3:聖女は滅び腐敗蔓延る(3)
「外で待っておるからの」
そう言うが早いか、ミラは市壁に向け走り出した。領境に近いトロフよりは低いものの、それでも二階建ての屋根より高い。
「ミラさん!?」
シャルが呼び止めたのも、もう跳ねた後だ。少女は古びた墓守小屋の屋根を蹴り、次には市壁の上に乗った。
その外には勢いを殺す為の足場などない筈だが、少女は躊躇わず降りる。
消えた小さな背中を、二人は数拍ほども見送った。
「常識はずれの娘さんだが、いつまでもここに居たって仕方ねえ。行くとしよう」
「ええ――」
「どうした?」
返事をしながらも、シャルは何か思い詰めたようにクレフの顔を見つめた。こちらはクレフが問うたのもあって、一拍にも満たない時間だったが。
何でもないと、シャルは東門に向けて歩き出す。もういつもの、彼女の堅い表情に戻っている。
――いつも。だったか?
そんな風に言えるほど、彼女の顔を見ていただろうか。街で聖職者とすれ違うときには、自然な素振りを装ってよそを見ているではないか。
自身を思い返して、これからちょっと見ておこうかなどと思う。
憎んでいる筈の聖職者を、なぜ。とは気付かなかった。
「教会の任務です」
前回は慌ただしかったが、今度は落ち着いての出門となる。門衛とのやりとりも、やはりトロフでは急かす風だった。
それもあって、シャルが通行証のように見せる首飾りもよく見えた。
金の鎖に繋がれているのは、聖印だ。意匠化された炎の彫刻があって、その周りに鉄製の輪がある。
その輪は赤く、神聖語で何やら彫られているがクレフには読めない。信者の持つ聖印には付いていないので、よく見たのも初めてだ。
――黒い炎?
他の聖職者が持つ物は、炎も赤い。しかしシャルのは黒かった。どうも元は赤く塗られていたようだが、木製ということもあって変色したらしい。
これは聖職者だけでなく、信者が教会から貰う物も鉄製の筈だが。
山奥であったりして行き届かない場合に、器用な者が自作しているのは見たことがあった。むしろそういう物に見える。
――格好も任務とやらも変わってるからな。
きっとそれと同じだろうと、納得することにした。
門を出た先でミラとも合流し、三人は街道を東へ向かう。ここから先、いつ魔神と出会うかもしれぬ行き先のない道だ。
しばらく進んで、シャルは街道から外れて歩き始めた。
「魔神の爪痕はこっちなのか?」
「ええ、そうです」
しらじらしく、間違っていないのかなどと聞いてみる。聞き慣れた平坦な肯定が返った。
他意などあるわけがない。ただの偶然だ。
雨風を凌ぐのに良さそうな岩穴があって、そこで夜営することとした。奥行きは二十歩ほどしかなく、大型の魔物が巣穴に使ったものだろう。
「腹が減った!」
「――お前、両手にいっぱい食ったよな」
「知らん、忘れた。あ、いや。シャルが持参してくれたことは覚えておる」
妙に義理堅い少女に、呆れた気持ちも「まあいいか」と思えてしまう。
言っている間に集めた小枝へ、シャルはすぐに火を点けた。穴の奥に枯れ葉が吹き溜まっていて焚き付けには事欠かなかったが、やはり手早い。
聖職者とは頑丈な建物で偉そうなことばかり言っているものだ。だが彼女は、どれだけこんなことを繰り返したのだろう。
「すぐに焼けますから、もう少しだけ待ってくださいね」
背負い袋から出した兎の肉へ、シャルは小枝を通す。それを火の近くの地面に刺し、塩を振りかけると香ばしい匂いが漂い始める。
「楽しみじゃのう。もううまそうな匂いがするではないか」
前髪を焦がしそうなほど近付き、ミラはくんくんと鼻をしきりに鳴らす。
かと思えばすぐに「もう良いかの?」などと聞いてきた。
「まだです。料理はじっくり、手間と時間をかけたほうがおいしくなります。その間に、他の調味料も効いてきますしね」
「調味料? 塩のことか?」
「いいえ、ミラさんも持っているものですよ」
親が礼拝をする間、幼い子を女性の聖職者が見るという場面はよくある。そのせいか、彼女がミラと話すのはとても自然に感じた。
こういうものは、たとえ子どもだましであっても、当人が楽しければ良いのだ。
「ううむ……分からん、降参じゃ」
「あらあら。ようやくミラさんに、一つ勝てましたね。答えは、空腹です」
解答を聞いても、すぐには理解できなかったらしい。しかし段々と頷き始め、最後にしたと膝を打つ。
「なるほど。料理を待ちかね、腹を減らせる。それがどんな物も至高の味に変えるということじゃな! 面白い謎かけじゃ。帰った折には母上に聞かせるとしよう」
楽しげなミラに、シャルにも柔らかな笑顔がこぼれる。そこから当然に考えることだったろう。彼女はミラの家族を聞いた。
「お母さまの料理を、お手伝いしたことなどは?」
「うむ、料理に限らんが。母上は何でも、ぽんと簡単に作ってしまうからの。儂が手伝う余地などない」
「そうですか――素晴らしいお母さまなんですね」
貴族の家では、家事など雇い人の仕事というのが普通だ。もちろんそれが、ミラの故郷も同じとは限らないが。
クレフに母親の記憶はなく、父親も勝手に身体で覚えろというタイプだった。
それだけに、娘と触れ合う手段としてでも、手伝わせてやれば良かったのにと思う。
「父親は健在なのか?」
「元気でおる筈じゃ。頑なな男でな、いつも雷を落としておる」
躾に厳格な父親。何でも器用にこなしてしまう母親。そこから飛び出すような事情があると、こんな奔放な娘が出来上がるのだろうか。
なぜ故郷を出たのか。次に聞くべきことを、聞きにくく思った。
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