第3話 雨氷(うひょう)

秋から冬へ移ろうとする時、雨が降っていた。

トキは十五になったばかりであった。

軒下で、降りしきる雨を眺め、凍える手をこすりながら、そこに息を吹きかけていた。

気温はますます下がって、雨が地上や木の枝に触れると、氷つくようになった。

雨氷(うひょう)である。

葉の落ちた木々の枝という枝は、近くで見れば水晶の枝が出来たように、遠くからは白く光る花が咲いたようになった。

地面はツルツルになり、歩くのが危ない状態になった。雪降りの時も、一面明るい景色になることが多いが、雨氷はすべての光を乱反射させて明るく、この世のモノとは思われない幻想の世界になった。

景色の美しさの中に、トキは困惑の視線を投げ、「ふうっ。」とため息をついた。

その時、突然。

「おネエさん。そこは寒いから家に入りなさい。」と、家の中から、声がした。

声の主はカネという、七十を過ぎた寡婦(やもめ)であった。

カネにはトキと同じ年ぐらいの孫がいた。

息子夫婦は十年ほど前に、病で亡くなった。

胸の病であった。

息子が患って、看病した嫁にもうつり、たった一人の孫もまた逝ってしまった。

年老いたカネだけが生き延びた。

カネの家はこの宿場町の東はずれにあった。

実家が近在でも裕福な農家であったので、実家からの援助でこうして一人暮らし出来る身分であった。

しかし、当時も今と変わらず、不治とされている病に患った家にはいわれない差別がされ、

近所との付き合いもない毎日であった。

我が子や孫娘が生きていた頃はそれなりに幸せであった。

一人暮らしは、歯の抜けた毎日のようで、実際、カネの歯もだいぶ抜けた頃であったが、侘びしい毎日であった。

窓越しにトキの姿を見て、孫娘の姿、容(かたち)を見たような気がした。

心の中に一つ、灯りが点ったようで、嬉しかった。

トキは水飲み百姓の一人娘で、父親の薬を買いにこの宿場町に来た帰りであった。

「ありがとうございます。それでは遠慮なく。」

と、言って、トキは軒下に沿って、家に入った。

中では、炉辺に火があった。

外の寒さには較べようもないほどの温かさであった。

間もなく、雨氷は止んで、風が吹いた。

風に吹かれて、木々の枝が触れ合い美しい音を奏でた。

氷の枝が木琴を奏でた。キンキン、あるいはチリチリと合奏し出した。

「本当に美しい音だね。あんた、名前は何と言うのだい。」

「トキ、と申します。」

「おトキさんと言うのかい。何処から来たの。」

「東の隣村の狸の沢から来ました。父親の薬を買いに来たのです。」

そう、話すトキの表情にふと、影を差すのを見て、カネはこれ以上の詮索を止めた。

話をする様子や、うつむく視線、少し笑いかける様を見て、今はここにいない、娘や、孫の姿がそこにあるような気がした。

「まだ、路が滑って歩くのが難儀だから、もう少し、ここで温まって行きなさい。」

台所から、餅を持って来て、炉辺で焼き、味噌をつけて、もてなしたりした。

カネは孫と楽しい一時を過ごしている思いがして、幸せであった。

二人は昔からの知り合いのように話を交わした。

トキは三年前、父親と二人で、この地にたどりついたのだそうだ。

父親は北国の大名家の家士、侍であったのだが、家中の勢力争いや、武家の身勝手に嫌気がさして、脱藩したのだそうだ。

母は脱藩の前に侍の刃に倒れたと言う。

カネはトキの身の上話を聞いて、我が事のように涙を流した。

話し込んでいるうちに、トキの親子が世話になっているのは、カネの実家であることも分かった。

しばらくして、トキは外の景色を見て、何時の間にか時が経ったのに気がついた。

「お婆さん。たいそうお世話様でした。家族が心配するといけないので、失礼します。

御馳走になり、どうもありがとうございました。」

カネは幸せな夢から覚めた。

カネはトキのことを身なりは貧しいが、しっかりした娘だと感心した。

名残を惜しんでトキを町はずれまで見送った。

すっかり、暗くなって、自分の家に着いたカネは灯りを兼ねて、炉辺に柴を多めにくべた。

すると、その時、暗闇からぬっと、男の顔が浮かんだ。

カネは目を回した。

「誰だ。」と、問う声も出せないほど腰を抜かした。

「婆さん。何か食べる物をくれや。」

カネは改めてその男の顔を見た。

鬚面で汚いなりをしていた。

落ち着いて見ると、この里の若者たちと同じように気の弱そうな顔をしていた。

カネはもともと、肝の据わった女であった。

そうでもなければ、娘夫婦や孫娘の死を乗り越えて今まで生きながらえて来られなかった。

臆病だった亭主の前に立って、盗人を追い返したこともあった。

「これから、見つくろって作ってあげるから、少し待ってくださいな。」

すると、奥の方からもう一人、男があくびをしながら現れた。

「俺の分も頼む。」

カネは驚くと同時に、この闖入者にあきれた。

二人の言葉つきはこの地のものではなかった。

「何処から来たの?」

「そんなことはどうでもいいだろう。腹が減っているんだから、飯の支度を早くしてくれ。」

カネは、ハイハイと笑いながら、米を出し、野菜を出して、囲炉裏に鍋を下げて雑炊を作った。

飯を食わせながら、二人の男の顔をよく見ると、まだ二十歳に届かない若者であどけないところが残っていた。

「大分、腹が空いていたのだね。たんと、おあがり。」と、思わず声をかけた。

強がっていた若者たちの目に涙が浮かんだ。

二人の頬はこけて、汗と垢まみれで、この地まで来た苦労が偲ばれた。

「どこか行く宛てはあるのかい?」と、聞かれても無言であった。

カネは先ほどトキと別れた寂しさもあって、この若者にも同情し始めた。雑炊を食べ終わって、人心地ついた様子を見て、この若者たちを泊めてやろうと思いだした。

「待っていろ。今、風呂を沸かしてやるから、お前達も水汲み手伝え。」

そう、カネに言われて、二人は裏庭の井戸から風呂水を汲んだ。

近頃、西の方からならず者がやって来てはこの町で悪さをしていたが、この子たちはおとなしいものだった。

二人を風呂に入れ、死んだ亭主の古着を二人に着せてやったら、やっとのことで見られるようになった。

しおらしくなった二人は身の上話を始めた。

二人は江戸に住む、大工と、八百屋の息子で幼いときからの友達だが、大火事で両親と生き別れたのだそうだ。

大工の息子は寅造、八百屋の息子は巳の助、寅造が十二の時に孤児になり、乞食同然の暮らしで、ここまで辿り着いたということだった。

「親類縁者はどうしたの?」と、カネは尋ねたが、大火事の後の混乱の中、親類縁者を訪ねる知恵も、周りの人たちも他人の心配どころではなくなっていたのだそうだ。

カネは二人の身の上を気の毒に思い、少しの間、泊めてやろうと心に決めた。

こうして、奇妙な三人の暮らしが始まった。

カネも肺病病みの家と隣近所から敬遠されたこともあって、若い男たちとの少し賑やかな暮らしはまんざらでもない、と思える毎日であった。

ある小春日和の昼下がりのことであった。

トキが先日のお礼と、父親が元気になったことを報告するためにカネの家を訪れた。

「ごめんください。」と、戸口に立って挨拶すると、中から、見知らぬ男がぬっと現れた。

トキは思わず、悲鳴を上げた。

男は寅造であった。

慌てた寅造が家の中にトキの腕を引いて取り込んだ。

時ならぬ悲鳴を聞きつけて、近所の人たちが手に手に、棒切れなどを持ち、殺気だってカネの家を取り囲んだ。

事件は大きくなった。他所者が娘をさらって、家に飛び込んだ。

そのような事件になってしまった。

そのうち、役人までが出張って来て、娘を解放しろと言いだす始末になった。

寅造、巳の助二人も、家に入れば娘の命はないと、怒鳴った。

野次馬は群がり、遠巻きに囲んだ。

何事が起きたのかと、覗き込む中にトキの父親が近づいてきた。

彼は娘とは別の用事があって、この町中で別れて行動していた。

この家の主、カネも買い物をして戻ってみたら、我が家で大騒ぎになって驚いた。

二人は共に慌てて、人垣をかき分け、かき分け、前に乗り出してきた。

「寅造。巳の助。」と叫ぶのは、カネ。

「トキ。」と、我が子を案じた父親。

しかし、中からは絶叫した若い男の声がした。

「家に入ったら、娘を殺すぞ。」

カネは、我が家を背中にして、土下座し、興奮して取り囲んでいるみんなに向かって叫んだ。

「皆様。これは何かの間違いでがんす。落ち着いてください。」

そして、家の中に向かって。

「寅造。巳の助。その娘さんはおトキさんと言って、婆ちゃんの大事なお客さんなんだよ。だから、乱暴にしないでおくれ。」

トキの父親も、戸口に近づいて、大声で言った。

「トキ。慌て、騒ぐでないぞ。」

思わず、侍言葉が出てしまった。

この時、野次馬の中に侍姿の男が三人、きらりと目を光らせた。

「佐々木主水が見つかったぞ。」

その内の誰かが呟いた。

「しっ。」と、他の二人が制した。

この三人の様子を見ているもう一人の影があったが、誰も気がつく者はいなかった。

カネの家では変化が起きた。

戸が開いて、トキが飛び出してきた。

ざわざわと、野次馬も近所のみんなも、包囲を解いた。

「御心配掛けて、申し訳ございませんでした。ほら、寅造、巳の助。お前達も皆様にお詫びしなさい。」

家の中から二人が、のそのそと、姿を現してきて、神妙な格好をして、ぺこりと頭を下げた。

この恰好が、取り巻く群衆の心を和らげた。

「おカネさん。急に二人も孫が出来たかね?、タマゲタなあ。」

と、誰かが言ったので、皆はどっと、笑った。

人々が引き上げて、町はいつものように静寂に戻った。

カネは改めて、トキ親子を家に招き入れた。

家の中に入ると、何事も無かったように皆は打ち解けた。

それぞれが心の傷を抱えていたからであろうか、互いを温め合うには炉辺の灯りと温かさは有難かった。

カネは出来る限りのもてなしをしようと、買い物をしてきた酒や魚などを振舞った。

カネは上機嫌であった。

このように賑やかなことになったのは、十年以上も前のことであった。

うれしくて、涙を流しながら、歌い、手踊りをしたりするので、寅造も巳の助も、トキも、皆が手拍子打ったりして浮かれた。

時が過ぎ、夜が更けた。

トキの父親は改めて、娘が世話になった礼を述べて、カネの家を出た。

トキに好意を抱いた寅造が勝手に申し出たのが本当なのだが、夜道を心配して、若い男二人が供についた。

寅造は半月の照らす夜道の中を提灯をかざして、先に歩いた。

坂道のてっぺんに差しかかった時である。

松の木の蔭から三人の侍が飛び出して、一行の行く手を阻んだ。

「佐々木主水だな。」

侍の一人が叫んだ。

「お人違いです。父はこの狸沢の水飲み百姓で、吾助と申します。」

と、トキは叫んだ。

「よせ。」

と、主水は娘を制した。

「いかにも、拙者、佐々木 主水である。」

襲撃者は、叫んだ。

「脱藩者。佐々木 主水。上意である。」

三人の侍は刀の鞘を払った。

「冗談じゃねー。丸腰の男を斬るつもりか。それでもお侍か。」

と、寅造は主水の前に出て庇った。

「邪魔をするな。」

と、侍の一人が刀を振るった。

「あっ。止せ。」

と言う、間もなく、寅造は肩口を抑えて倒れた。

なおも、生き残った者を襲おうする三人。

その時、何処からともなく、六尺ほどの樫の棒が主水のところに飛んできた。

彼はその棒を受け取り、構えた。

「お手向かい致す。」

改めて、三人の侍は主水を取り囲んだ。

主水は正面の相手に向かい槍のように構えた。

残りの襲撃者たちは、左右斜め後ろに囲んだ。

手慣れた襲撃の陣形であった。

正面の相手を攻撃すれば、同時に背後の左右から襲うもので、絶対絶命の陣形である。

三人はいずれも練達者で、背後に廻った二人は脇構えを取った。

すると、彼等の背後から、声がした。

「二人の後ろに誰かいるぞ。」

そう言われて、背後に廻った二人が振り返った瞬間。

主水は、「得たり」と、正面の敵の間合いに入った。

相手が刀を引きよせ、振り下ろそうとする動作、いわゆる「起こし」の動作をするのに合わせて間合いに入ったのだ。

一瞬の出来事だったが、相手は後手に廻った。

「エイっ。」と、裂帛の気合とともに、相手の喉元をついた。

間合いに入れば、払う動作より、突く動作の方が早い。

払おうとした刀を無視するように樫の棒の先が喉仏に届いた。

棒の先は頚骨をも破壊したので、絶命した。

背後に廻った二人が正面に廻ろうとした。

主水は身を沈めて、樫の棒の長さが刀の届く間合いに勝るのを利用して、右側にいた相手の足を薙ぎ払った。

「ゴキッ」と、音がして脚の骨が砕けた。

思わず蹲った相手に容赦のない樫の棒が頭上に飛んだ。

「バクッ。」と、乾いたものが、割れた音がして、相手は転がった。

残るは一人になった。

最後の一人も最初の相手と同じ運命となった。

数秒の内に三名の襲撃者はすべて絶命した。

やや、あって、主水は怪我をした寅造とトキ、巳の助のもとに戻った。

三人はこの間の出来事を唖然として眺めていた。

「傷は如何じゃ。」

主水は侍言葉を隠そうともせずに寅造を心配して、抱き起した。

そこに、後ろから百姓姿の男が声を掛けてきた。

「幸い,浅手で良かったな。血止めと焼酎で傷は治りますよ。」

灯りを手にして覗きこんだのは太一であった。

「先ほどはたいそうなご助勢を頂き、ありがとうございました。」

と、主水は振り返って礼を言った。

「いや、いや。余計なおせっかいをいたしました。」

「この者どもは、三人一組では仕留めそこなうことのなかった手練者です。蔭からのご助勢なければ皆殺しになっておりました。」

それ以上は、二人とも何も言わなかった。

太一は主水が並々ならぬ手練者(てだれもの)であるのを実感した。

一行は主水の家に着き、寅造の傷の手当をした。

手当をしながら、主水は自分たちを襲ってきた三人のことを思い出した。

あれは、三年前。

それまで長く続いたお家騒動もようやく治まり、藩内が落ち着いたと思った頃。

冷害が藩領土の大部分を襲い、前例のない飢饉となった。

もともと、この藩は米作には不向きな土地柄で、百姓だけでなく、武士も町人も雑穀を食いつなぐような土地柄であった。

しかし、百姓に対する年貢の徴求は過酷を極め、餓死する者、逃散する者が多く出た。

主水は、二百石の知行地を領していたが、いち早く、私財を投げ打って、領民を助けた。

更に、他藩や商人から食糧を購入して藩内すべての領民の災難に対処すべく、上申しようとした。

この藩は米作こそ他藩に比べて微々たるものであったが、水産、林業、馬産、漆などの名産地であり、財政はそれほど逼迫していない筈と思った。

しかし、主水が自分の立場で調べたところ、何者かの手によって、藩の公金が横領され、藩の財政も逼迫していることをはからずも知ってしまった。

これをさらに調べようとした時であった。

城中で、普段は付き合いもない家老の熊谷太郎左衛門から声を掛けられた。

熊谷は、主水が領民のために手を尽くしていることを褒め、その他貴重な意見を伺いたいから、一席設けたい、と誘って来た。

主水は領民が塗炭の苦しみの最中にそのような席を設けてお褒めいただくのは憚りますと遠慮した。

彼は、家老が顔色を変えたのを気が付かなかった。

我が家に帰り、妻のセキと娘のトキを見ながら、夥しい餓死者の身の上を思っていた。

書院に戻り、調べ物の整理を行っていた時であった。

妻のセキは客人が来たと知らせに来た。

客は熊谷の配下であった。

用むきは、ご家老に対する非礼を詫びろとのことであった。

主水は非礼があれば、謝りたいと申し述べた。

客はさらに、主水が藩の財政について、調べているようだが、僭越ではないかと詰め寄った。

役目柄、僭越とは思えないと、反駁した。

激昂した相手が刀の柄に手を掛けた。

主水はこれを制して、穏やかに言った。

「刀を抜かれるおつもりか?侍が刀を抜くのは君命がござったであろうな。抜けば君主のために相手を仕留めるまで止められませんぞ。」

相手は渋々、刀の柄から手を放して、引き上げて行った。

数日後、主水は隠居した両親のもとへ妻とトキを伴って外出した。

両親は孫娘に会い、喜んでもてなしてくれた。

つい、長居をして、夜になった。

我が家に入ろうとした時であった。

覆面をした三人の男が家から飛び出してきた。

主水が誰何するまでもなく、男たちは立ち去っていった。

書院に入って、驚いた。主水が調べ物をしていた書類が散らかっていた。

ここまでして、自分たちの放埓な無法を隠そうとしている者が藩中にいることに腹が立った。

秘かに藩内を抜け出し、江戸表にいる同志に相談しようと旅立とうした。

旅支度をして、家を出ようとした時であった。

侍が三人、門内に入って来た。

「佐々木主水。何処へ行く気だ。」

「いや。天気もよいので山駈けでもしようと思ったので、何か御不審か?」

「黙れ。秘かに藩内を抜けようとしているに相違ない。我等と同道せい。」

「これでは、まるで咎人扱いではないか。」

「同道せねば、こうなる。」そう言って、いきなり一人が切りつけてきた。

これを制しようとした妻のセキの首に刃先が廻った。

刃先は頸動脈を切断し、セキは絶命した。

驚いたのは侍たちであった。

思いもかけない事故であった。

「おのれ。」と、主水は絶叫し、得意の短槍を構えた。

主水の短槍は家中では知らぬ者はないほどの腕前であった。

短槍は六尺ほどの太めの棒に短めの槍が付いたもので、持ち運びにも重宝で、刀よりも間合いが遠く、棒術の技に加えて、突く速さを極めれば強力な武器である。

一対一では剣術に勝る。

藩内の試合でも、その技に敵(かな)う者は無かった。

裏庭から、主水の屋敷の家の子、郎党がおっとり刀で駆けつけてきた。

三人の男たちは流石に多勢を敵にして不利な情勢となったので、踵を返して退散した。

思わぬ災難に主水も従者たちも、トキも悲嘆にくれた。

すぐさま、身に降りかかった暴挙について、目付筋に訴え出たが、数日待てとの答えだけであった。

数日後、藩庁から思いもよらぬ答えが返って来た。

佐々木主水に対して、反逆の疑いがあり、出頭するようにとの達しが出た。

これには、主水主従は自分たちに向けられた理不尽で不公平な扱いに憤激し、やりきれない仕打ちを許すことが出来なかった。

悲憤慷慨などと、言う言葉で説明できない怒りで、彼等一党を根絶やしにせずにはいられない感情を持て余した。

さりとて、感情のままに行動を起こせば己の一族から、妻の縁者にいたるまで、危難が及ぶだろうとも思った。

主水は飢饉に何も手立てを打たないどころか、内部での勢力争いに終始し、こんどは藩の財政を私して、それをもみ消そうとするこの藩の武士につくづく愛想が尽きた。

従者も主水の知行地出身であり、この地を捨てて、逃散する百姓衆とともにこの地を捨てた。

そして、苦難の中、国越えをした末に助けの手を差し伸べて来たのが平右衛門であった。

昨夜のことがなければ、思い出したくもないことであった。

妻のセキを殺害したのが、あの三人であることを思い出し、彼等を殺害するのに躊躇はしなかった。

むしろ、妻の仇が打てる天運が降って来たと、内心、喜んだくらいであった。

朝になり、主水は名主のもとへ出頭し、昨夜、三人の男を殺めたことを告げ、定法に従い罪に服したいと申し出た。

名主、渡辺平右衛門は苗字、帯刀を許されていた。

平右衛門は昨夜の事件の現場に行き、三名の侍が絶命しているのを確認し、身元を確かめたが、身元を証する書きつけなどは持ち合わせていなかった。

主水は改めて、自分は隣藩の元家士で、佐々木主水であると名乗り、これらは脱藩者である自分を上意により討ちにきた者であると告げた。

平右衛門はもとより主水の素性を知った上で小作人とした経緯もあったが、藩庁に手紙をしたため判断を仰いだ。

平右衛門は三年近く前の飢饉のとき、北の国から来た難民にお救い米を施したり小作人として雇ったり手を尽くした経緯がある。

その中で、飢饉のため逃散してきた百姓を伴って逃げて来たのが主水親子であった。

見かけは百姓だったが、人品卑しからぬ様子を見て何か事情があるのだろうと思い、人柄に惹かれて小作人としたのだった。

藩庁の役人は平右衛門の訴状を見た。

元来、脱藩者の上意討ちは自領内では出来るが、他領にあれば治外法権となり、預かり知らぬことであると判断した。

仇討のように赦免状を示せば他領での殺人は合法となるが、他領で認めなければ他の藩の上意討ちなどは単なる私闘と看做(みな)された。

念のためということで、主水に対しての脱藩者誅殺の上意が出されたかを秘かに調べたが、出された形跡もなかった。

隣藩に問い合わせたが、三名の者は大水の時、川に流され、とうの昔に死んだ、という答えであった。

また、三名の支配筋の者も先日病死ということであり、それ以上のことは詮索無用とのことであった。

なにやら、深い理由があるものと察し、これ以上の問合せは諦めざるをえないようであった。

藩庁から出された結論はこうであった。

「三名の者は野盗の類と思われ、夜中、里人を襲ったのであり、殺害せしはお構いなし。」

かえって、野盗征伐の報償として、金一封がくだされた。

名主の情けを受け、百姓として、この地に受けいれられた恩を仇で返すことになった責任を痛感し、自らの命を絶つことも覚悟していた主水に対して、思いがけない結果となった。

これには名主の平右衛門も、娘のトキも、寅造、巳の助そして、カネも我が事のように喜んだ。

一人、主水は手に掛けた三名の侍が上役の密命の犠牲になったことを哀れみ、墓を建て、丁重に菩提を弔った。

それを見て、平右衛門は主水の心根に感心した。

平右衛門は村に寺子屋を作り、主水に村の子供たちへ読み書きの指南してくれるよう頼んだ。

傷が癒えた寅造、巳の助は主水たちの家に迎え入れられ、小作人として働くことになった。トキは二人の男兄弟が出来て幸せであった。

やがて、春が来て、夏が過ぎ、秋が終わり、冬が訪れる頃。

商人姿の男が一人、主水の家を目指してやって来た。

小春日和の日差しの中で、薪を運んでいた巳の助はその男を見つけた。

懐かしい顔があった。

「チャン。」

思わず、巳の助は叫んだ。

その声を聞いた男が涙を浮かべながら、笑いかけた。

「巳の助か。」

二人は駆け寄って、抱き合った。

声を聞きつけて、主水もトキも寅造もやってきた。

男は、主水を見かけて、笠をはずし、道中合羽を脱いで、頭を下げた。

「私は巳の助の父親の仙蔵と申します。

長い間、巳の助がたいそうお世話になりました。本当にお礼の言葉もございません。」 主水は仙蔵を見ながら言った。

「御丁寧な、挨拶、恐れ入る。巳の助も寅造にもかえって、こちらが世話になったくらいです。」

この時、仙蔵は寅造に気がついた。

「寅造もここにおったのか。お前の親父はてっきりあの火事で死んだものだと思っていたぞ。」

寅造もびっくりしたり、喜んだりであった。

仙蔵はここに息子がいることを知ったのは、偶然であった。

平右衛門が秋の終わり頃、江戸に出たついでに、江戸の大火で孤児が大勢出たこと、それらが親子離れ離れになったことを知った。

ある一杯飯屋で、仙蔵が行方知れずの巳の助のことを仲間内でこぼしているのを聞きつけたのだ。

大きな声で嘆いていたので、聞くともなしに聞いていると、主水のところにいる巳の助の身の上にそっくりであったそうだ。

平右衛門は仙蔵のところに行き、問い質したら、間違いなく、巳の助本人のことだと分かった。

実は、これこれで、巳の助は主水のところにいると明かした。

仙蔵は、平右衛門の後を追うようにしてここにやって来たという。

寅造の父親も母親も、巳の助の母親も江戸の大火で散り散りになり、諦めていたのだということで、大喜びであった。

平右衛門もまた、これに過ぎたことはないと大いに喜び、カネも呼び、みんなで祝った。

カネはまた、歌い、踊った。

平右衛門の家からも大勢の人が祝いに加わり、若い女たちも加わった。

さながら、季節はずれの盆踊りのように賑わった。

祝いの中で、寅造はトキのことを思った。

トキも寅造のことを好意を抱いていた。

しかし、トキは父親の老い先を考えると、寅造の後を追って行くことは出来ないと思った。

「寅造兄ちゃん、おトキちゃんと江戸に行って、所帯を持たないのかい。」

と、祝いの中で、巳の助が酔ったふりして茶化した。

トキは真っ赤になって、言った。

「お江戸の人は私には吊り合いません。この地の人と一緒になると決めていますから。」

すこし、気まずい空気が流れたが、寅造はひとり頷いて何も言わなかった。

寅造の目に光るものを、トキも涙ぐみながら眺めていた。

祝いが過ぎて、数日後、寅造と、巳の助は仙蔵に伴われて江戸に帰った。

村境まで、主水とトキたちは江戸へ帰る三人を見送った。

トキは三人の姿が見えなくなるまで、千切れるように手を振っていた。

寅造もいつまでも、手を振って応えていた。

寅造たちが江戸に帰ってしまった頃、トキはカネの家に来ていた。

雨氷がまた、降った。

柳が芽を吹こうというころなのに突然の寒気がやってきた。

柳の芽は筆のような新芽を出そうとする上に氷の花を咲かせた。

梅も桜も枯れ木の枝にきらきらと光る水晶の花を咲かせた。

風が氷の琴を美しく鳴らしていた。

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