5:深きところの大迷宮(2)
魔神王。当人の語った通りであるなら、それはミラのことだ。
この空間は上にも下にも高さが膨大で、奥行きも霞み、どこまでか知れない。あの無邪気な少女そのままという気がして、懐かしさに似た感情を覚えた。
「どうやって造ったか知らないが、あの女の棲み処に間違いないよ」
言った通りだろう? と。ベアルはまた、くすくす笑う。
もうひと言を返すのも面倒で、雑に何度か頷いた。それをどう受け取ったのか、彼は贅肉のない健康的な頰をくいっと上げた。
「印象的な光景だけれどね、油断はしないことだよ。何度も来ている私たちでも、予想のつかないことは起こる」
「何度も?」
「そうだ。きっと私が、いちばん多く訪れているよ」
微笑を張り付かせたままのそのセリフは、冗談のつもりか。それともこの男なりの奥ゆかしさだろうか。
魔神戦争において、魔神王との戦いに生き残った三人。さらにそこから地上へと生還した大司教。
その人物こそ、ベアルなのだ。
普通の市民ならば、彼に会っただけで感激に卒倒するかもしれない。クレフにはその事実が、どうにも鼻につく。
「せいぜい用心させてもらうさ」
「そうしてほしい。君には大切な役目があるのだからね」
「役目ねぇ。何をするのか、教えといてもらいたいもんだ。心づもりのあったほうが、いいだろうよ」
――普通に聞けば、普通に言うんじゃねぇか? どうせ逃がす気はねえんだ。
そういう期待をほんの少し持ってみたりした。だが「それには及ばない」と、にべもなく流される。
鼻で笑う武闘神官たちを先頭に、一行は進む。迷宮と呼ぶには、随分と見通しの良い道を。
分かれ道はあった。だが地図を書く者がうんざり、若しくは狂喜するような、複雑な構造にはなっていない。
しかしすぐに気付いた。たしかにここは、大迷宮なのだと。
分かれた道のどちらを見ても、先がどうなっているのか遠すぎて分からないのだ。単純に行き止まりだったとして、その遥か先まで行って戻ってこなければならない。
その徒労感たるや、なまじ広々としているがゆえ倍増するに違いない。
「並の人間じゃ、一度で覚えられねえな」
「問題ない。私がきっちりと覚えているよ」
支柱もなく、宙を進む岩の道。ゆったりとうねっているだけで、特徴がない。
遠くに見える岩山も、尖った山頂を目印にしようとすると、また似たような山が出現する。
なおかつ問題は、それだけに留まらなかった。
「さあ早速のお出迎えだ」
行く手に二体の魔神が見える。行く手でない他の道にも二、三体ずつがあちこちに。
――出迎えにしたって、盛大すぎるぜ。
同行者が気に入らずとも、そんなときにぼうっとはしていられない。弓のしなりを確かめて、矢に手をかける。
「手伝ってくれようというのかな? ありがたいが、まずは無用だ。あれは
クレフよりも前に立つベアルが、目敏くも声をかける。手伝わなくて良い、というのは楽でいい。しかしその後に、聞き流せない言葉があった。
「なに……?」
「おや、知らなかったかな」
下位と言うからには、上位があるに決まっている。向かってくる魔神は、トクウでシャルが死闘を演じたのと同じに見える。もちろん多少の個体差はあるが。
背丈も横幅も、人間の二倍ほどある。腕や脚の太さもだ。その全てが真っ黒で、中でも真の闇に窪んだ眼窩には青い炎が灯る。
「
そこまで答えて、ベアルは口を噤む。
下位種であっても、やはり油断はできないのだろう。前に出た三人の武闘神官たちから目を離さない。
その横をクレフの後ろに居た武闘神官が、また三人駆け抜ける。どうやら一体の魔神に対して、三人ずつで当たるらしい。
彼らは左の上腕と前腕に、それぞれ分厚い防具を着けている。シャルが小盾を固定しているのと同じように。
最初に狙われた一人が、それを使って魔神の猛攻を受け止め、払う。その間に他の二人が重点的に足を狙う戦法だった。
彼らの武器は突起の付いた、鋼の手甲。クレフがまともに受ければ、一撃であの世行きだ。
「シリンガ司祭。君もまだ休んでいていい」
「――畏まりました」
クレフのすぐ後ろに居るシャルにも、今さらのようにベアルは言った。その後ろにも戦闘に加わっていない武闘神官が、十人ほど居るのに。
「くうっ――!」
囮役の一人が、苦悶の声を漏らす。大振りの一撃を捌く余裕がなく、正面から受けたのだ。
ぐっと踏ん張る格好のまま、その神官は岩の上を滑る。放っておけば道から外れ、落下してしまう。
それを後列に居た神官が二人がかりで飛びかかり、押し倒した。方向が違っていれば、間に合わなかったに違いない。
これを踏まえて見れば、五人が並んでもゆったり歩ける道幅も、怖ろしいほどに狭く思えた。
「
以前にシャルがしたよりも速く。およそ半分ほどの時間で、ベアルは奇跡の業を使った。
骨折してぷらぷらと揺れていた武闘神官の腕が、見る間に元通り治っていく。
囮役は、残り二人の一方が代わっている。治療を終えた神官は、その脇をすり抜けて拳を突き出す。
彼もまた奇跡の業を使っているようだ。手甲をふわりと布で覆うように、淡く白く光っている。
その素早い入れ替わりには、魔神も反応できない。文字通り武闘神官の鉄拳が、青い炎ごと魔神の頭部を粉砕した。
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