6:因果の運び手(4)
茜色に艶めく刃が振り上げられる。それは道化ているかと思うほど、
死の瞬間には、時の流れが凝縮されるという。動くもの。景色の移り変わりが遅く感じると。
――ああ。死ぬってのは、意外と痛くも痒くもねえもんだ。これであいつらと会えるなら、悪くないのかもしれねぇ。
などとさえ、考える猶予があった。
しかしそれは、クレフの命が燃え尽きる。その顕れでない。
ゆっくりではあっても、くっきり明確に見えていた視界が歪んでいく。清流と汚泥が入り混じり、渦を巻くように。
その様子には見覚えがあった。つい最近。いやさそれどころではないほど至近に、似た光景を見ている。
クレフが握った布袋の中で、因果の黒い液体と、大銀貨の溶けた色が混ざっていった。
それと同じ、であるのは当然だ。ようやくそれを理解した。
――オレが……オレの身体が、壺に飲まれている!?
「助けてくれ!」
叫んだつもりだが己の耳にさえ、ごぼごぼとあぶくを立てたようにしか聞こえなかった。
急流どころか、落ちてゆく滝を遡ろうとしている気分だ。腕を、脚を、必死に足掻いても落下は止まらない。
――もう、無理だ……。
意識が消えようとしていた。もはやどこまでが自分の身体かさえ、感覚があやふやだ。
闇に一体となり、覗いた先に海が見えた。暗い、夜の海だ。
島ひとつさえ、陸地は見えない。緩くうねる水面が、遠く、遠く、どこまでも続く。
天も
そこへ落ちる滝。即ちクレフの真下に、巨大な人の形をしたものが口を開けている。ひとつの大陸でさえ受け入れそうなその穴に、滝は注がれる。
――あいつに食われるんだな。
それはもう、想いではなかった。微かに残った意識に、決められた事実として誰かに告げられたような。もはや考えることなど、出来ないらしい。
目も、耳も、鼻もない。ただ口を開け、因果の流れを飲み込む巨人。流れから弾けた雫の一滴さえも、腕を伸ばして口内へと導く。
見るべき目を閉じ。聞くべき耳も、鼻も塞ぎ。与えられる恩恵だけは、逃さず喰らおうとする。
それはまるで、人間そのものだ。
クレフはたしかにそう感じ、そう思った。
「嫌だ! あんな奴に食われるのは嫌だ! オレは生きたい! オレはあいつらの為に。オレなんかが出来る、何かをする為に! オレは生きて、生きて、生きなきゃいけねえんだ!」
叫ぶ。
その言葉は、勝手に溢れた。しかしどこも違うとは思わない。寸分の違いなく、クレフの想いそのものだった。
だがこんな、どことも知れぬ場所に誰が助けてくれようか。あの不思議な少女にしたところで、見回しても姿は見えない。
――諦めるしかねえのか……?
助けてくれる誰かを、みっともなく探した。けれどもそんな当ては数少ない。クレフが親密にした人物など、片手の指でも余る。
『トマス、教えた筈だ。呼吸を乱すな。人は何も支配など出来ない。己自身でさえな』
太陽にも勝る熱さを備えた、静かな声。懐かしい声。もう二度と、聞くことのない声。
「
それがクレフの心を落ち着かせた。同時に
炎の舌は細く伸び、黒い滝からクレフを分かつ。太く伸びた炎は父の腕に、それがそのまま翼に。
黒い巨人の腕が伸びる。宙に留まったクレフを目がけ、喰らわせろと手を握りこむ。
『トマス。あの女を、許してやってくれ』
――あの女?
自身を取り巻く父の気配が、一箇所に集まった。それはクレフの身体から離れ、巨人へと向かう。
首から提げた紐さえ残さず、金貨は飛び去った。その瞬間、小さな子どもたちの笑う声がしたのは、気のせいだろうか。
金貨を得た手は口元へと動き、また逃亡者を探して動き始める。
――親父! 親父!
父の声は、もう聞こえない。
その意味を考える間など、与えてはもらえなかった。先ほどの再現を見るように、また巨大な手が掴みかかる。
「クソオヤジぃっ!」
黒い海と黒い巨人しか存在しない世界に、その声は響かない。誰にもその声が、届きはしない。
ただ、それとはおそらく関係なく、天が割れる。太陽が落ちてきたかと思うほど、轟々と燃え盛る炎によって。
炎は刃の形をしていた。天を砕き、宙を裂き、クレフと巨人との間を貫く。
友が助けてくれたのだ。そうと察した途端、ぐるんと視界が回った。
今度はどんな光景が見えるのか、予想はつく。
「うぬ、気は確かか? 迎え打つぞ!」
やはりそうだ。
とても広いが、暗い洞窟の中。目を疑うほどの美しい少女が左手に剣を構え、右手をこちらに向けてくれる。
力をこめて、握り返した。寝転んでいる暇はない。
魔神戦争の英雄とその仲間たち。彼らが拳を振り下ろすのは、クレフとミラの二人になのだ。
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