3:聖女は滅び腐敗蔓延る(6)

 先制はクレフの弓だ。

 まだ待つように。もう少し。シャルの言うまま引き付け、「今」と言われて矢を放つ。風の幕を貫いて唸るそれを追うように、シャルも駆ける。

 魔神の頭を狙ったが、胴に逸れた。その巨体は、小揺るぎもしない。


「いつもながらあの娘、いい動きじゃ」


 常は先を争って、魔物へ突っ込んでいくミラ。しかし今回、シャルの戦いぶりを見守るように後ろへ控えている。


「はああぁぁっ!」


 無謀としか思えない正面からの突進。シャルを迎え撃つのは、攻城弩バリスタのごとく打ち出される、魔神の拳。

 彼女の視線は、魔神の顔に注がれているようだ。正確には顔と、肩の動きだろうか。

 黒い拳が地面を穿つ。それは優に、人ひとりがすっぽり入ってしまえるほど。

 だがそこにシャルが居たのは一拍前。彼女は魔神の左手に回るとフェイントを見せて、まっすぐ突っ込む。

 無防備となった魔神の下半身。その左膝に両手で握ったメイスを叩き付ける。が、ほんの少し脚の軸をぶれさせただけだ。

 大型の獣と似た魔神の表情に、痛みや怒りといったものは見えない。


「フォフゥゥゥゥ!」


 しかし吠えた。大気の動揺が耳にびりびりと伝わってくる。二つも先の山頂まで届きそうな雄叫びだった。

 足元を右に左に、シャルは死角へ潜り続ける。魔神が地団駄を踏むように脚を上げると、反対の脛を打つ。

 徹底した下半身への集中攻撃だが、いつまでも避け続けられるものかと思う。

 そしてそれは、すぐに現実となった。


「危ねえっ!」


 あの接近戦に、クレフは手出し出来ない。蹴りから続いての拳打を、シャルがようやく盾で受けたとしても。

 盾を固定した左腕に、メイスを捨てた右腕も添えられている。なおかつそれでも、受けきるのは無理だと判断したに違いない。投げを打つように身体を捻り、魔神の腕の進行ルートを変えさせた。


「何だありゃあ……」


 クレフは弓を得意とする。けれども戦闘の専門家とは、ほど遠い。専門はあくまで狩猟と盗みなのだ。

 だがその為に、嫌と言うほど人を見てきた。年代、性別、職業、地域。そんなものでの、反応の違いを知るのは重要だ。

 剣や槍を使う、戦士や騎士。その中には手鉤やナイフを用いて、素早さを武器とする者も居る。それぞれに達人と呼ばれる者を見もした。

 しかし、だ。

 重戦士の武器であるメイスと、軽戦士が使う小盾での受け流し。両方を瞬時に、手練れと呼べるレベルで使い分ける者など、見たことがない。


「呆けておる場合か」

「ああ、そうだった」


 武器を失ったシャルは距離を取り、太い丸太組みの家屋の前へ追い詰められていた。

 あの長い手脚は、横方向への回避を著しく困難にする。股の下をくぐろうとでも言うのか、彼女はじっと距離を測っているように見えた。


「うぬの腕なら、頭や背を射ることは出来よう。傷にならずとも、牽制にはなる」

「そりゃあ――」


 無理だ。

 そう言う前に、少女は走る。シャルの下へではない。行く先に、新手の魔神が二体見えた。

 功を焦るなどないのだろう。シャルを追い詰める魔神は、最初に現れたときと同じにゆっくりと距離を縮める。

 ――やってやるさ。

 矢を番え、弓を掲げた。弦を引き絞りつつ、弓を魔神へと向けていく。

 的は大きい。これ以上に大きな相手は、狩りでもなかなか居ない。その上半身なら、どこでもいいのだ。

 いける。いま指を離せば、きっとあの真っ黒な背に矢は落ちる。頭ではそう思うのに、信用ならない。

 指が震え、腕も肩も。終いには全身が震えて、弓を地面に落とした。


「反吐が出るぜ、クソ……!」


 治まったと思った吐き気が、そう言った途端にまた込み上げた。

 出来ないのだ。狙う視界に、中ててはいけないものがあると。

 父親を死なせた後、何度やってもそうだった。

 最初は意識せず。それから意識して外そうとするのに、外せない。きちんと狙うべきを狙った筈なのに、中ててはならぬ方へ矢が突き刺さってしまう。


「でえぇぇいやあぁっ!」


 鋭く激しい気合いが、朦朧とするクレフの意識を現実へ繋ぎ止める。

 魔神は家屋に埋もれていた。殴った拳が丸太を崩し、屋根を落としたのだろう。何かに引っかかったらしく、脱出しようと脚が暴れる。

 そこへシャルは、メイスを振り下ろした。人間で言うところの、背骨と腰骨の交わる一点を目がけて。

 だがその一撃では、魔神の動きは止まらない。何度も、何度も。腰を砕いて下半身が止まっても、脱出した上半身が掴みかかる。

 大きく振り回される腕。もはや這いずるしかない魔神は、片腕でしか攻撃が出来なくなった。

 彼女はそれを掻い潜る。魔神の眼前に至り、一瞬とも呼べぬ短い時間、互いに見つめ合った。

 シャルにとって、それは打撃箇所の確認だったのか。眉間にメイスが叩き込まれる。それでも怯んだ様子を魔神は見せない。

 シャルはメイスを逆手に持ち替える。鈍く尖った柄尻を眼窩へ突き刺しようやく、暗く燃える青白い炎は消えた。

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