10.連絡

 翌朝、僕はまたしてもひどい二日酔いのような調子で目を覚ました。どうも目をつぶると頭の中で黒い塊がぐるぐると回って、気持ちが悪い。

 僕を起こしたのは小夜子からの電話だった。


「昨日、出れなくてごめん」

『それはいいけど、大丈夫?』


 ああもう、何故みんな、揃いも揃って僕に大丈夫? と尋ねるんだ。


「うん……いや、兄貴が実印持ち出しちゃって、こっぴどく叱ったりとか……いろいろあって、ちょっと疲れた」

『信ちゃんが、実印を? なんで?』


 小夜子は、兄貴のことを信ちゃんと呼ぶ。


「わからない。……あと、それだけじゃなくてさ、兄貴、俺の知らない間にバイトをはじめてたんだ。アイス工場でさ。大家の紹介つってたかな。ここのところいろいろあったけれど、少しは浅場家の危機を自覚してくれていたみたい」

『そう』

「それで、小夜子は、なんでそんなにつっけんどんなんだ? 俺また何かやった?」


 僕は、小夜子のつれない態度がずっと気になっていた。

 早めにフォローしないと、後で怖いことになる。

 小夜子は、しばらく押し黙った。

 僕はどんな気まぐれな問題なり注文なりが出てくるのかと、ちょっと内心ビクビクしていた。しかし、答えは意外なものだった。


『あたしたち、もうとっくに別れているよね?』

「えっ?」

『それに、勝は大学院生じゃなくて、就職していたはずだよね? もっとも、会社はやめたけど』


 いったい何を言っているんだ?


『なのにさ、こないだ急に大学にあらわれて話しかけられたから、びっくりしたんだよ』

「ちょっと待って、何を言われているのか良くわからない」

『勝は、ご両親の事故のあとで、ふさぎがちになって、いろいろ荒れちゃってさ、それで、お互いしんどいからって、あたしたち別れたの。覚えてない? 会社もやめたって、もうずいぶん前に、あなたが私に言ったんだよ』


 その時、どこかに押しやって、しまいこんでいた記憶が、僕の頭の中で黒い塊となって暴れだした。

 僕は、吐きそうになって、その場にへたりこんだ。


『ずっと連絡なかったのに、急に会いにきたから、ちょっと心配でさ』

「……なんでさ、おかしいだろ?……お前まで意味不明なこと言うなよ」


 少し吐いた。

 胃が空っぽだったから、胃液しか出なかった。苦しくて涙が出た。


『大丈夫?』


 大丈夫じゃねえよ。


「だ、大丈夫だよ」

『大丈夫なら……話を聞いてほしいんだけどさ、信ちゃん働いてるの、あたし知ってたよ。あたしが別れて、勝が会社をやめた後に、家を支えなきゃって働きに出たの、前におしえてくれた』

「どういうことだよ! そんな話しらない!」


 僕は、小夜子に対して初めて声を荒げた。

 いや――たぶん、小夜子に大声を出したのは、今が初めてじゃない。

 ついこないだ、彼女と付き合ってから初めて怒鳴り散らしたような気がする。

 それよりも、だ。

 あの兄貴が、家を支える?

 あのおかしな兄貴が?


『勝、聞いてる?』


 小夜子の声が携帯から漏れた。

 ついこないだ?

 僕はカレンダーを見た。

 それから、携帯の画面を見る。


「今日は……何月だ?」

『…? 九月だけど?』


 その日付は僕が今月だと思っていた日付よりも、三ヶ月近く異なっていた。


「……なあ、小夜子、別れる直前の俺は、結構おかしな事になっていたのか?」

『だいぶ……思い出したくないくらいに』


 僕は、吐き気を押し殺して、小夜子に続けて問いかける。


「もう一つ……兄貴がさ、権利書を持ち出したのが叔父夫婦だっていっていたんだけど、どう思う?」

『そういうこともあるかもね。……だって、その家に出入りできてモノの配置をしっているのは、あたしと勝と、信ちゃんと、それと叔父さんたちなんだから』


 小夜子じゃないという保証はない。

 けれど、僕の知る小夜子は、叔父夫婦以上にそんなことをするはずもない。

 僕は、押し黙った。


『勝、どうしたの?』

「ちょっと、気持ち悪くて……また電話してもいいか?」

『……まともな会話になるなら』


 そう言われて、僕は次もどうにか気をつけるよと、返事をして電話を切った。

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