第四章-42



 沈黙を破ったのはアルカだった。


「うわああタイマが浮気したああ」


 アルカに泣きつかれたナギサは困り顔になって、部屋を見回してこう言った。


「これはひょっとして修羅場とかいうものですか。どうしましょう、恋愛経験なんてありませんから、どうしていいかわからないわ」


「ちょ、ちょっと待ってくれ」タイマが部屋の真ん中で両手を挙げて、主に殺気立ったリューを落ち着かせようとしながら、ようやく弁解を始めた。「俺だって、これまで恋愛経験ないわけだし、いきなり浮気とか言われても意味不明なんだけど」


「恋愛経験がないのは俺とて同じだ。でも多分おまえが悪い」


 リューが真顔でそう言った途端、謎の女がこらえきれずに吹き出した。リューはそれをきっと睨んでから、タイマへ視線を戻す。


「それなら説明しろ。何でこの女が……イサがここにいる?」


「やはりイサのことを知っていたか」


「ああ。彼女は俺にOS1について教えてくれた協力者だ」


「まあ!」それを聞いたナギサが突然感動詞を発した。「ということは、私を除く四人は、四角関係にあるということなのですか? そんなもの映画だけの話だと思っていました」


「そんなひどい」


 ショックのあまり気が動転したのか、アルカは俯いてナギサにもたれかかりながら、肩のあたりをぽこぽこ叩く。見かねたリューがナギサに対してため息交じりにこう言った。


「話がややこしくなるから貴女は黙っていてください」


 それからリューはタイマ及びイサと呼ばれた女の方へ向き直った。さっきからソファの背もたれに顔をうずめて笑い転げているイサを気味悪そうに見つめながら、タイマに問う。


「まず、こいつは何故ここにいるんだ。ミハイルを締め出すために、軌道エレベータのかごの乗員は厳しいチェックを受けたはずだが。タイマ、おまえが手引きしたのか? まさかとは思うが、独断でこいつを招き入れたのだとしたら……」


「いいえ、そうではないわ」


 答えたのはイサだった。表面上は笑い止んだように見えるが、口角が少し上がっている。人との円滑なコミュニケーションに最も重要なのは笑顔だと考えているようなタイプには見えないから、多分まだこみ上げる笑いと戦っているのだろう。


「あなたがクラスノヤルスクの核施設に飛行機で突っ込んだとき、私は隙をついて車輪格納室に隠れ、あなたたちに知られることなく密航した。軌道エレベータでも要領は同じ。かごが動き出す直前にエレベータ外側面に飛びつき、そのまま宇宙まで押し上げられてここにたどり着いた。しっかし、流石の私もかごが熱圏に達したときは暑くて死ぬかと思ったわよ。最終的には二千度くらいにはなったんじゃないかしら。着ている服をチタンケースに入れて守らなくてはならなかったわ」


「何? それが本当だとすると、とんでもない話だが……どういうわけか、嘘を言っている感じではないな。となると、おまえもミハイルと同じか。不死身なんだな。原理はさっぱりわからないが」


 リューはイサを猜疑心のこもった目つきで眺めた。


「それほど大変な目に遭っても果たしたかった目的は何だ」


「OS1を利用した世界に対するハッキングについて、タイマに啓蒙し補助すること」


 アルカは慎重に、イサの言葉を咀嚼した。彼女の言うことを信じればつまり、さっきまで二人が部屋にこもっていたのは別に逢い引きしていたわけではなく、世界に対するハッキングとかいう目的があってのことだった、ということか。


 自分でもうまく言い表しがたいような漠然とした不安が、たちまち氷解する。それならいいや、とアルカは納得した。


「ハッキングの目的は?」


「PDAコーポレーションの打倒」


 それを聞くと、リューは生きることの辛さ苦しさを知った老人にしかできないやり方で、時間をかけてゆっくりと息を吐いた。


「もうひとつだけ訊きたい。不死身、手首にPDAを持たない、それからさっきの話から察するにAスーツを着ておらず生身である、という辺り、ミハイルとは随分と似た体質のようだが、君は彼の仲間ではないのか」


「……まさか」


 一瞬おいて、囁くようにそう答えたイサは、傍から見ているアルカさえ思わずぞくりとするほど美しかった。その瞳を覗き込んでしまったらしいリューはすぐに視線を反らし、そっぽを向いてこう言った。


「やはり嘘ではないらしいな。わかった。君を信じよう」


 リューは自分の嘘を見破るという能力を信用しきっているようだが、果たしてイサにも通じるのだろうか、とそのときアルカは訝った。リューの能力の正体は生来の直感と、長年の経験によって培われた感覚が組み合わさったものであるようだが、それは絶対に確実なものとは言えないはずだ。にわかには信じがたいとはいえ、イサがミハイルと同じく不死身なのだとしたら、彼女は何百年、何千年と生きて莫大な人生経験を積んでいる可能性もあるということだ。そうだとしたら、彼女にとって幼子にも等しいであろうリューを欺くことなど造作もないことだろう。


 そのとき、イサがこちらを向いた。少し不思議そうな表情をしたのは、アルカの顔に不安が浮かんでいたからだろうか。それでもイサはこちらに余裕のこもった微笑を向けてきた。


「よろしく、アルカちゃん。少なくともタイマと一緒に世界を変えるまでの数日間、一緒に頑張りましょう」


 アルカは何となく居心地の悪さを覚えながらも、おずおずと頭を下げるしかなかった。





 僕はどれほど遠くへ、来てしまったのだろう。


 そのような想いを抱くのも、もう何百回目かになるはずだ。


 Pネット内の通路の、水晶のような壁に囲まれた路地で、デイタは今日も、可能な限りの大声で叫ぶ。見知らぬ場所の見知らぬ誰かに向かって。


「ずっと前からPネットにいる者も。つい最近Pネットに入った者も。僕の声が聞こえるのなら、どうか耳を傾けてくれ。いいか、PDAコーポレーションは、現実世界を消失させようとしている。その真意は不明だが、少なくとも僕たちに対して害意を抱いていることは間違いない」


 一拍おいて、四方を見回す。周りには誰の姿も見えない。それでもデイタは叫ぶ。遠くに見える角の向こうで、話を真面目に受け取ってくれる可能性のある誰かが歩いているかもしれない。


「唐突に何を言うかと思う人もいるだろう。だが、聞いてくれ。千万人以上の人をこのPネット送りにした殺人鬼ミハイルも、実はPDAコーポレーションの社員だったんだ。この録音がその証拠だ」


 デイタが目の前の空間に浮かんだPDAのパネルに触れると、すぐに音声が流れ出す。勿論、その内容はリューに転送したものと同じ。デイタがミハイルと対峙したときの会話の記録だ。ミハイルがPDAコーポレーションの社員だと断定するデイタの鬼気迫った声も、茫然自失気味にそれを認めるミハイルの声も、Pネットの静謐な空気にはそぐわない。それでも、デイタは気にせず音量を最大にしたまま音声を繰り返し流し続けた。周囲の迷惑になりはしまいかと不安を抱くような小市民的気質など、とっくのむかしに捨ててしまっている。


「ミハイルの凶行をはじめとして、PDAコーポレーションは僕たちに明らかに害意を向けてきている。にもかかわらず、僕たちはそれに反撃するどころか、PDAに依存し、骨抜きにされてしまっている自分を省みようともしない。今の僕たちの有様を見るがいい! 決して脱ぐこともできず、身体からエネルギーを吸い取ることでPDAに動力を供給するAスーツを着せられ、さらには安易にDゲートを使ったばかりにこのような狭苦しいPネットに閉じ込められて、なおPDAを使えることを喜んでいる。まるで毒餌にむしゃぶりつく、出荷寸前の豚そのものではないか!」

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