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 若干ながら乙女趣味に染まった事務所で少女と共に働いて数か月が経過した。


 学校では修学旅行の話が出ているそうだが、同時に少女の学費問題という大きな話も浮上していた。これまでは生活保護のひとつとして教育扶助という金が下りていたので問題はなかったのだが、肝心の受け取る側である父親が最近になって生活保護を打ち切られたのだ。


 生活保護の打ち切りにはいくつか条件があるが、少女の父親はどうにも受け取る側でありながら与える側の指導に逆らうようなことばかり言っていたらしい。生活保護制度は不正すれすれの受給が減らない半面、本当に必要な人間に行き届かせるために福祉事務所は締め付けを強化している時代だ。役所としては妥当な結果と言わざるを得ない。


 少女は相変わらず笑顔でいるが、その笑顔の裏にはこういった未来が来ることを覚悟していた、という意味を含んでいる。いくらお人好しの彼女でも、父親が客観的に見てどういう人間かくらいは察している。少し寂しそうに、まだ家にいるかなぁ、と漏らす彼女の横顔がやけに目に焼き付く。


 まだ家にいるか――その答えは、後で訪れた彼女の父親の賃貸住宅の部屋で出た。金目の品、個人が特定出来るものが全てなくなった、もぬけの殻の部屋。蒸発だ。大家は俺に言われて初めていない事に気付いたらしく、もしかしたら数日前には既にいなかったのかもしれないとの事だ。彼女の私物だけが――金になる品を除いて――全て残してあったことが、余計にあの男が何を優先していたのかを如実に表している気がした。


 大家と話し合って警察への相談を決め、そのまま少女の通う学校に電話をかける。内容は言わずもがな、彼女の父親とその荷物が失せていたという話だ。電話に対応した教師は、話を聞くなり深いため息を吐きながら小さく呻いた。


 少女の父親は既に2か月も学費を滞納している。

 彼や亡くなった彼の妻の親族も少し前に当たってみたが、金を払う事を良しとしないばかりか、生まれた子供の存在すら認めないとばかりの対応だった。彼らの過去など探る気はないが、時代錯誤の家長制を掲げる厳格な老人の怒り具合からして拗れた事情があることだけは察した。それでも彼の家には、最後まで学費捻出の為に動いていたという事実は残された補助金等の資料があった。逃げたとはいえ、何も考えていなかった訳ではないのだろう。それでも、彼が自分の娘に残したのは家賃の未払金を含めた負債だけだった。


 少女には、その話を伝えた。

 少女は、父が迷惑をかけて申し訳ございません、と頭を下げて謝罪した。目の前の少女には、合計で1000万円に届こうかという負債の山が圧し掛かっている。その半分以上が、この会社から貸した金だ。長く金貸しをやっているが、客となる相手になんと声をかければいいか分からなかったのは初めての経験だった。


 修学旅行を前にして大変な事になったな、というと、少女は静かに首を横に振る。

 少女は最初から、修学旅行に行くために必要なお金は節約して貯金したかったので、最初から断っていたのだという。青春の最後の、学生が贅沢出来て一生の思い出となるイベントを、自らの意志で諦めていたようだった。友達から援助しようという話も出たが、彼女はそれを丁重に断っていた。


 理由は、既に父親が同情を誘うような手で散々周囲からお金を集めていたことを知っていて、周囲が更に父へ不信感を募らせるであろう事を察していたから。父親のせいであり、父親の為。しかしその気遣いも泡のように消え去った。


 事務所の営業時間が終わり、少女は荷物を纏めて明るい顔で帰路に就いた。

 誰も待っていない部屋に向って、微かに震える肩を隠し切れずに。

 結局、その背中にかけるための気の利いた言葉を思いつかず、少女は夜の闇に消えていった。



 ◇ ◇



 事務所の椅子に座りながら、思う。今日は少女が来るのが遅いな、と。

 今日は土曜の休日であるため、もっと早く来ていても可笑しくはないのだが、昼に差し掛かろうと言うのに彼女の席はがらんどうだ。


 もしかしたら嘗ての社長がふらりといなくなった時のように、あの少女もふらりと行方を眩ませてしまうのではないだろうか、と思う。既に彼女にはどこかに逃げたくなるだけの重荷が背負わされている。これ以上、いつ自身に無茶な要求を突き付けてくるような借金取りの下で働きたいとは思わないだろう。自分ならば思わない。


 だが、あの少女は思うかもしれない。数か月という決して短くはない時間を過ごして、また無理した笑みを張り付けて空元気の少女がアルバイト席にのこのこやってくるのではないかという漠然とした予感は抱いた。あの子は、借金から逃げるタイプではない。自分に関係あるものは目に付いたものから背負って、背負って、背負って――背負いきれずに圧し潰されて、首を吊るタイプだ。


 はっとした。その可能性を失念していた。

 自殺大国などと揶揄されるこの国に生きる年頃の若者が、一番信じていた相手に裏切られて頼れる身内もいないのに借金を背負わされるという重荷は、その最悪の想像をさせるだけの説得力を以てして圧し掛かってきた。

 思わずありあわせの物と纏めて車の鍵を掴んで事務所を飛び出す。

 法定速度ぎりぎりの速度で車を飛ばし、彼女のいた賃貸住宅に向かう。


 果たして、その家の中に彼女はいた。

 首は吊っていない。リストカットもしていない。

 しかし、彼女は床に倒れ伏して荒い息を吐き、その顔は高熱を思わせる赤みがかった肌色だった。彼女の許容できるストレスの限界を超えた結果、体調を崩したのだろう。彼女を連れ、病院へといく。生憎と彼女の保険証が発見できなかったためになかなかの金額を取られたが、単なる風邪であろうとの診断が出た。


 彼女は自分が病院に連れられていることは辛うじて認識していたのか、ありがとう、ごめんなさいと消え入るような声で時々呟いていたが、とにかく摂氏39度に届こうかという熱のせいで意識がぼんやりしていた。解熱剤の処方と点滴の為にベッドに寝かせられて規則的な寝息を立てる彼女を見守り、ため息をつく。


 結果的には予想は外れたが、今度は彼女が本当に一人なのだという事を思い知らされる。

 あんな父親がいた家だ。友達など呼んだこともあるまいし、下手をすれば場所すら教えていまい。最悪、彼女は翌々日の月曜日まで家で倒れたままだったかもしれない。そう考えるとぞっとした。これ以上彼女を一人で置いておくわけにはいかない。今まではあの部屋は引き続き彼女に使わせるつもりだったが、考えを改める必要があった。


 ふと、解熱剤を飲んですぐに眠りについていた少女の目が開く。目を覚まして最初に口にした言葉は、お父さん、だった。もちろん蒸発した父親はここにはいないし、置き去りにした娘が倒れたことも知らないだろう。それは、そうあって欲しいという彼女のほんの小さな我儘、或いは願望。言葉を口にしてすぐ、彼女は目の前にいるのが見慣れた金貸しの男であることに気付き、一瞬だけ悲しそうな顔をした。でもすぐに笑顔に戻った少女は、おはようございます、とご丁寧に挨拶した。


 改めて確信する。この娘を一人でいさせるわけにはいかない。

 自分には構わず事務所に戻るよう告げる少女に、でこピンを一発。額を抑えて目を白黒させる少女の頭に手を置いて犬の頭をそうするようにわしゃわしゃと撫でて、大人を馬鹿にするんじゃない、と言った。少女は暫く為されるがままに撫でられながら茫然とし、やがて、つぅ、と一筋の涙を流した。少女の手が安物のスーツの襟を掴み、少女は息を押し殺しながら泣き続けた。


 泣きたい時には泣いた方がいい。

 寂しい時は寂しがった方がいい。

 それが出来るうちは、君はまだ若いのだから。

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