうしてハルちゃんがこんなにも機嫌が悪いのかわからなかったし、どうして急にヨシくんと付き合っているのか、なんて言い出したのかも、わからなかった。


 ハルちゃんはやっぱり美麗なアーモンドアイを細めて、こちらを責め立てるような目で見ている。


 わたしの心臓はまるで針にでも刺されたかのような気になった。


 同時に、それは罰なのだとも思った。


 一番の友人であるハルちゃんにかくしごとをしたから。誠実でなかったから。


 ……ヨシくんと、さみしくてキスをしたことを、黙っていたから。


 だからこんな、気まずい思いをしている。


「……なんで黙ってるの? やっぱり……」

「ち、ちがう。付き合ってない」

「じゃあなんでそんなに仲がいいの? 前までは違ったのに」

「それは……」

「……別にヨシくんとトーコが付き合っていても怒らないよ」

「……今怒ってるじゃん」

「怒ってない。……ただ、黙って隠されてるのがイヤなだけ」

「隠してるなんて、別に」

「ウソ」


 同じ部屋にいるだけで、ハルちゃんの機嫌がどんどん急降下して行くのがわかる。


 怒ってないと言うけれど、不機嫌なのはたしかだった。


 わたしは今、ハルちゃんに本当のことを言っている。


 だってヨシくんとは本当に付き合っていない。恋人同士じゃない。


 けれども一方で本当のことは告げていない。


 ヨシくんとキスをしたこと。一度きりじゃなくて、何度もしたこと。


 わたしの心はハルちゃんに真実を明かしていない重みに潰れそうになっていた。


「付き合ってないよ。本当に。ヨシくんにも聞いてみればいいじゃん。あり得ないって言うよ」

「俺はトーコに聞いてるんだけど」


 ハルちゃんはいつだって、わたしには優しかった。


 ヨシくんを「ちょっとウザい」と表現したように、他人に対して辛辣な評をつけることはあったけれども、一貫してわたしには優しかった。


 わたしはそれを誇りにして、優越感を抱いて、浸っていた。


 けれども今はどうだろう?


 ハルちゃんはまるで氷のように冷たい目でわたしを見ている。


 思い浮かぶ言葉はひとつ。自業自得。


 ハルちゃんに一番の友達ですって顔をしながら、ハルちゃんに言えないようなことをした、わたしへの罰。


 ハルちゃんの顔をまともに見れなくて、でも様子を窺えないのは怖くて、わたしは視線を泳がせる。


「なんで? そんなに俺には言いたくないの? ヨシくんと付き合ってるって」

「ちがうよ」

「じゃあなんで俺の顔、見ないの? トーコはウソつくとき、目が泳ぐからわかるよ」

「……ウソじゃないよ」

「本当のことも言ってないでしょ」


 的確なハルちゃんのセリフに、わたしは言葉を詰まらせる。


 ハルちゃんはわたしのことを、なにもかも見通しているかのようだった。


 わたしがウソをついていないけれど、本当のことを言っていないことも。


 ヨシくんとただならぬ関係に陥っているということも。


「ねえ、なんで言えないの?」

「だって……」

「『だって』って言われてもね。俺に本当のこと言うのはイヤなの?」

「そうじゃないけど……」

「……俺はトーコのこと好きなのに、トーコはそうじゃないんだね」

「――ちがうよ!」


 厳しかったハルちゃんの顔がゆるんで、それは悲しみに満ちた表情になる。


 そして同時に、それがハルちゃんの本心なのだということを、わたしは本当に、今さらながらに理解した。


 不機嫌そうな顔をしていたのは、悲しいという気持ちを覆い隠すためなのだと。


 それがハルちゃんの精一杯の虚勢だったのだと。


 ……そしてそんな顔をさせてしまっているのが、ちっぽけなわたしのプライドのせいなのだと。


「ちがうよ。わたしもハルちゃんのこと好きだし……か、かくしごととか、したくないと思ってる」

「じゃあ、なんで言ってくれないの?」

「だって……言ったら、ハルちゃんに……嫌われるかもって……思って……」


 わたしの言葉は情けないことにどんどん尻すぼみになって行った。


 自信がなかった。ハルちゃんに嫌われないという自信が。好き同士だという自信が。


 ハルちゃんのわたしに対する「好き」を、「嫌い」が乗り越えていないか不安だった。


 けれどももう、隠し通すことは無理だった。


 わたしはハルちゃんのことが嫌いじゃなくて、好きだから。


「嫌いになるわけないでしょ」


 ハルちゃんが微笑わらった。


 ふわりと清楚な花が咲くかのように、微笑んだ。


 そして一度立ち上がって、ローテーブルを迂回して、ベッドを背にしたわたしの隣に座る。


「トーコのこと好きだから、心配なんだよ。ヨシくんとなにかあったのか……」

「別に、心配されるようなことじゃないから……」

「やっぱり言えないの?」

「……ヨシくんとは、別に、変なことしてるわけじゃないよ」

「ふーん……。じゃあ、言えるよね?」

「……えっと」


 隣に座るハルちゃんがわたしの方を覗き込むように見ている。


 近い。キス、してしまえそうなほど。


「……キス……」

「え?」

「キスしたの。ヨシくんと」


 言った。言ってしまった。


 わたしはなぜだか無性に謝りたくなった。ハルちゃんと、ヨシくんに。


 なんか、ごめん。ごめんなさい。


 ハルちゃん、黙っててごめんなさい。ヨシくん、黙ってられなくてごめんなさい。


 不思議と、その両者の言葉は同時に心の中に浮かんで、そして両立していた。


「それは、ヨシくんと好き合ってるから?」

「好きは好きでもそういう意味じゃなくって……」

「じゃあ、恋人でもないのにキスしたんだ」

「まあ、そうなるけど……」

「ふーん……」


 あれ? と思った。


 ヨシくんとの秘密を告げたら、ハルちゃんの懸念は晴れてハッピーエンド。わたしはなぜだかそう思い込んでいた。


 けれども現実には、ハルちゃんはなぜかまた不機嫌な顔に戻った。


 今度はわかる。悲しいとかじゃなくて、本気で機嫌が悪い。幼稚に表現すると、「拗ねてる」だ。


 なんとなく、ハルちゃんが拗ねている理由はうっすらとだけど理解できる。


 輪から外されて、外れたところに置かれて、拗ねてるんだ。


 わたしにとっては安堵できることに、ハルちゃんは恋人同士でもないのにキスしたこと自体は、さほど問題だとは思っていないようだった。


 けれどもそこからどうすればハルちゃんの機嫌を直せるかは、わたしにはさっぱりわからなかった。


「それじゃあ俺にキスしてよ」

「え?」

「恋人でもないヨシくんとできるなら、俺ともできるでしょ?」

「い、いきなり……?」

「ねえ、ヨシくんとはどういう風にキスしたの?」

「えっと、でも……」

「『でも』じゃないよ。それともヨシくんとはできて、俺とはできない?」

「そんなことは……ない、と、思う、けど……」


 わたしの頭は一転してパニックに落とされる。


 ハルちゃんとキスをする?


 まったく想像できない、想像したこともない事態に落とされて、わたしはどうすればいいのか、ますますさっぱりわからなくなってしまう。


 そんな風に混乱するわたしへ、ハルちゃんは駄々っ子のように畳みかけてくる。


「俺たちずっと仲良くしてたじゃん。なら、できるでしょ?」


 ハルちゃんのその言葉にどれほどの正当性があるのか、わたしにはわからなかった。


 けれどもそうやって、うじうじとわたしがなにもせず考え込んでいる姿にしびれを切らしたのか、ハルちゃんの唇がわたしの唇に当たった。軽く「ぶつかった」と表現してもいいかもしれない。


 とにかくその、ちょっと勢いのある「接触」をもってして、わたしはハルちゃんとキスをした。


「ハルちゃ……」


 ハルちゃんの名前を呼んで、わたしはどうしたかったのか。


 止めたかったのかもしれないし、違うかもしれない。


 どちらにせよわたしには、もうわたしの本心などわからないくらいに、かき乱されていた。


 ハルちゃんの唇は柔らかかった。心なしか、ヨシくんのものよりも。


 それとちょっと表面が荒れていたヨシくんの唇よりも、ハルちゃんの唇はすべすべとしていた。


 そんなハルちゃんの唇がくっついては離れる。


 そしてくっついている時間が徐々に長くなって行った。


 いつか教室で見た、水野さんたちのじっとりとしたキスを思い出す。


 つい数時間前に、ヨシくんにされたキスを思い出す。


 わたしはそれを汚らわしいとか、いやらしいとかは考えなかった。


 けれども嫌悪があるかどうか確認するより先に、困惑が浮かぶ。恐怖が浮かぶ。


 この先へ行くのは、怖い。


 そんなわたしの気持ちに反して、ハルちゃんの手がわたしの体に触れる。


 何度もついばむようなキスをして、ハルちゃんの唇がわたしの下唇を挟んで軽く引っ張った。


 そうしているあいだに、ハルちゃんの手がわたしのおしりに触れた。


 制服のスカートの上から、ハルちゃんの手がわたしのおしりをつかむみたいに触れた。


 わたしはそれにびっくりした。


 美しいハルちゃん、優しいハルちゃん。わたしの中ではそういう、やわらかなイメージしか持たないハルちゃん。


 そんなハルちゃんが、わたしのおしりを触ってきた。


 ヨシくんがいつもと違うキスをしようとしたときのように、わたしはそれにびっくりして、気がつけばハルちゃんの肩を突き飛ばしていた。


 もちろんわたしより上背のあるハルちゃんの体が、突き飛ばされたくらいで揺らぐことなかった。


 けれどもハルちゃんはわたしの明確な拒絶に、きちんと反応してくれて、キスをするのをやめて、わたしの体から手を離してくれた。


 そのことに、わたしはホッとする。


「……ごめん」


 やがて、ハルちゃんは気まずげに謝ってきた。


 美しいハルちゃん。優しいハルちゃん。


 そんなハルちゃんが気まずげに謝罪する姿を、わたしはなんだか見ていられなかった。


「び、びっくりしただけだから……」

「ごめんね。びっくりさせるつもりはなかったんだけど」

「うん……だいじょうぶ。気にしてないから」


 その後何度かわたしたちは奇妙に謝り合った。


 互いに「しこり」みたいなものが残っていないということは、わかりきっていた。


 単に、事態が性急に進みすぎただけで、そこに嫌悪の情は生まれなかった。


 それはわかりきっていたけれど、けれどもわたしたちはバツが悪そうな顔をせずにはいられなかった。


「ごめん。……急にヨシくんと仲よくなかったから、八つ当たりした。……本当にごめん」


 帰りしな、ハルちゃんはそう言った。


 わたしは「うん」とだけ言った。


 許すとか許せないとか、そういうことは考えなかった。


 けれどもちょっと、わたしはハルちゃんとヨシくんが怖いような、明日また会うのが気まずいような、そんな気持ちに襲われる。


 同時に、ヨシくんにはハルちゃんとキスしたことを言うべきかどうか、また頭を悩ませるのだった。

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