第4話 菜の花
丘の上の畑に咲いた桜の花が今は盛りであった。
桜の樹の裾を囲むように、菜の花が黄色い絨毯となって咲いていた。
まるで、黄色い花筵の上に春の女神が座っているような美しい風景だった。
空には雲が三つ、四つと浮かんでいた。
遠くに、雲雀の声がしていた。
桜の樹に向かって、肩に大きな荷物を担ぎ、汗を流しながら歩いて行くのは与市と言う名の六つになったばかりの男の子。
行く手には、父と母が待っている筈であった。
春の日差しの中に小さな人影を見つけて、丘の上の畑の中から二つの影が立ち上がって、手を振った。
父親の与助と、母親のタネであった。
与市は荷物の重さを忘れたように丘に向かって、手を振りながら、駈けた、ひたすら駈けた。
やっと、二人の前に着くと、タネは与市を抱きしめ、背中の荷物を解いた。
「御苦労さんだったね。与市。」
優しく話しかけると、与助も息子の肩に手を添えて。
「飯にするか。」
と言った。
与市が背負って来たのは、昼飯であった。
茶、握り飯、漬物などで、子どもの荷物にしては重たそうな中身であった。
三人は畑の境の芝生に腰を掛けて、桜の花と菜の花を眺めながら、陽の光を浴びて昼飯を食べた。
楽しい一家団欒(いっかだんらん)のひとときがそこにはあった。
だが、そのひとときを妨げることが起きた。
「ガサガサ」という音とともに、見かけないものが背後の藪から現れた。
三人は狐か狸か、はたまた熊でも現れたと思って、一緒に振り返った。
出て来たのは、見かけない男たち三人であった。
男たちは皆、腰に大小の刀を差した若い浪人風であった。
その眼が、親子の食べ物を羨ましそうに向けていた。
気の良い、与助が、握り飯を持って声をかけた。
「お侍さん。宜しかったら、ここで、一緒に昼飯を食べないか。」
すると、一人が頭を掻きながら手を出した。
「すみません。ひとつ、御馳走になります。」
と、言うと、他の二人も従った。
与助たち親子に、若い浪人が加わって、昼飯は賑やかになった。
食事時が過ぎて、与助とタネが春の畑に鍬入れを始めると、浪人たちは自分たちも何か手伝いたいと申し出た。
三人は、与助が聞きもしないのに、自分たちの名を名乗った。
一番背の高いのが中村、中背で痩せたのが伊藤、小柄で太ったのが田中と言った。
三人は与助やタネから鍬を手渡されて、畑起こしをした。
伊藤と中村はぎこちなかったが、田中は与助夫婦が目を見張るほど鮮やかにこなした。
タネは感心して声を上げた。
「田中さんは、本当に畑掘りが上手だね。」
伊藤が田中に代わって応えた。
「上手な筈だよ。田中さんは紀州の百姓の出だもの。」
与助は驚いて言った。
「まあ。ずいぶん、遠方からお出でなさったのだね。他の人たちもやっぱり、紀州からお出でなさったのかい。」
中村が答えた。
「俺たちは、それぞれ生まれ生国は違う。これから西方の宿場町でさる方と逢うことになっている。大層、御馳走になりました。失礼する。」
そう言うと、三人の若い男たちは連れ立って西に向かって歩いて行った。
「あの兄ちゃん達は宿場町に行くのだね。母さん。」
と、与市は言いながら、男たちに手を振っていた。
男たちは夕陽の落ちる方向に向かって歩いた。
一刻ほど歩くと、宿場町に着いた。
一行は、この町に一軒しかない宿を訪れた。
中では清原玄斎と二人の男が待っていた。
「やあ、待っていたぞ。中村君、伊藤君、田中君。」
と、明るい声で玄斎は声を掛けた。
三人はこの尊王攘夷の象徴と崇められている男に親しく声を掛けられて感動した。
しかも、「君」と同志として処遇されたのだ。
皆は改めて、互いを紹介し合い、旅の垢を落とし、宴(うたげ)を開いた。
皆、酔い始めて互いに打ち解けてきた頃、玄斎は五人を集めて言った。
「この地は外様大名の治める土地柄なので、幕府に対する不平、不満も鬱積している者が多いと期待してやって来た。」
酔眼をうっすらと見上げながら、ため息をついた。
「ところがどうだ。侍どもの臆病なことといったら、幕府への不満、尊王の志など爪の垢ほども感じられないのだは。」
続けた。
「諸君らに集まって貰って、この地をこのまま去るのは心苦しい。」
えへん、としわぶきをして、五人の目を覗き込んだ。
「そこで、尊王攘夷のための冥加(みょうが)金(きん)を調達して、京の都に帰ることにした。」
すると、玄斎に従っていた二人が相槌を打った。
「先ずは、この宿場町の商家から調達し、近在の百姓にも行きましょう。」
中村他、二人はこれを聞いて顔を見合わせた。
すると、玄斎はこれを察して。
「大義のためには多少の犠牲は付き物だ。諸君頑張りたまえ。」
その夜は更けていった。
中村たちは眠れないまま、朝を迎えた。
やがて、朝を迎え、宿の外へ出て、町中を徘徊して狙うべき店を探した。
彼等が押し入って、資金調達するには相手にすべきそれ相応の悪い噂のある店などこの町の商家には無かった。
御用金などと、商家に入って無心するには、その店は暴利を貪っているなど、勝手な理屈をつけたりしているのが、よくある話だが、この町の商家はそれほどの規模ではなかった。
夕方になって、玄斎は意を決して、呉服屋に入った。
呉服屋の主は、正三郎と言った。
六人の浪人姿の男たちが、いきなり入って来たのには驚いた。
二本刺しが大勢で呉服屋に入ってくるなど見たこともないことであった。
「いらっしゃいませ。」
と、帳簿の整理をしながら、怪訝な顔を向けた。
「主は誰だ。」
と、玄斎が横柄な態度で言った。
正三郎は、少し腹が立ったがそれでも感情を抑えて。
「手前が主でございます。何か御用達でございましょうか。」
すると、彼は言葉に詰まった。
しばらく、静寂が流れた。
すると、玄斎に何時も従って来ている西国訛りの背の高い男が、いきなり刀を抜いた。
「我等は、尊王の志を持つものである。この店には尊王運動の軍資金を調達に参ったものだ。四の五の言わずに協力して欲しい。」
「突然の申し出、応じかねまする。尊王の志と言われましても、これでは物取り、強盗ではありませんか。」
「黙れ。命が惜しくば、ここへある限りの金子(きんす)を出せ。」
騒ぎを聞きつけた手代、家の者が店先に現れた。
流石に騒ぎが大きくなり、店の者に危害が及ぼされると心配になり、正三郎は店先にあった十両ほどの金子を玄斎に差しだした。
玄斎たちはこれをひったくると、表へ飛び出した。
店の手代が飛び出して、走り出した。
先ほど刀を抜いた背の高い男がこれを見て追いかけた。
追いつくと、いきなり抜刀し、白刃を振るった。
鮮血が、手代の首から吹き出し、声もなくうつ伏せに倒れた。
「何をする。」
と叫んだのは、中村と名乗ったあの若者であった。
伊藤と田中も茫然として顔を見合わせた。
「騒ぐな。諸君。この者は役人に注進に行こうとしたので、これを防いだものだ。けしからぬ行動にに出たもので天誅は止むを得ないのだ。」
玄斎は冷たく言い放った。
「諸君らまさか、先生の言うことに異存はあるまいな。」
もう一人の太った、刀傷のある男が凄んだ。
若者たちは玄斎の取り巻きに凄腕がいると聞いたが彼等がその二人だと気がついた。
京洛(きょうらく)で天誅と称して、佐幕派を殺戮してきた連中であったのだ。
それでも、三人の若者たちは玄斎たち勤皇の志士たちが敵対する者を誅殺するのは大義のための英雄行為として憧れていた。
しかし、現実は違っていた。
目の前の憧れの志士たちは薄汚い、人殺しと同じであった。
町中が騒然としたのを察して、彼等は東の方に逃げた。
茫然としたままの若者たちも、彼等人殺し達の無言の威圧に逃走出来ずに従って行かざるを得なくなっていた。
逃げながら、玄斎は言った。
「あの宿場町よりも大百姓の方が季節柄、種籾(たねもみ)や養蚕の毛蚕(けご)の仕入れなど手持ちの金子が多い。そこを狙おうぞ。」
二人の男も肯いた。
「早速、大百姓のところへ行きましょう。」
毛蚕は蚕の卵から孵化したばかりの幼虫である。
毛蚕は普通の養蚕農家が専門飼育業者から野菜の種を買うようにして仕入れなければならない。
購入単位は二万匹が最少なので、農家にとっても高価な買い物である。
それを仲立ちするのは大百姓の役目であり、大金を必要になる時期がある。
彼等はこれを狙おうとしたのだ。
暗い夜道を後ろから追って来る追手を気にしながら、取りあえず一夜の宿を探し歩いた。
畦道伝いに、農家を見つけた。
小高い山を背にして、農作業用の庭を南向きに、東側に馬屋があり、その前に用水池があり、
母屋の東側は竹林、北側には林を背負っている。
中庭の真ん中には風呂場と便所がある。
この地方独特の農家の冬暖かく、夏は涼しい、「いぐね」と呼ばれているたたずまいである。
「今夜はこの百姓家に泊まることにしたい。田中君。済まないが、先に行って様子を伺ってくれないか。」
そう、玄斎に言われて田中は農家の戸を叩いた。
「お晩です。旅の者ですが、道に迷ったので軒下を拝借させてくだされ。」
すると、中から返事があった。
「それはお困りでしょう。」
そう言いながら、この屋の主が現れた。
「あれ。昨日の田中さんではないですか。」
「ここは与助さんの屋敷だったのですか。」
「夜はまだ寒いですから、お入りください。」
「実は、私一人ではないのです。」
「中村さんと伊藤さんも一緒ですか。どうぞお入りください。」
「いや。その他に三人、全部で六人にもなるので、迷惑でしょうから、馬屋の端でも御借りします。」
そんなやり取りをしているうちに、玄斎が残り四人を引き連れて家の中に入り込んできた。
「主、一晩世話になるぞ。」
いきなり他人の家に入り込んでの横柄な物言いに、与助も目を丸くした。
それ以上に、田中達若者は恥ずかしさで身の置き所もなくなっていた。
炉辺の周りに我が物顔で振舞うのは玄斎と取り巻きの二人。
寝床のある別の部屋からこの様子を覗き見ていた与助の女房のタネは、与市が思わず。
「田中のお兄さん。」
と、声を出そうとしたのを口を塞いで制した。
そして、タネは与市を抱えるようにして裏木戸から、外へ逃げようとした。
「主。妻女は如何した。」
と、玄斎は訊ねた。
「女房と子どもは昨日から女房の実家に手伝いに帰ってます。食べるものもこの炉辺に掛けてある雑炊しかありませんが、どうぞ召し上がってください。」
と、与助は機転を利かせて答えた。
若者達は与助の機転に気がついたが知らぬ振りをした。
裏の方でガサッと大きな音がした。
刀傷のある人斬りが刀を引き寄せた。
中村が機先を制した。
「私が様子を見てきます。」
と、裏に走った。
タネは裏山から逃げ出そうとして、暗がりで躓いて大きな音を立てた。
「しまった。」
と、思い、身がすくんで動けないでいると、中村と眼が合った。
「しっ。」
と、口に手を当てて目くばせをする中村が味方だと分かると足は動けるようになり、与市の手を引いてその場を逃げた。
月明かりの中で、タネは名主の渡邉家に向かった。
しばらくして、中村は帰って来た。
「大きな猪がこの家の残飯を漁りに来たようで、一匹逃げて行きました。」
玄斎と、二人の取り巻きは不審に思ったが、気にも留めなかった。
玄斎は炉辺を囲んで、この地のことをこき下ろすように言った。
「誠に、白河以北は一山三文、とはよく言ったものよ。尊王の思想など説明し、この国の将来のあるべき姿を論じても賛同する智者は一人としておらぬのだわ。」
「左様でございます。学者と申せば、蘭法医、和算、天文、農学などで、天下国家を論ずる者はおりませんな。」
「ここの主は勿論、読み書きも出来ない無学な百姓だろうから。」
与助はひとり言のように呟いた。
「白河以北は一山三文、と申したのは里山や入会を眺めて早とちりした西方の人の弁でしょうな。確かに、里山は橡(くぬぎ)や楢(なら)の木など雑木林が多いですが、これは薪や炭の材料に最適で、育ちも早く、山を潤し、田畑の水源にもなる貴重な林です。秋田だけでなく檜や杉の産地多く、漆も盛んで、一山三文などではありませんよ。それに、その昔はみちのくは黄金の産地でもありましたし。」
与助は続けた。
「この地の者を悪しざまに言いなさるのは、一宿の恩義をお思いでしたら言わぬが礼儀でしょう。礼儀を知らぬ方が天下国家を論じなさるとは片腹痛いことでございましょう。」
玄斎はこれを聞いて、苦笑いした。
「都(みやこ)におわします帝(みかど)を敬(けい)し奉(たてまつ)り、天下国家を維新しなければならないという我等の理想など理解できぬか。」
「それで民は幸せになりましょうかな。」
「そうじゃ。帝を奉り、この国の者が一つになれば幸せになると言うものじゃ。今、海外から押し寄せてくる夷敵(いてき)どもに対抗するにはこのことが重要なのじゃ。」
すると、与助は笑って、言った。
「今でも、人々が己(おのれ)の持ち分、役目を第一に暮らしております。この地では殿様は殿様の本分をわきまえ、お役人はお役人の、侍衆は侍衆の百姓、町人もまたその日の暮らしで本分を務めております。江戸では将軍様が、都では帝がその役目第一と考えてお過ごしなさっていると私は信じております。それが人の世の幸せではありませんか。」
玄斎は嗤(わら)った。
「ここの主はどうして、どうして論客であるな。」
すると、取り巻きが言い添えた。
「しかし、我等が崇高な理想など通じる筈もない輩でしょう。」
与助は遠くを見るようにして言った。
「それぞれが理想をお持ちになるのは勝手でございます。しかし、都で横行していると聞きます、天誅と称して意見の合わぬ方々を殺戮する困った輩もいると聞いております。
理想を持つ者が自分の理想と合わぬ者を力で排除しては、理想は理想として生きないのではありますまいか。」
このように、互いが論ずるのを三人の若者達は聞きながら、自分たちの故郷を思い出し、与助の意見に聞き入っていた。
「笑止なり。この家の主も我等と同じ天を仰がぬ者と見た。維新のための生贄のために死んで貰おう。」
殺戮者たちは本性を現して、刀を抜いた。
夜が明け始めていた。
「この片田舎で百姓の身分でありながら、洛中の世情にも詳しいとは、唯の鼠ではあるまいの。」
与助はにっこりと笑って答えた。
「流石は先生と崇められているだけあって、歌舞伎の『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)にある荒獅子男之介の科白(せりふ)をご存知とはご立派。すると、私めは敵役の仁木弾正ですかな。」
このやり取りを傍から聞いていた残り五人はキョトンとした。
玄斎は冷たい目をして、配下に顎で命じた。
「斬れ。」
与助に向かって二本の刃が迫った。
その中に若者三人が割って入った。
「玄斎先生。お止め下さい。一宿の恩をお忘れですか。」
「諸君。こ奴は幕府の手先である故斬るのだ。そこを除け。」
「いえ。我等は昨日の商家を襲ったことといい、今夜の先生と与助殿との対話からつくづく愛想うが尽きました。」
「裏切るつもりか。おのれらも天誅を下すぞ。」
殺戮者は久しぶりの獲物を前にして舌舐めずりをした。
与助は落ち着いて言った。
「我が家が血で汚されるのは迷惑。外でお相手いたします。」
「逃げるなよ。」
「逃げない訳には行きません。御免。」
そう言って、与助は外へ駈け出した。
若者三人も刀を背負って逃げた。
抜き身を下げて追う三人。
殺戮者たちはついに井戸端の狭い行き止まりで若者達を追い詰めた。
怯えて、刀を抜くことも忘れてしゃがみこんだ三人に対して堵殺するような眼で迫る二人。
「天誅。」
と、気合を掛けて二本の抜き身が宙に舞った。
その時。
「ギャリン」と鈍い音がして飛礫が抜き身を弾いた。
「何奴。」
と、玄斎他、殺戮者たちは振り返った。
そこには二人の百姓姿の男が六尺余りの樫の棒を携えて立っていた。
太一と佐々木主水であった。
玄斎たちは背後に四人、前方に新手の二人を迎えて、形勢が不利になった。
今までは、不意打ちや、多勢を頼りにして脅える相手を堵殺してきたのが、絶対不利の中で混乱していた。
二人が遠い間合いから抜き身をやたらに振り回すのを、太一と主水はじっと見詰めた。
そのまま槍のように中段に構えた二人は間合いに進んだ。
突きを入れる動作をすると、相手はこれを避けようとして払う仕草に転じた。
太一たちは息を合わせるように、身を沈めた。
六尺棒の届く間合いを利用して、最短距離の払いで向う脛を薙ぎ払った。
「ゴキッ、ゴキッ」
二人の男の脚の骨が砕けた。
玄斎はこの時、改めて刀の鞘を払おうとしたが、太一の棒が胸を軽く突いた。
彼は江戸では五本の指に数えられる有名な剣術道場で免許を得たほどの腕前であったが、実戦には何も役に立たないまま気絶した。
太一と主水の樫の棒は足を折って蹲った二人の頭上に舞って、気絶させた。
「いやあ。助かった。」
と、与助が頭を掻きながら気絶した三人を縛り始めた。
太一と主水はにこやかに。
「おタネさんの機転の御蔭で皆さん無事で何よりでしたな。」
与助は思い出して、若者達を振り返った。
「田中さん、中村さん、伊藤さん、皆さん何所も怪我していないかね。」
若者達はしゃがんだままで、声も出せずに頷くばかりであった。
昼近くになって、役人たちがやって来た。
縛られたままの三人は宿場町での強盗と殺人の罪で処刑されることになった。
若者達は一味として処罰されるものと覚悟していたが、与助や太一、主水からの嘆願が名主への届け出で許された。
午後になって、タネが与市を連れて戻って来た。
「田中さん、中村さん、伊藤さん」
と、与市は若者達を見つけて嬉しげに手を振った。
タネは中村に会釈して、無言で礼を言った。
夜になり、与助の家では太一、主水に若者達、与助の家族が加わって囲炉裏に集まった。
「与助さん。皆さんは何者ですか。京洛のことや歌舞伎の話、など、玄斎たちと遅れも取らない程の博識でしたが。」
と、怪訝な表情で伊藤が訊ねた。
すると、主水は与助と太一に笑いかけながら。
「皆さんは奥州の片田舎のド百姓は無知蒙昧とお思いでしたかな。我等には米を初めとして産物を江戸に送り、その度に江戸から全国の話が入って来るのです。」
「それに、奥州の山伝いには信州、熊野、京の話が意外に早く伝わるのだよ。」
「山伏さんとかマタギ衆からの話。海からは北上川の河口を遡ってやって来るのさ。」
主水が付け加えた。
「与助さんは和算の達人でもあるし、読み書きは我等以上にできるのだ。」
与助がまた、独り言のように言った。
「ここの名主の渡邉様の御蔭で、主水様の寺子屋を借りて、毎月、和算、蘭学の真似事、諸国の話をする会所が開かれるのさ。」
三人の若者達は今更ながら、驚いた。
主水は思い直したように言った。
「皆さんは玄斎達の尊王の志に憧れて、彼等と行動を共にしたのでしょう。それはそれで立派なことだと思います。私たちも黒船がやって来て日本中が大騒ぎになり、彼等の文明を目の当たりにして、武士の支配する世の中も変わるだろうと思うようになった。侍衆でさえ、少なからず口に出す人も多い。」
「攘夷と言って、異国人を排し続けるのも無理だと分かっている。」
この奥州でも、世の中が音を立てて変わって行くだろうと、心あるものたちは感じていた。
太一は与助を指して言った。
「与助さんはこの世のありようを、正義だとか、大義のためとか言う迷言を広げて纏めようとする考えが大嫌いでな。この世は人が人として生きる世の中になるのが一番。役人は役人の本分、百姓は百姓の、商人は商人の、漁師は猟師の、大工は大工の、それぞれが本分の通りに生きるべきだ。男も、女も、子どもも年寄りも隔てのない。何時も相手を尊重するのが理想だと。」
すると、タネはおどけた声で言った。
「皆さんの前ではそんな偉そうなことを言ってなさるのですか。和算などの書きつけを覗くと、私には無理だからと隠すくせに。」
すると、与助は頭を掻きながら。
「カアチャンには農作業の他、煮炊きや掃除、家畜の世話、与市の世話など忙しいと思っているのだよ。」
「それはそれはどうも、何時もお気づかいありがとうございます。」
と、タネはおどけて見せたので、満座は爆笑した。
「しかし。」
と、太一は眉を曇らせた。
「この国も大きく変動して行くだろうけれど、論争を論争で終わることなく、力で抑えるために血を血で洗う世の中になったことは困ったことだ。これでは皆が野伏や山賊、夜盗のようになってしまう。三百年以上も前の戦国に戻ってしまうだろう。内戦が始まれば勝者は敗者を有無を言わさず殺戮するような世の中になろうな。」
「尊王と言いながら、帝の御意志でもないのに、天誅と称して殺戮を繰り返し、町家に押し入っては強盗を行っている京、大阪、江戸の風潮は目に余る。」
「そもそも、力を以て、論を通そうとするのは、論のためにと言うよりは己の利のために動くものの行動だ。理想と言うよりは我利に固まった輩のすることだ。」
与助はまた、呟いた。
「人は大義とか、正義、天命、あるいは天罰、怨霊、悪霊など目に見えない、勝手に解釈出来る物で振り回される。我利の輩はこれを巧妙に利用している。今も昔も、坊主も、他の宗教でも、人の集まるところ皆、この迷言に振り回される。」
「さて。」
と、主水は三人の若者たちに向かって尋ねた。
「お三方、これからどうなさる。」
中村は答えた。
「私たちは、故郷に帰りたいと思います。故郷ではここで体験したことを心に刻み、自分たちの生きる本分を弁えて暮らして行きたいと思いました。」
田中も続けた。
「私は故郷で立派な、誰にも心を開く、与助さんのような百姓を目指します。」
伊藤もまた。
「私は蘭学だけでなく、エゲレス語も習い、広く見聞を得たいと思いました。尊王攘夷は卒業しました。」
太一も主水も与助もこれを聞いて、この国の未来に少しの灯りを見るような気がした。
翌日、暖かい日差しの中で、若者達は旅立って行った。
丘の上の桜の花は今日も菜の花の絨毯の上で咲いていた。
与市と、与助夫婦は若者達に向かって大きく手を振っていた。
若い三人もいつまでも振り返って手を振っていた。
その姿が、向こうの丘に消えた。
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