第五章-54
我は先ず総ての人間をPネットに閉じ込めた上で、ゆっくりとDゲートを用いて此の世界を侵食為ようと考えて居た。意思を持たぬ草木等はどうとでも為ると考えて居たからだ。そう《灰色之者》は語った。
「ところが……」
「……誰もがPネットに入るわけじゃなかったんだな」
「御前の言う通りだ」《灰色之者》はゆっくりと、深く頷いた。「我は焦った。我は残り僅かな力をPDAに注ぎ込む余り、生命を保つという事を軽んじて居たのだ。命の火が日に日に消え行くのが解った、にもかかわらず人間はPネットに身を託す事を拒み続けて居た。我は死にかけた人間を強制的にPネットに取り込むようなシステムを構築為た。一度Pネットに入った者を二度と逃さない様にも為た。Aスーツの機能を操作する事で此れ以上新たな人間が産まれ無い様にも為た。我の目的に心酔為たと云って近付いて来たミハイルに、世界中で人間を襲わせ、世界中に放射性物質を撒き散らす事を以て、人間の間にDゲートを使う流れを起こさせようと迄為た。其れでも世界には人間が蔓延り続けた。延齢技術を用いて寿命を延ばす事を覚えた人間さえ増え始めた。其れに対して我はと云えば、気が付くと最早幾許も寿命が残されて居なかった」
「それで、最後の手段として強制的なデータ化に踏み切った、と」
《灰色之者》が語ったのは、まさに人智を超越しているとでも言うべき、信じられないような話だった。それでもタイマなりに考えてタイマなりに理解した。理解した上で、理解できないと結論付けた。
「ふむ……一ヶ月の猶予は、告知することで人々に自発的にDゲートを使うよう踏み切らせ、少しでも負担を減らそうとしたんだろうが、裏目に出たな。気の毒だ、あんたの希望はもはや潰えたよ、社長さん。今もなお、あんたのPネットから人間が続々と脱出してきている。この流れは誰にも止められない」
「……」
《灰色之者》は下を向いた。その顔には何の表情も浮かんでいない。黙り込み、抜け殻のようになった《灰色之者》を、タイマもまた無表情で見下ろした。それから、踵を返して出て行こうとした。それを《灰色之者》は呼び止めた。
「我は、四十六億年も待ったのだぞ……」
「こちらは三八十億人掛けることの百年で三兆八千億年だ」タイマは《灰色之者》に背を向けたまま、冷たく言った。「あんた一人の目的のために、犠牲になっちゃやれない。諦めてくれ」
「諦めよと云うのか……」
《灰色之者》はタイマの背中になおも呼びかける。
「諦めて、此の異邦の地で、
失意の儘、惨めに死んで逝けと云うのか。
たったひとつの願いの為に、四十六億年の孤独を耐え、
救われる事も無く、許される事も無く、
誰にも愛されず唯々生きて来たと云うのに、
其れでも、何を成し遂げる事も出来ずに、
此の儘水泡の様に消え逝くのみだと云うのならば、
そうだと云うのならば、
我は一体――何の為に居たのだ?」
最後の言葉を聞くまで。
タイマはずっと、捨て鉢になった《灰色之者》が強制的なデータ化に踏み切ろうとするのではないかと警戒していた。
しかし、このとき初めてタイマは、これで終わりだ、と思った。
この人は、空っぽだ。これ以上何も起こせやしない。
「あんたが何のためにいるかだって?」タイマは静かに語った。「何億年もの間自分と向き合ってきたあんたにわからなけりゃ、俺にわかるわきゃねえだろ。……何、気にするな。俺だって、自分が何のためにいるのかわかりゃしない。きっと、誰にもわかりゃしないんだ」
神でもなく不老不死でもないタイマに、それ以上掛けられる言葉など見つかるはずもなかった。せいぜい、さっさと他に何か生き甲斐を見つけてりゃよかったな、と同情するくらいである。あるいはそれこそが、人間にできて神にできないことなのかもしれない。
さよなら、とタイマは心の中で呟いた。きっともう会うことはないだろう。そうしてタイマは仲間たちの元へ戻る第一歩を踏み出そうとした。
そのとき、タイマはPDAを装着した左手の甲に、これまでにないような違和感を覚えた。
何かが起こる、という半ば恐れにも似た予感に、タイマは目を見開いて振り返った。
見ると、《灰色之者》とタイマとの間を遮るようにして、Dゲートが空中に浮かんでいた。
「例え他の人間の全てが、自分の存在の意味を知らなかったとしても」
聞き覚えのある声。
「俺だけは知っている」
緑の髪。
「俺の存在理由はただひとつ」
紫のウインドブレーカー。
「《灰色之者》という存在を」
いくつもの鎖が垂れ下がったジーンズ。
「この世から永遠に抹消することだ」
狂気さえ孕んだ、おぞましい声。
「それは例え、クォークの一粒、レプトンの一欠片に至るまで」
タイマのDゲートから出てきたシャークは、ロボットのように右腕をまっすぐ前に突き出していた。その手に握られているものは――
「やめ――」
シャークは引き金を引いた。
PDAを持たない《灰色之者》のためにDゲートが現れることはなかった。銃弾と爆風とに吹き飛ばされ、それから落下し、《灰色之者》はぼろ切れよりもみすぼらしい姿でスーパーコンピュータの操作パネルの上に横たわった。
「くはははははっ……」
一目見て、シャークは笑い始めた。ミハイルの銃をそのへんに放り捨て、両腕を空へと広げて、哄笑しながらさも嬉しそうに歩き回った。タイマはその様子をただ震えて見ていることしかできなかった。
「バカめ、相手がタイマ一人だと思って油断しやがって! OS1はひとつの世界にふたつ、だろうが! くははははは! 愉快だ! 死ぬほど愉快だ! 喜んでくれるよな、イサ。八十六年だ。八十六年かけて、俺はついにここまで来られたんだ。今日はあッ! 生涯最高の日だッ! くっ……くくっ……あはははははっ……」
シャークは窓際へと向かった。そして空を見上げ始めた。口をもごもご動かして、ぶつぶつと独り言を言っている。
「でもまだ終わりじゃない……最後までやり遂げなければ……」
これ以上は、見ていられない。
シャークの心に充ち満ちた、正気を失うほどの憎悪を思うと、タイマは戦慄を禁じ得なかった。いったい人の身は、特定の誰かをここまで憎めるものなのだろうか、とそう思った。
彼を限りない憎しみから救うには、イサが生きていることを伝える、それ以外に方法はきっとないだろう。震える足をおして、シャークのそばへと一歩近づく。
そのときだ。上空に何か妙な物体が見えた。
正確には、ミハイルがくれたコンタクトレンズにその情報が映った。
「あれが何だかわかるか、タイマ」気が付くとシャークがタイマの肩の上に手を乗せて、その方向をもう一方の手で指さしていた。「そうとも、水素爆弾だ。バーサーカーと名付けた。じきにあの子がここまでやってきて、《灰色之者》を永久に葬り去ってくれる。それで全てがおしまいになる」
反射的に腕が動いていた。
スイカが割れるような音がして、シャークが地面に倒れ伏す。シャークのPDAの電源は切れていたのでDゲートは発動することなく、唇が切れて血が出た。にもかかわらず、殴られたシャークは床に転がったまま、腹を抱えて笑い出した。
「おおいてえ。おまえなあ、普段だったらいきなり殴るような奴は半殺しだぞ。だが、いいさ。特別に許してやろう。恩赦だ。何せ今日は目出度い日だからな。俺の生涯を掛けた宿願がもうすぐで叶うっていうんだ。殴られるくらいなんてことないさ。だろ? くははははは……」
シャークは口から血を流しながらもなお笑い続けていた。ところが、彼はしばらくして突然真顔になった。
「待てよ。俺の存在理由が《灰色之者》を殺すことなら、これからそれを成し遂げた後、俺は、何のためにいるんだ?」
心から不思議そうな顔でシャークは首をかしげていた。そして、地面に倒れたとき脳震盪でも起こしたのか、それともひょっとすると何か別のおぞましい理由があるのか、次の瞬間ガクッと頭が落ち、彼は意識を失った。
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