第四章-45



「それじゃ、乾杯だ」


「ええ」


 心地良い音を立てて、黒檀のテーブルの上でグラスがぶつかり合った。血のような色のワインを、時間をかけてゆっくりと飲み干す。甘やかな味が口いっぱいに広がる。あまりの心地よさに、ほぼ徹夜で何日も作業をし続けてきた疲労も吹っ飛んでしまうようだった。


 グラスを置く。


 テーブルを挟んで対面しているイサに、タイマは話しかけた。


「とうとうやったな」


「ええ」


 イサは二杯目を顔の近くに持ち上げたまま、頷いた。今その顔にあるのは、これまで何度も見せてきたような血も凍るような冷笑ではなく、穏やかで温かい微笑みだった。


 イサがグラスを置いたので、タイマはボトルを傾けてそれにワインを注いでやった。自分のグラスにも、若干控えめに。昨今珍しくノンアルコールではないので、イサと同じ速度で飲んでいるとこちらの身体がもたないのだ。


 しばらく、ワインを注ぐ音とグラスを置く音を除いて、静寂が続いた。


 イサが十杯目近くになるワインを注ごうとしたところで、二本用意していたボトルが全て空になった。


 その頃には、タイマは遅れてやってきた酔いで意識が朦朧とし始めていた。


「あなたは本当によくやってくれたわ」


 イサが親しげに話しかけてくる。その姿が二重に見えるが、目をこする気力もない。


「流石はシャークの甥ってところね。何といっても、粘り強さが違う」


「シャークとは、どういう関係なんだ?」


 イサは空っぽのグラスを口に持っていった。それから、悲しげに微笑んだ。蒼白とさえ表現できそうだった顔が、今はほんのりと紅潮している。


「恋人、だった」


 イサは照れくさそうにえへへ、と笑った。


「私の初めての恋人。それから、多分最後の恋人だったと思う」


 タイマは「そうか」と言ったきり、無理に詮索をしようとはしなかったが、今宵のイサは饒舌だった。


「私は今、酒に酔っている。だから何でもかんでも喋ってしまう。そういうことにしておいて」


 イサは突然、裸足をテーブルの上に投げ出した。グラスがひとつ倒れて、タイマは慌ててそれを直す。


「シャーク……いや、カイトに初めて会ったのは今からちょうど百年前。最初は彼が完成直後だったPDAのOS1を手に入れたことに目をつけて、利用するつもりで近づいた。だけど、私はいつからか彼のことを、自分でもいまだに信じられないくらい好きになってしまったのよ。


 それからの十四年間は私の人生で最も楽しかった。


 私が彼にご飯を作ってあげると、カイトはどんなものでもおいしいおいしいと食べてくれた。


 壊れた旧式のバイクを直すために、夜も寝ないで一緒に作業を続けたこともあった。作業が終わったら今みたいに祝杯をあげて、それからカイトは私をぎゅっと抱きしめてくれた。


 休暇が取れたら、二人で世界のあらゆる場所を旅したわ。


 アイスランドを縦断して初めて見たオーロラは本当に美しかった。ウユニ塩湖を手を繋いで歩いたときは、世界に私たち以外の存在は消え失せてしまったように感じた。


 ドイツのオクトーバーフェストでは、いつの間にかはぐれてしまった私を、カイトは何百万人もの人たちの中から自力で見つけ出してくれた。


 グレートバリアリーフのハート型の珊瑚礁は、私たちの間の愛を象徴しているようだった。


 そして、こんな日々がずっと続くのだと思っていた」


 イサはだらしなく放り出していた足を引っ込めると、身体を九十度回転させ、ソファの上に寝転んだ。こちらに背を向けて、淡々と話し続けた。


「私たちは世界のどんなカップルよりも愛し合っていたけれど、私は彼と結婚することが正しいことだとはどうしても思えなかった。だって、私はOS1を導くためだけにこの世界に存在しているのだから。そもそも、私には本来、恋愛という機能はまったく搭載されていないのよ。そんな私が彼と結婚するだなんて、おこがましいと思い続けていた。だけど、そんな私さえも、カイトは認めてくれた。私は彼の求めに応じて、とうとう結婚を承諾してしまった」


 イサの声ににじむ深い悲しみに、タイマまでこれから何が語られるか何となく想像がついた。


 こんな声も出せる奴だったのだな、ということをタイマはこのとき初めて知った。


「別に、無理に話す必要はないぞ」


 そう声をかけたが、イサは向こうを向いたまま首を振った。


「結婚式が行われたのは、八十六年前。あなたが中学生の頃かしらね。現在まで続く優良モデル、PDA.VER3が発売し、同時にPネットが開設を迎える、ちょうど一週間前のことだった。式には、あなたの父親、つまりカイトのお兄さんにあたるPDAコーポレーションの技術顧問ナイトは出席していなかったわ。なんでも、出張先で予期せぬ事故に巻き込まれて大けがをしたそうよ。だから、代理としてPDAコーポレーションの社員が数人出席してきたの。そして彼らは、私の手の甲にPDAがないことにたちまち気付いてしまった。誓いのキスをする寸前に、突然照明が落ちて、それからはもうメチャクチャ。気が付くとカイトが私の手を引いて、裏口から逃げていた。その夜、カイトは足がつかないように、PDAのOSをアップグレードしてOS2にした。それからの六日間、私たちはあてのない逃避行を続けたわ。だけど、とうとう……見つかったの。《灰色之者》に」


 初めて聞く単語だった。しかし、タイマはそれを聞いただけで肌がぞわっとするような不安感と異質感を味わった。


「その《灰色之者》っていうのは何なんだ」


「PDAコーポレーションの創始者であり、現社長よ。そいつが、私とカイトを断崖絶壁の前に追い詰めて、私はそこから落ちてしまった。それが今生の別れだった。


 私は不死の身体を持っているから助かったのだけれど、一人残されたカイトは私が死んだと思い込んだ。そのせいで、しばらくは失意のどん底にあったようだけれど、凄く意思の強い人だったから、やがて《灰色之者》への復讐を考えるようになった。それで、カイトは《灰色之者》に割れてしまった顔と名前を変えて、PDAコーポレーションへと就職した。そこで彼は、あなたの父親、ナイトと同じ役職を務め、表向きはPDAのアップグレードのために邁進したのだけれど、裏では《灰色之者》を殺すための兵器を開発し始めていたの」


「カイト叔父さんがシャークになったというわけか」


「いいえ、それはまた後の話。あるとき、彼は小型の核兵器を持って、PDAコーポレーションの社長室へ押し入ろうとした。ところがそれは失敗に終わってしまった。武装した大勢の社員たちに囲まれ、窮地に立たされた彼は、Dゲートを利用して難を逃れた。何年かPネットに潜伏した後、ほとぼりが冷めた頃に再び現実世界に現れた。そこで即座に二度目の整形手術を受け、その結果今のシャークが生まれたってわけ」


「そういえば宇宙ステーションに来た日に、その話は断片的に聞いたな。ここまで詳しくはなかったが。それで、以降ミハイルによって殺されてしまうまで何十年もずっと、シャークは秘密裏にPDAコーポレーションへの復讐に努めていたというわけか。イサは、例によってシャークを影のようにストーキングしていたからそれらを逐一知っていたんだな」


 タイマはアルコールの回った頭で、イサの暴露話を冷静に整理していった。謎が糸のように絡み合って全貌がわからずにいた、イサやシャークやOS1やPDAコーポレーションに関する因縁が、次第に明らかになっていく。だが、現時点ではまだ納得できないことの方が遥かに多かった。

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