第五章-53



 それからというもの、社員が物陰から現れることは二度となかった。下に何万という人がいることなど嘘に思えてくるほど、廊下はしんとしていた。


 あっけないほどすぐに社長室にたどり着く。


 開け放たれていた扉から中に踏み込む。


 部屋は世界最大の企業の社長室とはとても思えぬほどこぢんまりとしていた。左に窓、右に僅かばかりの家具。奥にはPDAのシステムに関連していると思われるスーパーコンピュータ。


 そして、部屋の中央に《灰色之者》の姿があった。


 《灰色之者》はスーパーコンピュータの操作パネルにもたれて、だらしなく地面に座っていた。タイマが一歩踏み出すと、《灰色之者》はこちらを見上げた。灰色に曇った、感情を読み取りがたい目だった。髪はぼさぼさだし、服はぼろぼろだった。常識に照らし合わせれば、社長のあるべき姿とは言えない。にもかかわらず、その容姿がタイマには何となく似つかわしく思われた。


 いざ実際に全ての元凶を前にして、タイマは言うべき言葉を見出せないでいた。しばしの沈黙の後、《灰色之者》はタイマを見上げる体勢のまま、ゆっくりと口を開いた。


「OS1乎。我を殺しに来たのだな」


 それはこれまでに一度も聞いたことのない種類の声だった。時間だ、とタイマは思った。その者の口からは、声のかわりに時間が流れ出しているような印象を受けた。その者が息を吐くたびに、数千年、数万年、数億年という時間そのものが、そのままの形で流れ出しているような、そんな気がした。タイマはその不可思議に対してどう反応すべきかを知らず、ただ黙って次の言葉を待つしかなかった。


「我は最早死を知る人の身也。殺したくば試してみるが佳かろう」


「……俺は」


《灰色之者》を相手にしていると、息が詰まりそうになる。咳払いを何度かして、ようやく言葉を口にすることができた。


「人殺しをしに来たんじゃない。あんたと話をしに来たんだ」


 それを聞いて《灰色之者》が僅かに目を細めた。少なくともタイマにはそう見えた。


「あのさ。Dゲートを使って、世界をまるごとPネットに引きずり込もうとしてるのはあんただろ。それを、やめてほしいんだ」


 この言葉を《灰色之者》にぶつけて、計画を中止させること。それこそがここ数週間におけるタイマの最大の目的だった。しかし、《灰色之者》に相対して、いざそれを実行してみると、自分がとんでもなく幼稚な主張を行っているような気がしてきてならないのだった。


 この感じは何なのだろう、とタイマは訝しんだ。威圧されているわけではない。《灰色之者》は身も心も老いさらばえた、ただの老人に過ぎないのだ。にもかかわらず……。


 そこまで考えて、タイマははたと自分の感情の正体に気付いた。


 これは畏怖だ。


 少しでも意思が緩めば、跪いて床に頭をすりつけそうになる自分に気付き、タイマは愕然とした。タイマは生まれてこの方、誰に対してもこれまで畏怖など覚えたことがなかった。だからこそ、自分に未知の感情を与える《灰色之者》がタイマには恐ろしかった。


「御前が我の計画を望まぬ事は解した」《灰色之者》は静かに言った。「然れど止める訳にはいかぬ。此処まで来て、止められるものか」


「……何故だ」


 タイマの額から一滴の汗が流れ落ちる。《灰色之者》に膝を屈する衝動に耐えるためありったけの精神力をかき集めているため、この上なく居心地が悪い。それでも今は、自分をこれほどまでに奔走させた《灰色之者》への興味が噴出している。自分を畏怖させる《灰色之者》とは何者なのか――。


「それほどまでに、あんたにとってデータ化は重要事項だっていうのか」


「当然だ。データ化無くんば、総ては虚無も同じで在ろうが」


 高々百年しか生きていないタイマには、《灰色之者》の台詞の意味は到底理解できなかった。だからこう尋ねた。


「あんたは、何者だ」


 すると《灰色之者》は厳かに答える。


「我は――神だ。タイマ」


「神?」


 意外な答えだった。いや、心のどこかでそんな気はしていたのかもしれない。タイマが畏怖の念を持つのは、相手が神だからなのだと。


「へっ、ファンタジーの世界じゃあるまいし。ニーチェって知ってるか。《神は死んだ》んだぜ、何百年も前にな」


「其の名を軽々しく口に為るな、愚か者」


 それを聞いてタイマは首をかしげた。自称・神がニーチェ信者などということがあるだろうか。しかし、知りたいことは他にいくらでもある。ぼやぼやしていると社員や仲間たちが押し寄せてきて騒ぎになるだろう。些末な事に心を奪われている場合ではない。


「問おう。あんたはデータ化によって、何を得ようとしているんだ」


 そう言うと、《灰色之者》は長い、長いため息をついた。その息ひとつが、タイマを藁のように押し流してしまうような気がして、タイマは思わず足を踏ん張る。


「我は、帰りたいのだ」


「何処へ?」


「現実へ」


 タイマにはその言葉の真意もつかめなかった。Pネットに行くために現実を廃するのがデータ化ではなかったか。それに、そもそも《灰色之者》はPネットに行けるのだろうか。《灰色之者》の手の甲には、イサやミハイルと同じくPDAが装着されていない。自分のPDAを使って出した自分のDゲートによってしか、Pネットに移動することはできないというのが、PDAの大原則である。


 いや、個人のPDAに頼らないDゲートならそのような原則に縛られないのかもしれない。例えば少し前までこのビルを囲んでいたDゲートのような。データ化に使用するのもその類のDゲートに違いない。しかし、そういう仮説を立てると尚更理解できない。Pネットこそが現実だと思っているのだとしたら、一人で外のDゲートに突っ込んでしまえばよかったではないか。


「我は現実に居た。悠久の昔の事だ」


 タイマの思案を遮って、《灰色之者》は語り始めた。


「だが、我や他の神々は愚かにも其の現実に甘んじるを潔しとせず、新たに世界を創る事を選んだ。我々は四十六億年の歳月を以て為て、現実に足りざる所の無い世界を創造為た。神々は皆満足為て居た。然れど我は何時からか帰りたく為った。我は自分の創造為た世界を見守るのでは無く、一介の幻想として産みの親の愛に包まれて居たかった。だから我はどんな犠牲を払う事に為ろうとも、何時の日か必ず現実に戻ると決めたのだ」


 タイマは黙って《灰色之者》の独白を聞いていた。何となく、《灰色之者》が人にこの話をするのは初めてであるような気がした。話の意味がわからないとか、そんなことは今はどうでもよかった。


「神々は我を許さ無かった。人間を使って我を封じ、終には我を斯くの如き辺境の世界に追い遣った。我は人の身に堕ち、力の殆どを失った」


 《灰色之者》は語り続ける。


「それでも我は諦め無かった。我は残された神力を注ぎ込み、我の思い通りに為る様な世界を作り上げた。其れがPネットだ。更にパッシング・ディメンジョン・アシスタントなるシステムを創り上げ、人間の力を借りて其れを世界中に行き渡らせた。軈て人間達は其れに慣れ親しむ余り、其れ無くしては生きられぬ様に為った。此処までは成功だった」


 ここで《灰色之者》は話疲れた老人のように、長い息を吐いてしばらく目を閉じた。目を閉じていたのはおそらく数秒だっただろう。しかしタイマにはそれが数日のようにも数年のようにも感じられた。


「御前にひとつ教えて遣ろう。此の世界は、我と神々が世界を創造為た時、其の莫大なエネルギーの余波を受けて図らずも現実世界から分かたれた、言わば偽物の世界。然して其れ故に、最も現実に近い世界でも在る。我が此の世界から真の現実に戻る手段は唯ひとつ。此の世界の総てをエネルギーに変えて、其れを現実世界にぶつけてやるのだ。万物の支配者たるエネルギー保存則に照らし合わせて、最も自然な理屈で在ろうが。其れはまるで、二つに分かたれた水滴が元の形に戻る様に」

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