第六章:因果の運び手

6:因果の運び手(1)

 『深きところ』に広がる、大迷宮。その最下層に小さな壺を持ち上げようとする格好の、二本の腕があった。

 それは周囲の岩と同じ色をして、直立する壁から生えている。

 祭壇と聞いていたが、あるのはそれだけだ。下りてきた階段との間に隔てる物は何もなく、周囲を見回してもやはり視界を遮る物はない。高い天井と地面が平行に、ただただ果てしなく伸びる。


「クレフさん、ここへ」


 シャルは持参した壺を両手に持ち、クレフを呼んだ。それは元々あったほうの壺の真上で、中身を垂らして、移し替えようとでもいうのだろうか。

 さあ、と。ベアルが背中を押す。

 何やら嫌な予感に、腰の引けていたクレフは一歩よろめいた。

 ここで行う何かの為に、自分の命が失われる。そう聞いていれば、そんなことも仕方あるまい。

 死ぬのは怖い。

 痛みや苦しみがあるのだろうか。死後について様々な逸話はあるが、どれが本当なのか。地獄とやらは、なるべく勘弁してもらいたい。

 しかし、それだけではない気がした。

 砦で得た違和感は何だったのか、未だ分からない。その正体――いや、もっと複雑な意図がそこにあるように思う。

 シャルの立つそこが、人間の踏み入ってはならない場所に思えてならない。


「面白そうじゃ。やってみようではないか」

「はっ――?」


 けらけらと笑いながら、ミラの小さな手が腕を引く。シャルの下まで二十歩ほど。決心のつかないクレフを、強い力で強引に運んだ。


「連れてきたぞ。次は何をする?」

「――お預けしている、大銀貨の袋を」

「大銀貨?」


 路銀に渡された筈が、一枚も使わなかった大銀貨。出せと言うので腰から外し、袋の口を開いてみせる。

 液体の入っているらしい二つの壺。たくさんの大銀貨を入れた布袋。これでどうやって死ねというのか、撲殺くらいしか思いつかない。

 壺の中身が毒という可能性もあるが、それなら大銀貨の意味は何か。


「シャル?」


 待っていても次の言葉はなく、動作もない。逃げ出したくとも逃げる場所も手段もないクレフにとって、この意味の分からない時間がこの上なく苦痛だった。

 しかし呼んでも、シャルは答えない。目をぎゅっと閉じて、肩を小さく震わせている。

 その振動は当然に手の中の壺を揺らして、並々と入った中身がこぼれそうだ。

 ――というか、どうしてこぼれない?

 松明の明かりだけでは、液体の色はよく分からない。しかしどう見ても、壺の口に留まれる傾きではない。あの分なら、きっと逆さにしても液体は出てこないだろう。まるで見えない透明な蓋でもしてあるように。


「シリンガ司祭。時間の制限はないが、迷う必要も認めないな。早くしたまえ」


 制限はないと言いつつ、ベアルが急かす。上層で上位魔神と戦ったときのように、緊張感を持った声だ。

 何かと周囲を見回して、クレフは息を詰まらせる。

 つい先ほどまで、延々と闇だけが続く景色だった。しかし今や、無数の炎に埋め尽くされた。

 ほとんどは青。けれど赤い炎も、十や二十ではない。たった二体の上位魔神に壊滅を感じるなど、問題にもならない数だ。

 ただしなぜか、彼らは一定の距離から近付いてこない。クレフの位置を中心に、ぐるりと遠くで円を描いてこちらを注視する。


「シャル。何か目的があって、ここまで来たのじゃろうが。何をするものか、儂は見てみたい。遠慮することなく、やってみれば良い」


 ――何を呑気に、好奇心を発揮してくれやがる。

 進めさせようとするミラへ、正直に抱いた気持ちはそうだ。だが目を合わせた少女は、任せておけとばかりに口角を上げて見せる。


「わたしは……」


 ようやくシャルの声が戻った。いつになく細く震えて、潤んだ瞳はミラにでなく、クレフに向いた。


「案ずるな。これまで何度もしてきたのじゃろう? それと同じことをすれば良い。うぬが信じたことをな」

「わたしは、信じています。きっとこうすれば、また母さまに会えると。そうすれば、わたしの戦いも終わりが見えると」

「ならばやってみよ。それがまことか誤りか、儂が見極めてやる。信じて誤ったなら、うぬの母も怒りはせん」


 ――シャルの母親?

 何のことだか、さっぱり分からない。その人物が怒るか怒らないか。シャルと会うか否かで、魔神がどうかするのだろうか。

 のけ者のクレフをよそに、シャルは頷く。やりたくはないが覚悟を決めたと、そんな様子で。


「お、おい。オレは――」

「うるさい、黙って見ておれ」


 どうもシャルと比べて、扱いが悪い。かかっているのは、こちらの命なのだが。

 けれども自身も黙って見守る少女の姿は、クレフにも安堵の気持ちを与えた。今までと何が違うでなく、十歳過ぎくらいの子どもとしか見えないミラ。

 肩へ剣を担いで、劇の開演でも待つような表情に、ざわめく胸が静まっていった。


「では、始めます。クレフさん、袋をこの下へ」

「ん、ここか」


 上にはシャルの持つ壺。下には岩の腕が触れる壺。その間に、クレフの持つ大銀貨の袋を差し出した。

 そこで動かさないようシャルは言って、クレフには意味を知れぬ言葉。神聖語を発し始める。


「――清浄の衣ヴェスティ・フーラ


 やがて奇跡は完成した。それはクレフの目にも明らかだ。シャルの身体に、薄く光る衣が纏われたように見える。

 彼女は微かに震えの残る手を伸ばし、布袋から大銀貨を一枚取った。

 それを摘んでヘラのように、自分の持つ壺から中身をこそげ出す。


「銀貨が」


 どれだけ傾けても溢れなかった壺の中身。それがつうっと、細く流れ落ちた。真っ黒な糸のようなそれは、シャルの摘んだ大銀貨を溶かしてしまう。

 もちろんその下にある、クレフの持つ大銀貨も同じだ。少しずつ、袋の中が黒い液体に冒される。

 じきに袋の底が破れ、下にある壺へ液体は辿り着いた。ちょろちょろと水面を打つ音がしばらく響き、やがて大きくなっていく。

 ごくん。

 ごくん。

 クレフの耳がおかしくなったのでなければ。それは間違いなく。生き物が液体を飲み込む、嚥下の音だった。

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