第五章-52



 続々と現れる社員たちを、数の暴力でいなしながら、やっとの思いで九階まで上ったとき、もはや先行していた数百人は全滅しており、タイマは先頭集団の一人になっていた。十階への階段を上り始めたとき、突然いくつか上の階からガラスの割れる凄まじい音が聞こえた。吹き抜けにガラスの破片がばらばらと降り注ぐ。反射的に階段から離れて壁に身を寄せた。ガラスの雨が止んだのを念入りに確かめてから、吹き抜けの柵から下を見下ろす。一階のエントランスホールに大量のガラスが散っていた。Dゲートがあるとはいえ、あれが上から降ってきたならどんなに怖いだろうかとタイマは戦慄した。デイタが真下にいたのでなければよいが。


 いったい何が起こったのかと上を見上げるが、階下からでは肝心なものは何も見えない。やはり、まずは階段を上るのに集中しなくては。


 再び十階への階段に足をかけたとき、上から拡声器か何かを通して声が聞こえてきた。それは忘れもしない、ミハイルの声だった。


「タイマ。君の大切なアルカはこちらの手に落ちた。今や彼女の運命はこちらに握られていることを知るがいい」


 満を持してのミハイルの登場に、まばらな銃声だけを残して、ビルは一気に静まりかえった。果たしてそれはこれまで人類の宿敵ミハイルに勝てる者はいなかったという絶望のためか、それともついにミハイルを打ち倒すことができるという希望のためか、ショックのあまり青ざめたタイマには判別できない。


「はったりだ」ここまで脱落することなくついてきた、《チルドレン》の最後の生き残りが、タイマの肩を叩いた。「宇宙船の乗組員たちは、ナギサ様の部下の中でも世界中から選りすぐられた精鋭ばかりだ。アルカを誘拐することなどできるものではない」


「いいや」タイマは頭を抱えて首を振った。「ミハイルはしょうもない嘘をつく奴じゃない。やはり、離れるべきじゃなかった。危険を覚悟で連れてくるべきだったんだ」


「ええい、今更悔やんでも仕方なかろうが。それより……どうするつもりだ? アルカ一人のためにここで諦めるわけにはいかんぞ」


 タイマは優しすぎるな、というデイタの声が脳裏に蘇った。タイマは拳を血が出るほど強く握りしめた。


「んなこたぁ、わかってんだよ」


 そのとき、ミハイルの第二声。


「タイマ。アルカを助けたくば、一人で十二階まで上って来い」


 タイマは腹立ち紛れに柵を殴りつけると、階段に向かって駆け出した。その手を《チルドレン》が掴む。


「まさか行くつもりか? ふざけたことを。絶対に行かせはせんぞ。おまえを犬死になどさせたら、ナギサ様にも、仲間にも、これまでおまえを守って犠牲になってきた者たちにも申し訳が立たん!」


「わかってるって言ってんだろ! 黙れよ!」


 タイマはその手を強引に振り払って飛び出した。《チルドレン》は歯をむき出して追いかけてきたが、足はタイマの方が速い。ぜいぜいと荒い息を吐いて立ち止まる《チルドレン》を尻目に、すまん、と心の中で一言呟く。


 だが、激情の後押しを受けたとはいえ、勿論犬死にする気で飛び出すほどタイマは愚かではない。十階より上に社員の数が少ないのは下から見てだいたい見当が付いていた。それに、その気になれば一人で百人くらいは相手にできそうなミハイルが、攻撃に参加することもなく、わざわざ外に残してきたアルカを用意してまでタイマをおびき出そうとすることに、作為を感じたということもある。何を考えているのかは知らないが、話が全く通じない相手というわけでもないということはクラスノヤルスクでわかっている。一人で相対すれば、付け入る隙も生まれるかもしれないのだ。


 十階には人っ子一人いない。十一階も左に同じ。


 息を切らしながら十二階の階段を上りきると、窓から突っ込んできたものの正体がわかった。それはタイマたちが宇宙ステーションから乗ってきた宇宙船だった。エレベータホールに相当な勢いで突っ込んだのがガラスの散らばり具合からわかるが、黒光りする外装には傷ひとつ見当たらない。流石はフェニックス・コーポレーション製といったところか。


 その宇宙船の出入り口のそばにミハイルが立っていた。そばの地面にアルカを寝かせて、その頭に例の銃を突きつけている。アルカの手足はぐったりと弛緩している。どうやら眠っているようだ。


「ようこそ、タイマ」


 タイマが慎重に近づくと、ミハイルは指をパチンと鳴らした。するとタイマと後方の階段との間に隔壁が下りた。思わず身構えると、ミハイルは「待った待った」などと言い出した。


「ようやくこの機会が訪れたよ」ミハイルは銃をアルカの方に向けたまま、タイマに笑いかけた。「でもまあ、結果オーライだ。想定外の出来事の連続で長らくブリーフィングができずにいたが、君は自力でここまでたどり着いてくれた」


「何を言ってるのかさっぱりわからんが」タイマはミハイルを恨みのこもった目で睨み付けた。「アルカに銃を向けるのをやめろ」


「それはできない。それをやめたら君は何をしでかすかわからないからね」


「銃を向けるのをやめろ。でないと話を聞いてやらん」


 ミハイルは肩をすくめて、タイマの言う通りにした。しかし、まだ油断するには程遠い。


「何が望みだ、ミハイル」


「望み? そんなものは決まっている。《灰色之者》の抹殺だよ」


 抹殺、という言葉に、タイマは眉をひそめた。PDAコーポレーションの腹心として働いておきながら、その目的は社長の抹殺だと? いや、それよりも……。


「やはり、イサの仲間なんだな」


「イサ? ご冗談を。彼女とは仲間でもなんでもないさ」


「しかし、イサも全く同じことを言っていたぞ。目的は《灰色之者》を殺すことだと、はっきりとな」


「目的が同じでも仲間とは限らない。ところで、イサは十分事情を説明してくれたのかい?」


「いいや。知らない方がいいこともあるとさ」


「なるほど、確かにそうだ」ミハイルは可愛らしくうんうん、と頷いた。「こちらとしても、今更説明すべきことが多いとは思っていない」


「そりゃどうも。ところで、さっさとアルカを解放してくれないか」


「それはできない。先に僕の頼みを聞いてもらう」


「言っておくが《灰色之者》を殺せっていうんなら、そんなのはごめんだぜ。俺は元々デモをしに来たんだ。押し込み強盗みたいな真似をしているだけでも本当は心苦しいのに、この上殺人なんぞできるか」


 ミハイルはそれを聞いてハハッと笑った。


「大丈夫。そんなことは頼まない。第一、君がそれができるようなタマなら、先に邪魔な人質を撃ってPネットに送り返しているはずだ」


 君に頼むのは説得だ、とミハイルは意外なことを言った。


「それこそ君の十八番だろう、違うかい? 最上階に行って、《灰色之者》を説得して、データ化をやめさせてほしいんだ」


 何故自分にそのようなことを? ミハイルの思考が読めない。だが、アルカを人質に取られている以上は、指示に従うしかない。説得をするだけでよいというのならばまだマシであろう。


「わかった。そのかわり、必ずアルカを解放しろよ」


「勿論さ。健闘を祈る」


「ケッ、しらじらしい」


 そう吐き捨てると、ミハイルが歩いて近づいてきた。


「《灰色之者》のところへ行くのなら、これを持って行け。きっと役立つから」


 てっきり例の銃をくれるのかと思ったが、ミハイルは「武器を持って説得しに来たと言ったって信用されるものか」と言って一笑に付した。彼が差し出したのは自分の目から取り出した紅いコンタクトレンズだった。手に取って、しげしげと眺めてから目に装着してみる。色つきのレンズであるにも関わらず、装着して特に視界に変化があるということはなかった。


「それは《ラプラスの悪魔》。高性能コンピュータを内蔵したレンズだ。《灰色之者》や社員がもし攻撃してきても、これの指示に従って動けばほぼ確実に躱せる」


「飛行機は躱せなかったけどな」


「無茶言うな。あれは反則みたいなものだ」


 ミハイルはそう言って相好を崩したが、タイマがつられ笑いすることはなかった。


「今はコンタクトレンズがないから攻撃を躱せないんだよな。後でシャークの分、思いっきりぶん殴るから覚えとけ」


 ミハイルはレンズなどなくたっておまえのへなちょこパンチなど食らうものか、というような表情を一瞬浮かべたが、すぐに真面目な顔に戻った。それからミハイルはロシア帽を脱いで地面に落とすと、こちらに向かって捧げ銃をしてみせた。タイマは軽く舌打ちしてからミハイルに背を向け、それから十三階への階段に足を掛けた。


 まもなく最上階に着く。そこで全ての元凶、《灰色之者》とやらが待っているのだ。そう考えただけでも、どっと緊張して足下がおぼつかなくなりそうだ。タイマは自分の膝を叱咤激励しつつ、立ち止まることなく強引に歩を進めていった。

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