4.彼女

 叔父夫婦が帰ったあとで、僕は大学に向かった――出席が減ったとはいえ、僕は未だ大学院生だ。

大学は、家の最寄りの駅から電車一本でアクセスできる。

この馴染みの路線にはちょっとした思い出があった。

大学のすぐ側には、兄貴のかかりつけの病院がある。

 そして、幼い頃から、群衆恐怖症の気があった兄貴は、電車内でよく吐きそうになって、途上にある眺めの良い駅で降りて、落ち着くまで外を眺めるのだ。

 もっとも、高校にあがるあたりから、兄貴は地元の病院へと通院先を変え、今では付きそう事も無くなってしまった。

 兄貴と、最後に一緒に電車に載ったのはいつだったろう? おそらく今も兄貴は、一人では電車に乗れないはずだ。

今後、兄貴は一人でやっていけるのだろうか?

 そんなことをぼんやりと思っていると、列車は大学のある駅に到着した。

 僕は、駅を出て大学の正門へと向かう。

 警備員にお辞儀をしてキャンバスを抜けると、ゼミ研究室のある棟へと向かった。

 しかし、研究室の入り口には「休み」の札がさがっており、鍵がかけられていた。


 ――今日は休み?


 想定が大いに狂ってしまったが仕方がない。ならば図書館にでも寄るか、あるいは学食で腹ごしらえをするか?

 僕はそんなことを考えながら、年季がはいって、ぺこぺことたわんだリノリウムの床を踏みしめ、廊下を進んだ。 

 その途上、小夜子に会った。


「え、勝?」


彼女は、僕と鉢合わせするなんて思ってもいなかったらしく、とても驚いた顔をしていた。

 僕は小夜子と付き合っている。

 彼女はちょっと気まぐれな娘で、研究室でやるべきことが立て込むと、連絡を断つことがしばしばあった。

 今日も案の定、言葉をかわした後で、彼女は、硬いヒールのパンプスをツカツカと鳴らして通り過ぎようとした。僕はため息をついて、彼女を呼び止める。


「小夜子、またいそがしいのか?」

「忙しいよ。何?」


 実にそっけない応対だ。

 ただ、僕の方にも特に用事はなかった。

話題なんて、今日の家のちらかり具合とか、近況とか、そんな話くらいしかない。

 一方の小夜子は、呼び止められて不機嫌であることが、ヒシヒシと伝わってきた。


「特に用はないんだけどさ、最近の事とか話そうかなーって。夜にでも」

「なんで?」


 なんでって言われても、ねえ?


「ちょっとした話しも出来ないくらい、僕らは冷え切ってしまったのかい?」


 我ながら、うすら寒い言い方だと思った。


「それさ、本っ気で言ってんの?」


 鋭い口調で言葉が返ってきた。


「本気も本気。だからさ、今晩あたり、どうぞ彼氏の他愛もないお話にお付き合いくださいな」


 すると彼女は、再び驚いたように目を見開いて、しばらく考え込んだあとで口を開いた。


「わかった、でも今晩はちょっとわからない。いろいろ片付いたら連絡する。それでいい?」

「……もちろん、いいよ」


 まったくもって、きまぐれな女子だと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る