7:それは遠い炎の行方(2)
方向も見定められぬ闇の中を進むのには慣れている。それが盗賊というものだ。
己に有利な場所を求めて気配を消し、極限まで這いつくばった姿勢ででも移動する。それが猟師の基本というものだ。
――メイスを壊せとか、いったいどうやれってんだ!
ベアルの居る方向。距離。それは把握している。壊すのも、きっと紅玉を砕けばいいのだろう。
方法を言うなら簡単なことだ。すぐさま仰向けになり、矢を射ればいい。
だがあの男の目の前には、シャルが居る。それを知っていて、その手段を採れる筈がなかった。
するともう、ナイフで直接切りつけるしかなかろう。砕くことが出来ずとも、メイスから外すことは可能だ。
闇雲に周囲を蹴りつける武闘神官を、避けて進む。行って、戻って、迂回して。想定以上に道のりは遠い。
そうするうち、急激に冷えていく地面に気付いた。ついさっきまで、温かいとも冷たいとも感じなかったのに。
すこし顔を上げると、クレフが紛れている黒い雲の上に、白い霧が乗っている。
それほど濃くはないが、とても冷たかった。雪の降りしきる真冬でも、これほど冷えるのは珍しい。
不思議なことに、霧の外は真っ黒だ。
真っ暗ではなく、黒い。その色を塗ったように。魔神たちの姿も、足音も見えなくなっている。
「さあ来たぞ。うぬらの言う、叶える者じゃ」
「おお、これが!」
目を見張るベアルの頰に霜が降り、嘆息も凍って落ちた。
その眼前に、巨大な鏡が現れる。噴き出すように冷気を放ち、そこに居る男女を鈍く写す。
いや、それは氷だ。中央が縦に割れて、開いていく。リプルルに繋がる、氷の扉であるらしい。
「突き通る声を望んだのは、お前か」
その声も、氷なのかと思った。凍てついて、至極硬い男の声。
「そ、そうだ! 何者も私の言葉に――」
「やかましい、黙れ」
まだ姿は見えない。しかし声は近付いている。それにつれて、身体の震えも増していく。
――凍えちまう!
「まあ構わん。お前の声は、俺に届いた。誰よりも強くな。いや正確には、そっちの女のか。どちらでもいいが、大きな声だった」
「ならば、望みを!」
「やかましいと言っているだろうが、喋るな。会えば気に食わん男だが、これも決まりだ。叶えてやる」
すぐそこまで迫っていた足音が止まる。代わりに空を切る音がして、腕が伸びた。海が凍って動いているごとく、美しい碧色の太い腕が。
それはベアルの首を掴み、息を詰まらせた。「ぐぇっ」と潰れた彼の声も痛々しい。
「待て!」
小さな身体のどこに、そんな音量を溜めていたのか。いまこの空間を支配する冷気を、ミラの声が切り裂いた。
碧い腕もぴくりと反応を示し、奥から「うん?」と漏れた。
「誰かと思えば。お前、そんなところで何をしている」
「話せば長い。とりあえず今は、うぬを謀ろうとする馬鹿者を教えてやろうと思うての」
「なに?」
氷で臼を作ったなら、そう鳴るのかもしれない。問い返しは苛とした感情を隠すつもりもないようだった。
「よう見てみるがいい。そこに人間の拵えた、くだらん道具がある。それが種よ」
ミラの言葉が嘘か真か、確かめたに違いない。少しの間が空いて、また空気が冷えた。
「――ほう。お前、俺を騙したのか。いい度胸をしているな」
「いや待て」
ベアルは声の出せる状態でなく、言い逃れも出来ない。
だが彼にとっては、それで良かったとも言える。何か言えば、碧い腕はその首を圧し折っただろう。
若しくは静止させるミラの声が、あとほんの一瞬を遅れたとしても。
「儂もそやつには腹を立てておってな。どうじゃ、儂に任せてはくれんか」
「チッ。お前が俺に頼みなどと、気色が悪い。断れる筈もないだろうが」
「悪いの。また次に会ったときにでも、顛末は教えてやろう」
碧い腕は不承不承という空気を存分に見せつつ、引いていった。最後にもう一度、大きな舌打ちを置き土産に。
「儂らにも仕事があってな。交代したのがあれじゃ。それを儂の見ておる前で、詐欺に遭っては申しわけが立たん。悪う思うなよ」
霧が引いていく。囲っていた黒も。
松明に照らされる元の景色が戻り、クレフの潜んでいた靄も晴れていく。
だがベアルや武闘神官の視界には、もう映らない筈だ。
ミラと碧い腕との対話に驚いて、動けなかった。だが元々の暗さまで失われたわけではない。それを利用するのも、盗賊の技術だ。
「おとなしくしてもらおうか」
「――貴様、いつの間に!」
人の視覚。見えているものが、必ず正しいとは限らない。
真っ黒で人の形をして、地べたに張り付いているのが影だとは限らない。クレフは靄の中で、炭を溶かした汁をかぶっていた。
ベアルの背中で立ち上がると、首を抱えるようにナイフを突きつける。
「そのメイス、小細工に使えると聞いたんでな。渡してもらおうか」
くうっ、と悔しげな声が漏れる。武闘神官たちも一層に殺気立つが、この密着した状況をどうすることも出来はしない。
空いた左手にメイスを受け取り、足下に落とした。狙って踏みつけると、紅玉が外れて転がる。それを思いきり蹴飛ばし、遥か彼方の闇の中へと消えた。
「さてさて、嘘を暴く一人目じゃが――アガーテ!」
「はい、母さま!」
「その壺を儂に寄こせ!」
少女はシャルを、アガーテと呼んだ。四百三十年も前に死んだ筈の、聖女の名で。
彼女もまたそれに答え、言われた通りに壺を投げた。それが事実なら、聖女が母と呼ぶのは誰か。
少女は因果喰いを両手に掴むと、そこに激しい炎を生む。最初は耐えていたそれもやがて歪み、形をなくしていく。
壺を溶かした炎は黄金の色に燃え盛り、少女はうまそうにそれを飲み干す。
「意外にも、なかなかの美味じゃった」
エールを一気に呷ったように、「ぷはぁ」と口許が拭われた。
それに使われた腕は、もう少女のものでない。そのか細さを残したまま伸びて、成人のそれとなっていく。
「そして二人目は、この儂じゃ」
朱の色だった長い髪に光が増し、もはや炎そのものに見える。
神々しささえ感じる『誰か』は、挑みかかる笑みで告げた。
「儂の名は、アマルティアという」
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