(7)

 文化祭の準備の間は登校していたハルちゃんは、中間考査を前にするとまた忙しくなったようだ。


 ハルちゃんはもともとの地頭がいいし、勉強もできるから大丈夫だろうと思いつつ、心配になってしまう。


 が、実際に心配するべきは自分の方だろうということは、よくわかっている。


 勉強ができないわけではないけれど、まったく勉強せずにテストで点を取るなんて夢のまた夢。それがごくごく平凡なわたしの現実だった。


「お前んち行ってもいい?」

「はあ? いきなりなに?」


 掃除の時間。急にヨシくんに話しかけられたわたしは、おどろいて思わずつっけんどんな言い方をしてしまう。


 ちなみにハルちゃんは今日は欠席だ。なんでいないのかまではわたしは知らない。そのことに気づいて、ちょっと落ち込む。


「いや、いっしょに勉強でもしてやろうかと思って」

「上から目線~?」

「えー? お前勉強できるの?」

「できるわけじゃないけど……別に悪くもないし……」

「じゃあいーじゃん。家がダメなら図書館とかどう?」

「なんでわたし?」

「なんとなく」

「はー?」


 正直に言って、ヨシくんとふたりきりになるのは気まずかった。


 よもや例のキス事件をヨシくんが忘却してしまっているはずもない。


 そしてヨシくんがわたしに恋心を抱いているわけでもないということもまた、わかっていた。


 じゃあ、あのキスはいったいなんだったんだと、もやもやしてしまうわけで……。


 そしてこういうときに限ってマコちゃんが顔を出してくる。


「あらあら? ふたりとも随分と仲よくなってんじゃーん」

「違うって」

「まあね」

「ちょっと」


 ヨシくんと仲がいいことをなんとなく否定したくてマコちゃんに返したのに、当のヨシくんはひょうひょうとした様子で肯定してしまう。


 それがまた「マジ」っぽくてわたしはあせった。


 茶化すように言ってくれればマコちゃんだってわかってくれるのに、「まあね」なんて、ほんと「マジ」っぽい。


「仲良くなんてないし!」

「別にそんな否定しなくてもいいじゃない。仲よきことはよきかな~」

「そうそう。仲よくしようぜ?」

「しない!」


 多勢に無勢とはこのことだ。


 マコちゃんとヨシくんの波状攻撃に耐えかねて、わたしは子供っぽくぷいとそっぽを向いた。


「ありゃりゃ。やりすぎたかな?」


 わたしの背中の向こう側でマコちゃんはそんなことを言っているけれど、反省していないことは声音でわかる。


 わたしはますますそちらの方を向くのがイヤになったので、無言で手にあるホウキを動かした。


「なあ」


 耳元でささやかれたので、わたしの肩が跳ねた。


 いつの間にやらヨシくんがわたしのすぐそばに立っていた。


 わたしよりずっと背の高いヨシくん。恐らくは、じゃっかん身をかがめてわたしの耳元に口を寄せている。


 そんな状態を想像すると、なんだかわたしはひどく恥かしくなった。


「なに」


 顔には笑みなんて浮かべず、できるだけつっけんどんに響くように、わたしは言葉を返す。


 振り返った先には、存外近くにヨシくんの顔があって、二度びっくりする。


 近い近い!


 心の中でそう叫ぶが、もちろん表には出さない。


「家、ダメ?」

「え? まだその話するんだ?」

「だって返事聞いてないし」

「イヤだって言ったら?」

「えー?」


 ヨシくんは困ったように笑ったあと、「傷つく」とだけ言った。


「豆腐メンタル」

「そうだよ。オレ、メンタル弱いの。だからさ、いっしょに遊ぼ?」

「なんで勉強するのが遊ぶのに変わってるの。……勉強だったらいいよ。『勉強』だったら!」


 ヨシくんの困ったような笑みを見ると、なぜか心がかき乱された。


 ヨシくんの「傷つく」という言葉を聞いたら、なぜかわたしがちょっとだけ傷ついた。


 どうしてか、なんてわからない。


 ヨシくんにキスされたときと同じような心境になって、あるいはハルちゃんがヨシくんを「ちょっとウザい」と言ったときのような気持ちになって、わたしは思わずヨシくんの提案を受け入れてしまった。


 ヨシくんはわたしの言葉を聞いたあと、目をぱちくりとさせる。


 そして次第に、早回しで花が開くように、ぱあっと笑顔を見せる。


 その笑顔が存外、無邪気に映って、わたしの心臓は小さく跳ねた。


 そして背筋を「優越感」みたいなものが駆けて行くのを感じた。


 自分の言葉で右往左往するヨシくんを見ていると、なぜだか体がゾクゾクとする。なぜだかはわからない。わからないけど、イヤな感覚ではなかった。


「え? マジで?」

「冗談だったの?」

「いやいや、違う違う。『いい』って言ってもらえると思わなくて……」

「あんなにしつこかったのに?!」


 ヨシくんと意図せず親しげに話をしていると、マコちゃんがまたホウキ片手につつーっと近寄ってくる。


「蔦原くんと付き合うことになったの?」

「またそーいうこと言う……」

「いや、マジなところどうなのよ?」


 そう言いながらマコちゃんの顔はニヤついている。


 からかわれていることは明白だ。


「茨目くんはどーしたのよ? 不倫?」

「なんで不倫?」

「茨目くんはダンナでしょ」

「違うって! もう!」


 そうこうしているうちに掃除の時間が終わってしまう。


 あわただしく掃除用具を片づけていると、なぜかそのうしろをヨシくんがついて回る。カルガモの子供みたいだ。


「なんでついてくるの?」

「待ってるんだよ。お前んち知らないからいっしょに行こうと思って」

「わたしの家なんだ」

「ダメなら図書館でいいけど」

「……まあ、わたしんちでいいよ。どうせだれもいないし」

「え?」


 わたしの言葉を聞いたヨシくんが、なぜかひどくおどろいたような顔をして固まった。


 わたしは理由がわからずに、不思議そうな目でヨシくんを見る。


「共働きだから親はいないよ」

「一人っ子なんだ?」

「そう。ヨシくんは?」

「オレは兄貴がいるけど……」

「なんか意外」

「なんでだよ! ……そうじゃなくてさー」

「なに?」


 わたしはヨシくんがもじもじとしている理由がさっぱりわからなくて、思わず語気を強めて問いただす。


 言うならハッキリ言えばいいのに。ヨシくんだって迂遠な態度は好まないタイプのはずだ。


 けれどもヨシくんはなぜか結局、もじもじしている理由は言わなかった。


「やっぱり……いい。わかんないならいいよ、うん」


 と、ひじょーに気になる言い方をして話を切ってしまったのだった。


 そして電車を乗り継いでわたしの家にやってきて、わたしの部屋に入って、本棚に差してある少女漫画の背表紙が目に入った瞬間、なぜあんなにもヨシくんがもじもじしていたのか――その理由を察した。


「家にだれもいない」=「ふたりっきり」。それは学生が主人公の恋愛漫画じゃある種、お約束のセリフ。


 でもでも、こういうのは恋人同士だからこそ出てくる発想だろう!


 わたしは自分にそう言い聞かせて、にわかにただよい始めた気まずさみたいなものを振り払おうとした。


 そして今になってやっと意味がわかったわたしに対して、ヨシくんはと言えば傍目に見れば普通。リラックスしているようにも見える。さっきまでのもじもじはなんだったんだ、というくらいに。


 わたしはそんなヨシくんとの食い違いにじゃっかんイラッとした。身勝手だというのはわかっているが、そう思わずにはいられなかった。


 そうして我が家はジュースなんてものは常備していない家庭なので、麦茶をお出しして勉強スタート……したのはいいのだが。


「ハルんちってどこ?」

「向かい」

「へー。あ、ここから見えるんだ」

「……勉強しにきたんじゃないの?」

「口実口実」

「おい」


 結局一番はハルちゃんかい。わたしは心の中でヨシくんにそう突っ込む。


 それと同時に恋愛漫画のお約束にハマっていると一瞬でも考えた自分をバカバカしく思った。


「ハル、テスト大丈夫かな?」

「ハルちゃんよりあんたの方が心配だよ」


 わたしは仕方なくノートへ視線を落として、ひとり問題を解き始める。


 ヨシくんの方からはノートに書き込みをする音はしてこない。


 まさか、まったく勉強しないまま終わるつもりじゃないだろうなとわたしは疑念を抱き始める。


 ハルちゃんだったらこんなことはないのに。


 今いない人間のことを考えても仕方のないことだとは思いつつも、そんなことを頭に浮かべてしまう。


 ふとヨシくんが黙り込んでいることに気づいて、わたしは顔を上げた。


 ヨシくんの顔が存外と近くにあり、びっくりして固まってしまう。


 そんなわたしの唇を盗むように、さっとヨシくんの唇が重なる。


 ほんのちょっと、一瞬だけ触れるキス。


 呆然とするわたしに向かって、ヨシくんはまるで先回りでもするかのように、「そういう顔、してた」とのたまう。


「……はあ?」


 意味がわからなくて、わたしは品があるとは言えない声を発する。


 本当に意味がわからなかった。


 そういう顔って、なに。


 そういう顔してたからって、キスするもんなの?


 疑問はあとからあとから湧いて出てくるけれど、なぜか明確な言葉にできず、わたしはつばを飲み込む。


「ハルとはこういうこと、したことないの?」

「……するわけないじゃん。わかってるでしょ?」

「へー……意外」

「意外でもなんでもないし。っていうか、なに、今の」

「イヤだった?」


 あっけらかんと言ってのけるヨシくんに、わたしはまた言葉に詰まる。


 イヤではなかった。


 ヨシくんになにをされたのか理解した今でも、嫌悪にまみれてすぐにでも死にたくなるような、そんな気分にはならなかった。


 けれどもその事実をわたしは受け入れられない。


 そんなのまるで、ヨシくんに対して好意を抱いているかのようではないか。


「……そんな関係じゃないじゃん。わたしたち」

「そう?」

「恋人じゃないし」

「恋人じゃなくてもキスすることもあるでしょ」

「そーいうの詭弁って言うんだよ」

「そう? 別にまあそれでもいいけど」

「なんで」

「イヤじゃなかったんでしょ?」


 バレてる。


 ヨシくんにはわたしの答えなんてお見通しなんだ。


 そう考えるとわたしはますますなにも言えなくなって、口をつぐんでしまう。


「またキスしてもいい?」

「は、はあ?」

「トーコとさー……キスすると、なんていうか……ホッとするというかなんというか」

「……はあ?」

「……さみしくないっていうか」

「……わけわかんない」


 ヨシくんの顔を見る。


 目が合った途端、ヨシくんは困ったような笑みを浮かべる。


 今この場で一番困ってるのはわたしだっていうのに。


「ヨシくんはさみしいの? だからわたしにキスするの?」

「そうかも」

「なんで」

「最近ハル、忙しいし。オレ、家に居場所がないっていうかね……うん。まあ、そんな感じで。ハルに愚痴ったりしてたけど、今はほら、そんなことできないじゃん?」


 ヨシくんの突然の、告白とも取れる言葉にわたしはおどろいた。


 同時に、いつもひょうひょうとしているヨシくんの本心を、初めて聞いたような気になった。


「そんなの……」


 そんなこと、急に言われても困る。


 それがわたしの本音だった。


 けれども、困ったように笑うヨシくんが、いつもとは違うように見えて。


 なんだか、見捨てられなくて。


 彼の術中にハマっているかもしれないと思いつつ、わたしはそれ以上ヨシくんを責め立てることはできなかった。


「さみしいとか……わたしだって」


 わたしだって、ハルちゃんがいなくてさみしい。


 いつだってハルちゃんはわたしのそばにいたのに。それをだれかに盗られたような気になっている。


 ハルちゃんはだれのものでもないという、明白な事実を認識しながら、被害者のような気分になっている。


 なによりもそんな自分が、醜い自分が、一番イヤだった。


「……キスしてもいい?」

「……また?」

「うん。気がまぎれるよ?」

「わけわかんない」


 そう言いながら、どうしてかわからないけれど、わたしは目をつむった。


 唇にゆるりと湿り気のない、温かいものが当たる。


 それは一瞬ためらうように離れたあと、もう一度触れる。


 わたしの心臓はバクバクと音を立てていて、耳はどうにも熱くて、指先がなぜだかザワザワとした。


 けれども、イヤではなかった。


 たしかに気がまぎれる。


 ヨシくんとキスをしているあいだは、ヨシくんと、わたしだけの世界。


 そこにハルちゃんは、いない。

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