後編 完全勝利! 未来はサクラの手の中! 

 浮遊型の広告をしゃがんで回避し、地雷型の広告をステップで避け、追尾型の広告をフェイントでけむに巻く。体はぼくの思い通りに動いてくれた。ぼくはカナダ人とスポンジバットで殴り合っていたころのテンションを取り戻している。

 町田市、芹が谷公園、虹と水の広場。かつての谷戸の姿がしのばれる急斜面の底にあるだだっぴろい空間だ。犬派は多くの犠牲を払いながら町田市の奥深くに侵入し、このポータルをものにした。

 猫派は犬派のポータルを順次叩き潰して補給路を断ってから、満を持して魔法少女サクラを虹と水の広場ポータルに送り出した。

「ダイヤルメイス!」

 群がる戦闘員を、妻は高速互い違い回転メイスで片っ端からすりおろしていた。ぼくはその様子を木陰から見た。妻の戦う姿は美しい。あとで絶対に動画を観ようとぼくは決めた。

「おかしい。ポータルの所有権が移らない」

 戦闘員を全員やっつけた妻が、首をかしげる。ぼくはどきどきしながら妻の前に姿を現した。

「ぼくがやったからだよ」

 さっきまでポータルの所有権を持っていた男を、引きずりながら。

「……あなた、悪食ね」

 妻の襲撃前にポータルを襲い、所有権を持っている男だけを暗殺する。この演出は控えめに言って大成功だった。怒りにとらわれた妻は、ぼくが夫であることなど想像もしていないだろう。

「どうしてこんなことをするの? なんのために?」

 妻が問う。

「君たちの戦いは無益で無意味だ。そのことを教えたいのさ」

「そう、驚いたわ。ただの冷笑派だったのね」

 聞く耳を持ってもらえるとは思っていない。どうせぼくはポストモダン的ブルシットだ。

「ねえ、ひとりで戦うのって退屈じゃない?」

 妻が予想外のことを言ったので、ぼくはたじろいだ。

「わたしは猫派に入ってから、変わったわ。ここには志を同じくする仲間がいる。本物の絆があるのよ。わたしたちなら、あなたを救えるかもしれない」

 妻は目をきらきらさせていた。現実を突きつけられたぼくは、涙が出そうになるのをこらえた。本物の絆だって? それじゃあぼくとの結婚生活はなんだったんだ?

 戦ったところで、なにを得られるというのか。ぼくはただ、妻のためになにかをがんばったのだと自分を納得させたいだけだ。ひたすら動画を観て、妻のことを考えて、戦うと決めて、それが贖罪になると思いたかっただけだ。最初からそんなことは分かっていた。

 ぼくはだまってリデンプションのトリガーを引いた。ばらまかれた銃弾を妻はウイッシュキーで切り払った。

 妻は哀しげに目を伏せた。ぼくは同情されていた。

「すべてが終わったら、また話しましょう。ディンプルソード」

 高機動形態に切り替わった妻が、剣を片手に突っ込んできた。この速度にぼくは対応できない。だが――

「スキャッター!」

 ショットガンの面制圧力なら、狙いをつける必要はない。妻は空中を蹴った。軌道を変え、大きく回避しようとする算段だろう。その意思決定の速度にぼくは舌を巻く。

 切り返しの瞬間に生じた大きな隙を、ぼくは見逃さない。

「バラージ!」

 サブマシンガンが貫通力の高い銃弾を吐き出す。まともに喰らった妻は真後ろに吹き飛び、地面を転がった。

「トーチ!」

 すかさず追撃する。闇色のマントをはためかせて加速し、炎の刃で一気に切り込む。

「ウォードブレード!」

 妻は基本形態にチェンジし、ウイッシュキーでトーチと切り結んだ。刃の接触面に虹色の火花が飛び、ぼくたちは至近距離でにらみ合った。

「あなたには、命をかけて戦うべきものがないの?」

 妻が言った。

「わたしにはあるわ。チャタローを殺した犬派を、わたしは絶対に許さない」

 いなくなった猫の名を妻が呼ぶ。チャタローはべつに、犬派に殺されたわけではない。ある嵐の夜、雷の音にびっくりしてベランダから飛び降り、それっきりいなくなっただけだ。だが妻は被害者のポジションを手放そうとしないだろう。ぼくが妻を奪われたあわれな男でいたかったのと同様に。

 ぼくは肩当を握る手にありったけの膂力を込め、妻を押し返した。

「スキャッター!」

 至近距離から散弾を叩き込む。かろうじてウイッシュキーで防御する妻だったが、散弾のかすった肩当が砕け散り、白く輝くパーティクルとなって飛び散った。

 ぼくは散弾を連射しながら妻に歩み寄った。妻が顔をゆがめている。ぼくは猛烈に後悔しながら、後ろ暗いよろこびに酔った。

「あくまで一人で戦うのだったら」

 妻が小さくつぶやいた。

「見せてあげるわ、絆の力を……! ウイッシュリング!」

 妻の体が光に包まれ、ぼくはとっさに目を閉じた。

 目を開くと、妻の姿はこれまでに見たことのないものとなっていた。

 桜色と青とオレンジのラインが走ったワンピースドレス。手にしているのは、小さな鍵束。

 次の瞬間、ぼくは超高速で接近した妻にぶちのめされ、気づくと芹が谷公園の端にいた。


 『VS悪食! 魔法少女サクラ、ニュースタイル!』

 それが、ぼくと妻の戦いを収めた動画のタイトルだった。

 ディンプルソードのスピードとダイヤルメイスのパワーを兼ね備えた最強の新形態、それがウイッシュリングだ。妻は、高い信用スコアとポータル所持数によって獲得した大量のドミニオン・クレジットを、ルートボックスにつぎ込み続けたのだろう。絆の力とは言いえて妙だと、ぼくは妻の利発さに感動した。

 なにかする気力はまったく起きなかった。あの敗戦から三日、ぼくは一日の半分を眠って過ごした。窓という窓の雨戸を閉め、最高性能のノイズキャンセリングヘッドホンで雨の音を聞きながらひたすら眠り続けた。たいていの時間は悪夢か、目覚めてから死ぬほどうんざりするような幸せな夢を観た。それでも起きているよりはましだった。眠っていようが死んでいようが、ぼくと妻のタスク管理アプリは勝手に夫婦生活を偽装してくれる。

 だがやがて、その辺にあるものを拾って食べる家庭内狩猟採集生活にも限界が訪れた。ぼくはシャワーを浴びて髭を剃り、しっかり歯を磨いてから家の外に出た。たちまち追尾型広告がぼくに襲い掛かった。避ける気力はなかった。ぼくは浮遊型広告に触れ、地雷型広告を踏んだ。エレベーターの中で身長三十センチぐらいの妖精に飛び掛かられた時はさすがにぎょっとしたが、どうやらそれは新しい広告だったらしい。妖精はぼくを素通りし、エレベーターの床に吸い込まれていった。

 異変に気付いたのは、ワンダラーゴーの自動ドアがぼくに反応しなかったときだ。故障かと思ってドアに触れると、けたたましい警告音が鳴り響いた。『進入禁止』という文字列がぼくの視界いっぱいに表示され、高速で点滅した。

 手を引っ込めると、警告音も文字列もただちに消え去った。ぼくは駐車場でしばらく途方に暮れた。

 それからようやく、不法ポスティング広告に触れてもなにも起きなかったことに思い至った。

 ぼくはマンションに取って返し、ありとあらゆる広告に触って回った。なにも起きなかった。ちょろちょろ逃げ回るポップアップウインドウは現れなかったし、だれもぼくの資産をシンガポールの不動産につぎこもうとしなかった。ゲームアプリが勝手にインストールされて、扇情的な格好をしたエルフ女性が目の前でポールダンスを踊ることさえなかったのだ。

 家に戻ったぼくは、信用スコアの閲覧アプリを立ち上げた。月頭の更新で、ぼくのスコアは三六〇まで落ち込んでいた。ほとんど最低に近い。このスコアでは、無人コンビニも電子決済も利用できない。

 なにが理由なのか、まったく分からなかった。三日間ふて寝していたぐらいで、ここまでスコアが劇的に落ちるとは考えられない。夫婦関係の破綻がばれたのだとすれば、妻のスコアだって相応に落ちているはずだろう。しかし妻はそんな動画をアップしていない。もしスコアが落ちるようなことがあれば、犬派の陰謀だと声高に騒ぎ立てるはずだ。

 万涤尔集団のエコシステムから弾き出される一歩手前ということだけが、ただ一つはっきりとした事実だった。

 ぼくはひとつひとつ、自分に残されたものを確認していった。ワンダラーチューブ、ワンチャット、ドミニオンは問題ないが決済にワンダラーペイは使えない。車・自転車シェアリングサービスのワンダラーシェアリング、通販サイトのワンダラーECはアウト。

 ぼくはATMを探すのにまる一日を費やした。いま東京都に存在するATMの数は五千台ほどらしい。最近は見かけないなと思いつつ、さして困らなかった。久しぶりに現金を持ち歩いたけれど、落としたり無くしたり奪われたりする恐怖が付きまとって、ものすごくうっとうしかった。

 この上、現金決済可能な小売りを探し出さなければならないのだ。ぼくはげっそりした気分でマンションの前の生垣に腰を下ろし、頭をかかえた。

 なにかが太ももの上に載ってきて、ぼくはぎょっとした。顔を覆っていた手をずらすと、そこには小汚い猫がいた。

「チャタロー?」

 嵐の夜にいなくなった、ぼくたちの猫に間違いなかった。ずいぶんと痩せてはいたけれど、マズルにある黒い斑点はまちがいなくチャタローのものだった。

 チャタローは地面を払うように尻尾を振って、ちいさく鳴いた。


 現金を受け付けている小売りはGMSぐらいだった。ぼくは駅前のSEIYUで猫のエサを買い込んだ。かかりつけの獣医にひたすら頭を下げ、なんとか現金でチャタローを診てもらった。数か月にわたる野良での生活は、チャタローの健康をいささかも損ねなかった。

「運がよかったですね。野良ちゃんになると、肝臓をやられちゃうことがあるんですよ」

 獣医さんはチャタローを撫でた。

「これ、あの、おなかの皮がだるっだるなんですけど、大丈夫なんでしょうか?」

 ぼくが問うと、獣医さんは柔和な笑みを浮かべた。

「ああ、猫ってこういうもんですよ」

 獣医さんはチャタローのおなかをたぷたぷした。真似してやってみたらとても触り心地がよく、チャタローもまんざらでもなさそうだった。

 現金での支払いを受け入れてくれただけではなく、獣医さんはノミ取りシャンプーと櫛をサービスしてくれた。ぼくは涙を流して獣医さんに感謝した。

 シャンプーとブラッシングによって、薄汚い毛玉のかたまりは家猫の姿を取り戻した。ぼくは妻にメッセージを送った。

『チャタローが帰ってきた。見に来ないか』

 あれこれ悩んだ末に、送信できたのはこの短い文章だけだった。『帰ってこい』とか『くだらない争いを今すぐやめろ』とか、そんな風には言えなかった。妻は本物の絆を猫派の中に見出していたのだ。

「ただいま」

 だがメッセージを送ってから数十分後、妻はあっさり帰ってきた。昨日も一昨日もそうだったでしょ? とでも言いたげな顔で。

 すりよってきたチャタローをつまさきでぞんざいに撫でてから、妻はリビングをうろうろした。

「ねえヘッドホンどこだっけ。ノイキャンの、有線でも使えるやつ。ソニーの」

「え? あー、あ、あの」

 ぼくはすっかり取り乱していたので、なにも答えられなかった。

「飛行機乗るから、久しぶりに」

「どっ、ううん」、ぼくは咳払いした。「どこに?」

「とりあえず香港。猫派と犬派が軍事衝突してるみたいで」

 妻はものすごく簡単に言った。

「ヘッドホン、あの、寝室だから」

「あ、使った? いいでしょあれ」

「うん。音がえらく消えるねあれ」

「飛行機乗るから。日本に帰ってきたとき以来じゃない?」

「そうかも」

 妻は寝室に消え、ヘッドホンを手に戻ってきた。

「じゃあねチャタロー。いい子にね」

 チャタローを撫でると、妻はすぐに家を出て行った。

 

 たぶん、なんでもよかったのだ。猫と犬でも、たけのこときのこでも。ぼくたちは争いたかった。ぼくも共同経営のカナダ人も、それを理解していたからドミニオンを作ったのだろう。人類が生じてこの方ずっと争う方法を洗練していったのと同じで。

 魔法少女サクラは香港での勝利を皮切りに、戦いの舞台を世界に移した。中東は猫派が多いとはいえ、楽な戦いにはならないだろう。それでもサクラならば、きっと勝利を重ねるはずだ。ぼくはそう信じている。

 ぼくの信用スコアは、あいかわらず墜落寸前で低空飛行していた。今では信用スコアが下がった理由もなんとなく理解している。それはぼくが彼らの言う通り、冷笑的なブルシットだからなのだろう。それでも、チャタローにおいしいごはんを与えたり動物病院に連れて行ったりすることはできた。

 かかりつけの獣医さんが、どんどんやつれていくぼくを見かねたのか、犬の里親にならないかと声をかけてくれた。

「人には守るべきものが必要です。もちろん、守られることも。犬はあなたをどちらの立場にもしてくれますよ」

「猫はどうなんですか?」

「猫はわたしたちと無関係ですから」

 獣医さんはそう言って笑った。ぼくも笑った。


 生後四か月のアメリカンコッカースパニエルに、ぼくはチャジローという名前をつけた。垂れ耳がチャタローそっくりの甘茶色だった。

 ケージのふたを開けると、飛び出したチャジローはまっすぐチャタローめがけて走っていった。ぐるぐる回ったあと、チャタローの顔を無遠慮になめまくった。

 立ち上がったチャタローは食器棚に飛び乗り、横たわってぼくたちにお尻を向けた。無関心の洗礼を浴びたチャジローはしばらく呆然としたあと、ぼくに飛びかかった。

 ぼくはチャジローを抱き上げて、チャタローを見上げた。食器棚から垂れたチャタローの尻尾が、掃くように揺れた。すくなくとも、まったく歓迎していないわけではないようだ。

 興奮したチャジローに顎をなめられながら、ぼくはチャタローの尻尾が揺れるのをいつまでも眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法人妻サクラ 中野在太 @aruta_n

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ