第四章-46



「しかし、それなら、何故おまえは一度も、シャークに自分が生きていることを伝えなかったんだ? 死んでもいない自分の復讐に命を燃やすシャークを、ただ眺めていたのか。これはちょっと残酷に過ぎるんじゃないのか」


 それにイサはしばらく答えなかった。おそらくそれにも何か事情があるのだろうとは思っていたので、詰問するような口調をとるのはなるべく避けたのだが、それでもイサには随分と応えたようだった。イサは身体を起こしたが、それでもタイマと目を合わせようとはしなかった。


「仕方ないじゃない」イサは今にも泣き出しそうな声で言った。「私の使命は、《灰色之者》を殺すことだもの。カイトが復讐に情熱を燃やしてくれるのなら、私にとってそれは好都合だったのよ」


「つまりおまえが言っていた愛とは、使命なんぞに負けるような――」


「言わないで」


 イサが目を伏せたまま、拒絶するようにタイマの前に手の平を突き出した。


「カイトの甥っ子を、嫌いになりたくないから。それ以上は言わないで。たかだか百年しか生きていない小童が、理解したような口を利かないで」


 そう言われるとタイマは黙らざるを得なかった。とっさに口走ってしまったが、確かにデリカシーを欠いていたかもしれない。イサにとっても、現在話しているのは本来知られたくない自分の弱みであるはずだ。それをあえてさらけ出してくれているのだから、タイマがそれを聞いてどう感じたにせよ、今は急所をえぐるようなことを言うべきではなかっただろう。


「……それに、理由は他にもあるわ。あるとき、PDAは巨大な監視機構だという可能性が指摘されたの。情報筋によると、少なくとも現実世界においては、VER3以降の全てのPDAは、それを持つ人間が見たこと、聞いたことの全てを、《灰色之者》に直接伝えるようになっているのではないかというのよ」


 そのことの意味がわかる? とイサは問う。


 酔い痴れた頭が、結構な角速度で回り出すのを感じる。世界中の人間の視覚や聴覚が生身の人間に流入すれば到底無事ではいられないだろう。となると《灰色之者》とやらはPDA全体をグリッド・コンピューティングによって操作し、情報処理を行っているのか、はたまた二十世紀のSFよろしく《灰色之者》自体が情報処理に秀でた超高性能のAIやロボット生命体であるのか――。


 その考えを話す前に、イサは追憶を再開した。


「このシステムを恐れた私は、どうしてもシャークに近づくことができなかった。そうしたら最後、シャークのPDAを通じて私が生きていることやシャークの正体が《灰色之者》に伝わって、シャークが再び狙われることになってしまうから。彼があなたに会ったとき、知らないふりをしたのも、おそらくそれを防ぐためでしょうね」


 確かにそうだとすると辻褄が合う、と頷く。タイマは自分のPDAを気味悪げに眺めた。それから、イサの言葉を信じた場合必然的に到達してしかるべき不安感に胸を蝕まれた。


「おい、ちょっと待て。つまり、その噂が本当だとしたら、現にこの会話も、全部その灰色のナントカに伝わってるってことなのか。そうだとしたら、それはまずいんじゃないのか」


 イサはまだ悲しそうな顔をしていたが、それでも僅かにクスッと笑った。


「心配ないわ。世界に対するハッキングの中途段階で、PDAコーポレーションと各個人のPDAとの間のネットワーク回線の一部を切断したでしょう。だから、そんな機能があったのだとしても、もはや今は機能していないはずよ。実は、それもまたハッキングの目的のひとつだったの。《灰色之者》に聞かれているかもしれないという状況では、あまり突っ込んだ話はできないでしょう?」


「なるほどな。それはよかった。ちょっとひやひやしたぜ。ところで……さっき言った、使命が《灰色之者》を殺すことっていうのはどういうことなんだ。言っとくが、俺にとっては《灰色之者》なんかよりおまえの存在の方がよっぽど謎だぞ」


 するとイサはテーブルに頬杖をついて、背筋が寒くなるほど妖しい笑みをタイマに向けた。


「あなたは、私が宇宙人だとか異世界人だとか言ったら、それで納得するの? 知らない方がいいことだって、この世界には存在するのよ」


 イサはふと、外の景色を見た。宇宙空間は大抵明るいので、昼夜の感覚が薄れてしまう。そのせいでつい徹夜してしまいがちにもなるのだが。タイマがイサにしたがって地球を見下ろすと、遥かアメリカ西海岸の沖の辺りに、明暗境界線が見えた。


 この境界線のように、きっとタイマとイサの間には確かに、くっきりと明確な隔たりがあるのだろう。そして多分、イサとシャークの間にも。


 とりあえず今は、イサにこれ以上質問しないことに決めた。


「今、日本時間で午後十一時というところかしら。明日の早朝に日本に向かう気があるのなら、あなたはそろそろ寝た方がいいわよ」


「それもそうだな。突拍子もない話で、逆に目が冴えちまったけど」


 タイマが立ち上がって、ベッドにごろりと転がると、


「あなた、女子と同じ部屋で寝る気? 非常識な男ね」


「は?」


 タイマが寝耳に水を食らったようにがばっと身体を起こす。イサは悪戯っぽい顔で微笑んでいた。


「アホか、おまえは。ここはそもそも俺の部屋だ。んなこと言うなら出てけ」


「私の部屋、用意されてないもの。あなたが出て行って。それとも疲れてる私を床で寝かすつもり?」


「……この期に及んでいきなり何を言い出すんだ、この女は」


 一週間の間一度も寝なくたってぴんぴんしている癖に、とタイマは歯がみする。


「そんなこと言わないでよ。ずっと手伝ってあげたじゃない」


「いや、むしろおまえの目的を達成させるために俺が徹夜して手伝ったという方が正しいような気もするが」


「ごたくはいいから。出ていけって言ってるでしょ。私の命令が聞けないというの?」


「え、命令……?」


 タイマはイサに当惑した顔を向けた。イサはといえばただ不思議そうに首をかしげている。


「……おまえの思考回路は、いったいどうなっているんだ」


 ソファででも寝ればいいだろ、とよほど言いたいところだった。だが、イサの性格では一度言い出した我が儘はてこでも曲げないだろう。それにアルコールに汚染された頭では口論する気力も湧かない。結局、タイマはため息をついた。


「……ったく、わかったよ。じゃあな、また明日」


「ええ、おやすみなさい。ところで、展望室へ行ってみたらどうかしら。面白いものが見られるかもしれないわよ」


 展望室はドーナツ型の宇宙ステーションの、向かい合ってちょうど反対側に位置している部屋だった。ふと、イサが少し前からしきりに窓の外の展望室の方向を気にしていたことを思い出す。イサが面白いもの、という言葉を口に出すと嫌な予感しかしないのだが、とりあえず拒むのも面倒なので適当に頷いた。


 ぶつくさ文句を言いながら、毛布と枕だけを小脇に抱えて部屋の外に出る。扉を閉めかけたとき、少し気になって中をもう一度のぞいてみると、イサはタイマのベッドに転がって、腕で足を抱えて丸まったような格好で目を閉じていた。顔は青白く、気のせいか死体のように見えた。


 タイマは首を振ってその感覚を振り払い、情緒不安定女め、と呆れ混じりに呟きながら、そっと扉を閉めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る