2:はじまりと終わりの街(5)
クレフとミラ。それにその周辺に居た人々が振り返る。聖印入りの胸当てを着けた聖騎士は、連れた兵士に取り囲むよう指示を下した。
「女神アマルティアは、全てを見通し給う。討つべきを討ち、平穏は自ら得よと教え給う!」
信者たちに教えを説く司教の声が、広場を囲む建物に響く。ちょうど核心なのだろう、両腕を上げて陶酔した風の顔が赤い。
「アマルティア――女神?」
「そうだ。貴様らが罵倒したのは、我らが崇高なる慈母神だ。陰口ならまだしも、公の場で神官を嘲るとは許し難い」
ミラが女神の名を問い返すと、聖騎士の一人は
「誰かを罵倒した覚えはないがな。おい、うぬ。こ奴ら、儂らをどうしようと言うのじゃ」
「さてな。百叩きか罰金か、悪けりゃ何年も牢獄行きだ」
「はあ? それほどの何かがあったとは、儂の記憶にないのじゃが。叩きのめしても構わんのか?」
声を潜めることもなく、少女の指は堂々と聖騎士を指す。
これを相手は、一瞬の沈黙の後に大笑した。街中だからと油断しているのか、兜も着けていない馬鹿面が五つ。いや部下の兵士たちも、何とか堪えているだけだ。
「そうしたいのはやまやまだが――」
ミラは正面から応答し、それから話しかけてきた。クレフは無関係を装うのを諦め、手拭いで鼻と口を覆う。
「そこまでやると、こいつらを撒いて終わりにはならねぇ。シャルと会えなくなるぞ」
「ふむ。それは良くないのう」
シャルの名を聞かれてはまずい。声を抑えると、ミラも応じた。
「納得したなら、観念もしてもらおうか」
窮地にある者の密談は、相手が何者であれ放置しておくべきでない。そのセオリーに従い、聖騎士は包囲を狭め始める。
「では、逃げるとしよう」
赤い瞳が、愉しげに笑う。聖騎士たちの嘲笑とは明らかに違うが、何に笑ったのか理解は及ばない。
戸惑う間に、ミラは地面を蹴って跳んだ。軽く人混みを越え、近くの壁を蹴って数十歩も先へ移動した。
「あの娘を追え!」
――おいおい、おいてきぼりかよ。
数拍前に他人の振りをする選択肢もあったのを脇に置いて、不満が口を衝きそうになる。
しかし言っても、打開には繋がらない。その方策は、自身の腰にあった。
ベルトに吊るした革袋から、手の平に収まる程度の球を出す。これを地面に擦り付けると、そこからすぐに白い煙が噴出した。
雲を練ったような濃いそれは、しゃがんだクレフを覆っていく。意図に気付いた聖騎士たちは、「見失うな!」と即時の捕縛を命じた。
兵士たちの手が伸びるよりも、煙の侵略は速かった。
しっかりと視線が切れたところで、向いていたのとは反対の人混みに紛れる。顔を隠した手拭いも外し、裏返して暗い色に染めた側を肩に掛けた。
ミラとも反対方向になってしまったが、仕方がない。落ち合う酒場は決めてあるのだから、そこへやってくるだろう。
考えている暇はない。聖騎士たちの声と溢れ出した煙に、野次馬も集まり始めた。中に混じって、人だかりの外へと脱出する。
「やれやれ、危ねぇところだ」
さらに離れた建物の軒に上がり、騒ぎを振り返る。クレフたちのすぐ近くに居た数人が、連接棍に押さえつけられていた。
クレフとミラの会話など、聞こえていなかったのだろう。聖騎士が「そこの者たち」と言った中に、自分が含まれていることも分からなかったのだ。
それが証拠に、最も近くに居た筈の二、三人の姿は見えなかった。
――悪いな。助けてやりたいが、その手段がねえ。
そもクレフ自身、女神や聖職者を馬鹿にして言ったつもりはない。知っている事実を少女に伝えたら、それが悪行だっただけのことだ。
そうだとしても、言う場所や言葉をもっと選べ。と、普通の人間はそう考えるのだろう。
だがそれもまた聖職者に強いられた横暴だと、クレフには許せない。
「私は何も!」
「俺が何をしたって言うんです!」
捕らえられた者たちが、当然の反論を口にする。その口元を、鉄の手甲が殴りつけた。
腹を蹴られた男が、むせて咳を続ける。それに腹を立てた兵士が、胸ぐらをつかんで腕を振り上げた。
その拳は、間違いなく男の頰を打つ筈だった。だがその中途、半分ほどの道程で強制的に止められる。
「うぬら、手当り次第か」
横合いから鷲掴みにする手は、少女の姿に見合って小さい。しかしいくら兵士が振り払おうとしても、びくともしなかった。
「うぬらの意に染まぬことを言うたのは、儂らじゃ。その者らとは関係がない、離せ」
――あの馬鹿、なんで戻ってくるんだよ……。
怒気を隠さないミラがいかに美しくとも、あどけない子どもだ。聖騎士も兵士も、判断の愚かさを笑うだけだった。
「自分から戻ってくるとはな。良かろう、お前がおとなしく罰を受けるなら、他の者の扱いは考えよう」
少女は頷き、差し出された鎖を自ら両腕に巻いた。背負った剣も奪われ、聖騎士の詰所へと連れられる。
「ちっ、どうしろってんだ」
誰にも聞かれない声で、クレフは悪態をつく。見咎められぬよう、静かにその場を離れていった。
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