第四章-40
見回しただけで一目でナギサのものとわかるような、そんな部屋だった。遙か昔、タイマたちと一緒にナギサの家に遊びに行ったときに見たものとほぼ変わらない。チェス盤のような床、天蓋付きのベッド、年代物とおぼしきタンス、金色に縁取られた姿見、とどこを見ても豪華を絵に描いたような様子である。アルカの作ったチョコレートケーキはおろか、ジョンとクロードの作ったフランス料理のフルコースさえも、この部屋の前では陳腐に見えてしまいそうなほどだった。足を踏み入れる前に心の準備をするべきだったとアルカは若干後悔する。
さて、ナギサはといえば、ゆったりとしたバスローブを身につけて、壁際に置かれていたテーブルに肘をついて手で頭を支えながら、窓の外を眺め、地球を見下ろしていた。アルカが近づくと、ナギサはこちらを向いてほんの僅かながら口角を上げた。
料理のお盆をナギサの前のテーブルに置くと、ナギサはすぐにチョコレートケーキの存在に気付いた。
「あら? これは……もしかして、貴女が作ったのですか?」
「は、はい。たいしたものではありませんが」
アルカがそう言うと、ナギサは他の料理には目もくれず、ケーキをフォークで優しく突き刺し口に運んだ。
「美味しい……」
素朴な感想を受けて、アルカはゆでだこのように赤面した。もじもじと身体を震わせているうちに、ナギサはケーキをたちまち食べ尽くしてしまった。
「そんなに美味しかったんですか」
「ええ、本当に。まさか、これを再び食べられる日が来るなんて夢にも思いませんでした」
「再び?」
「覚えていないのですか」ナギサは今や一目でわかるほどにはっきりと微笑んでいた。「昔、一度だけチョコレートケーキをくれたことがあったでしょう。二月十四日に、義理チョコだって」
「あ……。思い出しました」
「あのときのケーキはこの世のものとは思えないほど美味しかったわ。どうして次の年からはくれなくなったの?」
「ご、ごめんなさい。ホワイトデーに貰ったお返しが高級過ぎたので、ひょっとして出過ぎた真似をしてしまったんじゃないかと気後れしてしまって」
「まあ、そうだったんですか。気付かないうちに、いささか無神経なことをしてしまっていたのですね。申し訳ありませんでした」
「そんな。謝らないでください」
「それにしても」
ナギサは目を少し細めていた。その口元には自然な笑みが浮かんでいる。アルカは、遥か昔に祖母が安楽椅子の上で良くそんな表情をしていたことを思い出した。
「あの頃は本当に楽しかったですね。毎日のように誰かが遊びに来てくれて、みんなでいろんな話をして、いろんな遊びをした。あなたの作ったチョコレートケーキも素晴らしかった。生活はとても厳しかったけれど、私はあの頃に戻ってもう一度やり直せたら、といつも思っているのです。おかしいでしょうか」
生活がどうとかいうくだりには突っ込んであげようかと多少うずうずしたのだが、ナギサの純真な笑顔を見てしまうと、アルカはとてもそれを実行に移す気になれなかった。できる女は空気を読むのだ。とアルカは思っている。
「早く全てが終わって、私たちもナギサさんも、あの頃のように、いつでも今のような笑顔を浮かべて過ごせる世界になるといいですね」
それを聞いたナギサは頬に手を当てた。驚いたような顔でアルカに問う。
「私、今、笑っていましたか」
「ええ、それはもう」
「そうですか」
ナギサはそれを聞いて、悲しげに首を振った。それからしばらく外の地球を見つめていた。その間ナギサの心中にどれほどの葛藤があったにせよ、彼女はそれを表に出すようなことはしなかった。それから、やがてナギサは何かに覚悟を決めるかのように力強く頷いた。アルカの方に向き直ったときには、その顔に笑みは消えていた。代わりにきりっとした勇敢な表情がそこにあった。
「私は臆病者でした。怖がり、恐れ、不安を抱えて何もできずにいました。しかし、これからは私もPDAコーポレーションと戦います。資金や拠点を提供するだけではなく、私自身が、命をかけて、戦います。そしてPDAコーポレーションを打倒した暁には、その屍の上に立って笑います。笑うことすらできなくなってしまった人々の分まで、私が笑うことにします」
ナギサは早口で喋り終えると、ふー、と息をついた。
「ありがとうございました。貴女のおかげで決心がつきました。しかし……今はとにかく、この料理を食べることが最優先でしょうね」
ナギサは目の前に置かれた料理をしげしげと見た。スープはまだかろうじて湯気を立てている。アルカは気を遣って一歩下がった。
「では、ごゆっくり」
「貴女も早い内におあがりなさい。それから、まだなのであればタイマにも貴女のチョコレートケーキを届けて差し上げるといいわ。きっと喜ぶと思いますよ」
顔が火照ってくる。勝手に笑みが浮かぶ。確かにそれはいいかもしれない。早くしないとジョンやクロードが先に持って行ってしまうかもしれない。
「それでは、失礼します」
一礼した後、外へ出る前にちらりとナギサを見た。彼女はパンを口いっぱいに頬張っていた。その頬を涙が幾筋も幾筋も伝っていた。何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、アルカはそそくさと部屋を後にした。
調理室に戻ると、ジョンとクロードは料理の盆をいくつもワゴンに載せて待っていた。
「戻ったな」クロードが僅かに感慨をにじませる深みのある声で言った。「これらは会議室の連中の分だ。忙しそうだから話し合いながら食べていただく。それと、自室にいるタイマにもおまえから届けてやれ」
高級料理をそんなぞんざいに出していいのだろうかと思わないでもなかったが、役立たずではないところをアピールする機会を与えようというクロードたちなりの気遣いなのだろう。アルカはそう納得して頷くと、ワゴンを押して外に出た。
会議室は宇宙ステーションの居住区のちょうど中央にある。高級ホテルのロビーを思わせる広大な空間の中央に巨大な丸テーブルが置かれていた。席に着く人々は皆、確かに人類代表を思わせる風格があるようにアルカには思えた。話し合っている者もいれば、PDAを盛んに操作している者もいる。リューはといえば一番の上座に座って、紙にメモを書き散らしながら話し合いにも参加していた。
「リュー、料理を持ってきたんだけど」
「ご苦労」リューは軽くこちらに視線をやって頭を下げた。「そこへ置いておいてくれたまえ」
「……なんか偉そう」
アルカがくすりと笑ってそう呟くと、リューは椅子を回転させてアルカの方に向き直った。真面目な顔でこう言う。
「それは悪かったな。しかし、たまえっていうのは一応尊敬語だぞ」
「はいはい」
ワゴンからお盆をひとつ持ち上げて受け渡す。リューは「おっ、重い」と言ってとっさにテーブルの上に置いた。
「ん? このチョコレートケーキ、ひょっとして君が作ったんじゃないのか」
「そうだけど。よくわかったね」
「勿論義理、だよな」
「はい?」アルカは突然のリューの発言に虚を突かれた。「五月二十九日のチョコレートに、義理も本命もないでしょ? ないよね?」
この人の言うことだからひょっとしてあるのかも、と一瞬思いかけたのだが、とうのリュー自身が慌てて否定した。
「い、いやはや、妙なことを口走ってしまった。忘れてくれ」
「うん、わかった……。と、ところで」既に料理の甘やかな香りが漂い始めており、会議中の人々がちらちらとワゴンの方を見ていたので、申し訳なく思いはしたものの、アルカはリューに新たな話題を振った。「ところで、今日本はどうなってるの? 少し前と比べて、何か変化は?」
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