4:魔神王と聖職者(6)
シャルの足音は、そっと花瓶を置くのと似ている。鎖鎧やメイスで増えた自重を、一歩ずつ極めて几帳面に運ぶ。
それがクレフの閉じ込められた部屋へ、近付いてくる。ベアルの部屋を出る際の、ふらふらした様子は既にない。
扉の前で止まり、少しの間を空けて二回。ノックがされた。
しかし返事のないことに戸惑ったのか、「クレフさん?」と問いかけるように名が呼ばれる。
それでも返事がなければ、中を確かめるしかない。ためらいがちに、扉が開けられた。
「……居らっしゃったんですね」
「オレが逃げちまったとでも?」
「いえ。お返事がありませんでしたから」
他に落ち着くところもなく、クレフは椅子にかけて待っていた。
なぜ返事をしなかったのか。普通は問うだろうに、彼女は問わない。己にやましいことがあると、他人のそれも聞けなくなるものだ。
ただ、顔色はいつもと変わらない。
「そいつは?」
シャルはトレーを持っていた。どうやら食事を用意してくれたらしい。
「夕食をもらってきました。一緒に食べましょう」
「そうかい」
小さなテーブルに、トレーは少しはみ出した。大きなパンと、野菜のたっぷり入ったスープ。十二分に腹の膨れる量だ。
パンとスープ皿は、二つずつある。トレーの端と端に置いた一方が、クレフに向けられた。
「――どうしました?」
「食うよ。ずっと座ってたから、伸びをしてるんだ」
わざわざ立ち上がって。背中と腕と、ついでに脚も。これからちょっと走りでもするのか、というほど身体をほぐす。
先に食べてろと手で勧めると、彼女は首をひねりながらも匙に手を伸ばした。
ひと口が口に含まれ、飲み込まれる。さらにもう一口。
そこで椅子に腰を下ろし、声をかけた。
「さて食うか。ところで、そっちのほうが多くねえか?」
「んっ――そ、そうですか?」
「悪いな、腹が減ってるんだ。交換してくれ」
ちょうど飲み込もうとしたところで言って、彼女が返事をするには喉を働かせてからになった。
間違いなく飲み込んでいると確認して、トレーをぐるり半回転させる。
それでもすっかり安心して、とはいかない。ほんの少しを匙に掬い、舌の先へほんの少し。
――うまいな。嫌味としか思えねえくらいに、香辛料が効いてやがる。
「……どうかしましたか?」
「あん?」
あからさまに警戒を示したことで、彼女も間違いないと気付いたらしい。気付かせるように、わざとそうしたのだが。
「何だかおかしいです」
「そうか? いつも通りの筈だがな」
毒については素人だ。無知ではないが盗賊などやっていると、専門に使う者の知識や技術に驚かされてきた。
食べ物に仕込んだり、風にのせて嗅がせたり。知らず、身体に付着させる方法もある。
あんなものを防ぎきるのは不可能だ。それこそ地位の高い者のように、誰かを毒見役として犠牲にするしかない。
「どうした?」
今度はクレフが聞く番となった。シャルが室内を見回し始めた意図は、分かりきっているけれども。
天井板は元に戻し、楔ももちろん回収している。そこに細工したと知ってでもいなければ、その痕跡を見つけることは難しい。
「どこかに行きましたか」
「どこかって、どこへ? ここが軟禁部屋だってのは知ってるだろう」
「……ええ」
あっさりと認めた。
性分として彼女は、騙し合いに向いていない。認めるにしても、他にいくらでも言い方はあった筈だ。
「何かを、見ましたか」
「いや?」
シャルは何かの目的で、死ぬことを前提にクレフを連れ出した。しかし途中で気が変わって、助命を考えた。
だがその機会を、クレフ自身が彼女を追ったことでふいにしてしまった。
そこのところで、彼女を信用は出来る。しかしだからと、何が起こっているのか聞いたところで、真実が返るとは限らない。
「クレフさん。あなたは何を――」
「ここからどうするんだ? 祭壇ってのは、ここじゃねえんだろ?」
不器用な、直接的な問いに応じても仕方がない。素知らぬ顔で、今後の予定など聞いてみる。
焼いた大麦の匂いしかないのを確かめた、パンを小さく齧りつつ。
「あ、明日。祭壇に向けて出発します。ここからさらに、丸一日は進みます」
「そうか。じゃあせっかく屋根のあるところで眠れるんだ。そろそろ寝床に連れていってほしいもんだな」
シャルとベアルの会話を聞いた後、クレフは保管庫を探した。
聖職者というのは、何だか知らないが日記が好きだ。だからここでのことも、ずっと記録されていると考えたのだ。
それに総大司教などという人間が居るなら、もっと重要な物もあるかもしれない。
「クレフさん。もしも何かを知っているなら、教えてください。わたしはあなたを傷付けたくはないのです」
「オレが傷付くような何かがある、ってこったな?」
はっ、と。自身の失言に、シャルは身を硬くする。渋い草でも食ったように口を窄め、視線を床に落とした。
「何も知らねえよ、オレは。ライラってのがもう死んだのか。そんなことさえも知らねえくらいだ」
書庫。そこに見つけたのは、『因果の壺』と書かれた記録だ。数年分も細かく記された日誌のようなそれに、ライラという聖職者の名があった。
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