(8)

 キス、キス、キス。


 それは繰り返し行われ、それはハルちゃんのいないところで行われた。


 当たり前だ。


 だって、ハルちゃんにはわたしとヨシくんが「こういうこと」をしているとは言っていないのだから。


 けれどもそこに違和感があるのもまた事実。


 つまり、ハルちゃんを抜いて、ハルちゃんには秘密で、ヨシくんとキスをするということに対する違和感。


 このままでいいのだろうか、と迷ってしまう。


 ハルちゃんには秘したままでいることを、なんとなく不誠実に感じてしまうわたしがいる。


 けれどもしかし、かと言って、どうやって切り出せばいいのかもわからない。


 わからない。……そう思っているうちにわたしとヨシくんは何度もキスをしてしまっていて、ますますハルちゃんに切り出しにくくなって行ったのだった。


 別に、悪いことをしているわけじゃない。


 わたしは自分にそう言い聞かせるけれど、それでもハルちゃんに対する罪悪感、みたいなもの、は募って行くばかりだった。


 別に、悪いことをしているわけじゃない。


 キス、しているだけなんだから。


 パパ活がどうのとか、サポがどうのとか、別にそういう一般に不健全なもの扱いされることをしているわけじゃない。


 セックスしているわけでもない。


 ただ、キスをしているだけ。


 けれどもそこに恋心はなくて、単にさみしさを埋めるためだけにわたしとヨシくんはキスをしている。


 たぶん、ひっかかるのは、そこ。


 恋心があれば、単純な話だった。


 好きだから、キスをする。


 愛しあっているから、キスをする。


 そういう話であればよかったのかもしれない。


 けれども、もう、そんなことを言い出してもどうしようもなかった。


 今さらヨシくんにやめようとも言い出しづらかった。


 別に、イヤになったからとか、好きな人ができたからとかではないので、なおさら。


 ……そうやってわたしは、ズルズルとヨシくんとの関係を続けていた。


 キスをする。それだけの関係なんだから。


 そうやって軽く考えようとしていたわたしをまるで裏切るかのように、ヨシくんはキスをしようとした。


 ある日の放課後、日直で教室の施錠をする仕事のために残っていたヨシくんのために、わたしもいっしょに教室に残っていた。


 いつも通りの軽いやり取りのあと、ヨシくんは教室にふたつ備えつけられているスライドドアを見た。スライドドアは、両方とも閉まっていた。


 明瞭にヨシくんのしたいことを感じ取ったわたしは、自然と落ち着かない気分になる。そわそわとした気分だ。


 そこにあるのは不安と、緊張と、わずかな期待。


 期待の中には必ずしもポジティブな感情ばかりが詰まっているわけではなかったけれど、総括すれば「イヤではない」。そういう感情。


 すっとヨシくんが近づいてきて、片手に持っていた日誌を、そこらへんにあったクラスメイトの机に置いた。


 わたしは自分の机に軽く腰かけていた。そこに、ヨシくんが近づく。


 いつだったか――そう、文化祭の準備のときに見た、水野さんたちの例の場面を思い出す。


 わたしとヨシくんがキスをするようになった、大本のきっかけはアレだった。


 そういえばあのふたりって、やっぱり付き合っているのかな?


 そんなウワサをまったく聞いたことのないわたしは、今さらながらにそんなことを考える。


 そしてヨシくんの顔が近づいてきて、次に唇と唇が触れた。


 それからちょっと離れて、またくっつく。


 いつもだったら、それで終わるはずだった。


 あるいは、何度か触れては離れることを繰り返して、終わるのが常だった。


 けれどもその日は違った。


 なぜかヨシくんの唇はわたしの唇から離れなくて、それどころかぐっと押さえつけるように押し付けられる。


 いつもより長いな、とわたしの心に困惑が生まれる。


 そうしてわたしがなにもできないでいる内に、じょじょに息苦しくなってきた。


 わたしは頭を後ろに引いて、ヨシくんから距離を取ろうとした。


 はっと唇を開いて息を吐く。


 そうしたらなぜかヨシくんはまた唇をぶつけるように触れさせてきて、それから――。


 それから、ヨシくんはぬるりとわたしの唇を舐めて……それから……。


 わたしは、気がつけばヨシくんの手を振り払って、教室から逃げ出していた。


 逃げ出したはいいものの、通学カバンは教室の中に置きっぱなしだったので、逃げ帰ることなんてできずに、行き場なく校内をうろつくハメになった。


「あれ、トーコ」


 そしてなぜかハルちゃんと会った。


 ふっと上を見れば「職員室」という標識が掲げられている。


「まだ帰ってなかったんだ」

「ハルちゃんも……。先生と?」

「うん。最近休みがちだったからね」

「怒られた?」

「ううん。心配してくれて……いい先生だよ」

「そっか」


 わたしはハルちゃんを前にして、泣きたくなった。


 同時に、バチが当たったんだとも思った。


 ハルちゃんに黙ってヨシくんとキスをして……それで今、わけのわからない事態に陥っている。


 けれどもわたしは、どうしてもそれをハルちゃんに言いつけて、泣きつくような気にもなれなかった。


 ハルちゃんに、軽蔑されるのが怖かった。


 恋人でもないのに、好きあってもいないのにキスをして、それでキスをされそうになって。


 びっくりして、逃げてきて。


 完全に自業自得。


 だからどうしてもハルちゃんに言えなかった。


 目の前のハルちゃんはもちろんそんなことを知らないから、いつもと同じようにわたしに接してくる。


 美しいハルちゃん。


 ドロドロとしたわたしの中にある「淀み」みたいなものを、なにひとつ知らないハルちゃん。


 ……わたしとは、全然違う。


「トーコは? 今から帰るの?」

「あ……うん」

「カバンは? 教室?」

「うん」

「……なにかあった?」


 ハルちゃんがわたしの顔を覗き込むようにして、首をかしげる。


 わたしはハルちゃんの目が見れなくて、ハルちゃんの胸元のネクタイを見つめた。


「トーコ」


 わたしが口を開こうとしたとき、背後から声がかかる。


 聞き間違えようもない。ヨシくんの声だ。


 わたしは気まずさからあからさまに肩を揺らしてしまう。


 そしてそれを誤魔化すかのように、わざと大ぶりな動作で背後にいるだろうヨシくんを振り返った。


 ヨシくんは右肩に自分の通学カバンをひっかけて、左手にはわたしのカバンを持っている。


 目が合うと、途端に気まずげに視線をそらされた。


 あ、ヨシくんも同じ気持ちなんだ。


 そう思うとちょっとだけホッとした。


 あんなことをしたあとだから、責め立てられたらどうしようと思っていたのだ。


 けれども現実にはヨシくんも、己の行為を「失敗した」と感じているらしかった。


「カバン」


 そう言って左腕を突き出して、わたしにカバンを渡す。


 わたしはそれを受け取って「ありがと」とだけ返す。


 ヨシくんはそれに「ああ」とか「うん」みたいな、唸るような曖昧な言葉を発する。


 ハルちゃんがそれをどんな顔をして見ていたかは、わからない。


「ハルはなにしてんの?」

「先生と、ちょっと」

「あー……。怒られた?」

「いや、心配された。ていうかトーコにも聞かれたよ、それ」


 ハルちゃんを見れば、ハルちゃんはおかしそうに微笑んでいる。


 わたしはそれに、なんとなくバツの悪い思いをする。


 ちらりとヨシくんを見れば、ヨシくんもちょっと気まずそうな目をしていた。


「ヨシくんは? 今帰るとこ?」

「そうだけど」

「それじゃ三人で帰ろうか」

「なんか久しぶり……」

「ハルは最近忙しいからな」


 ハルちゃんを挟んでわたしたちは歩き出す。


 けれどもハルちゃんがいても、ヨシくんに対する気まずさはまぎれなくて、なんだかぎこちない会話が続いた。


 ヨシくんもわたしに気まずさを感じているのは同じのようだった。


 ハルちゃんはちょっと不思議そうな顔をしたけれど、その場では決して理由を問いただしたりはしてこなかった。


「あのさ。トーコの家、行ってもいい?」


 ヨシくんと駅前で別れたあと、電車を待ちながら隣にいるハルちゃんと話す。


 そうしていたときに、いつものよくある感じの、軽い流れでハルちゃんがそう切りだしてきた。


「え? 急だね。別にいいけど、どうしたの?」

「うーん……」


 いつも明瞭な返事をするハルちゃんにしては珍しく、言葉を濁される。


「トーコの家に着いたら話すよ」

「……わかった」


 いつもと違うハルちゃんに不可解なものを感じつつ、結局はハルちゃんの頼みなのでわたしは受け入れた。

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